【第六十五話】その男、絡まれる

 この世界の現在の常識に当て嵌めれば、浮浪者やホームレスと呼ばれる存在は半ば常識的な存在となっている。

 皆が元の住居から逃げ、テントばかりの仮の住まいに身を寄せるしかなかった。地力で生活する術を喪失している彼等では所謂運営者や指導者の言葉を信じる他無く、故に殆どは彼等が与えてくれる糧を分け合いながら生活するしかないのである。

 そんな中でも、満足出来ない人間は居た。大して多くも無い不満であるも、募りに募ったものがある日に小さな爆発を起こして行動に移させた。

 探し回ったところでこの街の中で潤沢な物資が手に入ることはないだろうに、それでももしかしてを願って彼等は探しているのだ。海賊漫画に出て来るような煌びやかな財宝を。

 

 肉が食いたい。魚が食いたい。野菜が食いたい。

 ジュースを飲みたい。酒を飲みたい。

 嘗てであれば当たり前のように出来たことも、この時代では不可能になった。着飾ることも、誰かと愛を語り合うことも出来なくなった現行人類は、正しくどん底に居ると言っても過言ではない。

 だから、彼等は心の底に暗い感情を根差し続けてしまった。

 それは羨望であり、嫉妬であり、憎悪だ。自分よりも僅かでも良い暮らしをしている者が許せない。それは本来、俺の物だった筈なんだ。

 見当違いの意見である。如何なる人間でも気が違っていると避けるだろう。――もうまともである人間を探す方が難しいが。


「――おい、そこの」


 一人の浮浪者の男が、通り過ぎた一喜の背に声を掛けた。

 その声に一喜達が振り返ると、睨み付けるような眼差しで震える右手を伸ばす。

 無意識によるものなのだろう。既に肉体が正常な動作を行えず、危機的であることを男に伝えている。

 男は額に布を巻いていた。薄汚れ、碌に洗われていない布は不衛生に過ぎた。

 髪は油で光を発し、服は穴ばかり。露出している手や顔は汚れに塗れ、一度風呂に入った程度でその汚れが落ちるとは思えない。

 ただ、そんな弱者そのものと言うべき男の目は爛々と輝いていた。仄暗い炎を灯し、終わりを加速させてでも幸福を感じたいと切に願っている。

 

「……何か」


「お前、妙に身綺麗だな。 細くもない。 ……なんか持ってんだろ? なぁ?」


「何も持ってはいないさ。 俺達も今色々と探している最中なんだよ」


「う、嘘はいけねぇ。 本当に何もねぇなら、そんなナリはしてないだろッ」


 ゆっくりとにじり寄る様子に不快感を覚えずにはいられなかった。

 声を掛けられることは良い。疑われるのも問題ではない。しかし、この男は自身の直感を信じて無根拠に近付いてきている。

 背負っているリュックには少量ではあるが食料が入っていた。それは今日の飯のつもりであり、当たり前だが男に渡せば一喜の分は無い。

 絶対に渡してはならないものであり、故に静かに一喜は右手を拳に変えていく。

 後三歩。近付いて来るのであれば暴力をちらつかせて脅すことも視野に入れる。

 戦闘の気配を静かに感じている一喜は、しかし不意に視界に入って来た世良に拳を解いた。


「――失せな」


 周りには他の人間が居る。

 その人間達が一斉に目を逸らす程、彼女の言葉は鋭い。

 目前の男は息を吸って、一歩足を後ろに動かした。それで諦めてくれれば良かったのだが、やはり自身の直感を信じていたいのだろう。

 男は恐怖に歪みそうになる顔を無理にでも引き締め、逆に不気味な笑みを浮かべてみせた。

 そして両手でごまを擦るような動きを行い出し、意識して媚びるような声音を引っ張り出す。


「へ、へへへ、そんなこと言わずにさぁ。 ほんの少し、ちょびっとだけで良いんだ。 缶詰の半分もくれれば、それで十分なんだよぉ」


「二度も言わせんなよ。 失せろ、ゴミ」


 媚びる声に世良は変わらず。冷ややかに相手を睨み、言葉でもって相手の心を傷付ける。

 直接的な罵倒はそれだけで関係を悪くするものだ。けれどこの世界では、そもそも怒りを燃やすだけの燃料ももう無いのだろう。

 ゴミと言われ、男が眉を顰めたのは一瞬だった。その後直ぐに不気味な笑みを歪みに歪ませ、その場で膝を付いて額を地面に叩き付ける。

 何度も何度も、血が流れるのも構わず。

 缶詰の中身を半分だけ貰う為なら、この男は容易にプライドを捨て去れる。

 何故ならば、プライドで飯を食えはしないのだから。頭を垂れて従順であり続け、少しでも上位者から情けをかけてもらう。


「くれよぉ、くれよぉ、ちょっとくらいくれよぉ……」


「……」


 異常だった。一喜は物乞いの人間を見たことはないが、それでも元の世界の物乞いよりも彼等の姿勢は低いだろう。

 矜持なんて薄紙程に無かった。ただの路傍の石で、世良の言う通り誰も意識して見ないゴミも同然だ。

 こんな連中がキャンプでは蔓延っている。自殺する気概も無い集団が諦観だけを胸に、無気力状態のまま日々呼吸をしているのだ。

 世良は男が下げた頭を足で踏む。容赦無く踏み付け、痛みの声を男は小さな呻り声で表現する。

 

「キャンプから来たんだろ? なら毎日食い物食えてるだろうが」


「た、足り、ないんだよ……」


「今時一日一食もある方が幸福なんだが。 ……ああ、自分が満足出来れば良いタイプなんだな、お前は」


 彼女の言葉は周囲で様子を見ている他の人間にも聞こえていた。

 自分だけが満足すれば良い。それは何も彼だけの考え方ではなく、キャンプに住まう者の大部分が持っているものだ。

 しかし家族を持つ者はそうではない。少数派ではあるも、家族として纏まっている者達は身内を満足させる為に人として当たり前の行動を取っている。

 故に、この男のやり方は非常識だ。他者の迷惑を考えず、己の我を通すやり方はこの世界では殺害するに足る理由となる。

 更に彼女は何かを言おうとしたが、その肩を一喜が軽く叩いて静止させた。


「世良、その辺でもういい。 こんな奴と話をしている暇は無い筈だ」


「……そうだな」


 踏み付けた足をどかせ、世良はそのまま行く予定の道を歩き出す。

 一喜も男を無視して、歩き出し――その足を男は掴んだ。

 顔を足に向ければ、薄汚れた腕が一喜の足首を掴んでいる。そのまま顔へと目を動かせば、不気味な薄ら笑いが映り込んだ。

 口や額から血を垂れ流したままで、目は未だに輝いている。

 

「どうか、お恵みを……」


「あんた――」


 一喜は咄嗟に足を払って腕を外そうとした。同時に文句も言おうとして、しかし男の目を見て口を噤んだ。

 男は先程と異なり、僅かに瞳を横に動かしている。一喜を視界に入れたまま何処か別の場所を見ているようで、そこに思考が行き着いた瞬間に脳味噌は警鐘を発した。

 掴まれた足を無理矢理に動かして男の顔面を蹴り、距離を取りつつ周囲に視線を巡らせる。

 周りの人間はただ見ているだけだ。一歩も動かず、顔すらも微動だにせず。

 おかしいと、一喜は感じた。


「世良、十黄。 何か変だ」


「……様子を伺っている?」


 十黄は彼等の姿に疑問の眼差しを向けて呟く。

 世良は眦を吊り上げ、敵意を隠さずに周囲を睨み付けた。

 されど、それでも彼等はまるで人形のように反応していない。その目に肉食獣の如き輝きを宿すだけで、しかしそれこそが異常なのだ。

 キャンプの人間ならば、そもそも生に対する明確な執着は無かった。激情を燃やせるだけの燃料が無い状態で、なのに彼等は欲望という熱を有している。

 これは矛盾だ。そしてこの矛盾を解決するとしたら――――彼等は本来キャンプに住まう人間ではない。


「歩くぞ。 なるべく早足で」


 十黄は気付いた。一喜も世良も少し遅れて気付いた。

 三人は周囲の土地を見ず、不気味な視線から抜けるように早足で歩く。そして三分が過ぎても、五分が過ぎても、彼等の目は何も変わらなかった。

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