【第五十九話】その男、別世界を見せる

 土曜零時になるまで、二人は短く世間話をしていた。

 その最中に準備を全て終わらせ、最後にトイレで服を着替えて支度を整える。

 彼が今日本格的に子供達の下に向かうのは昼を過ぎてからだ。深夜に一応は異世界が存在することを証明する為に扉を開けはするものの、そこから先について糸口に進ませるのはまだしない。

 するのは早朝。具体的に言えば陽が登り始めた五時か六時くらい。

 ――そして零時を迎えた時、糸口の持っている携帯が唐突にバイブレーションを起こした。

 咄嗟に一喜が顔をそちらに向ければ、彼女は少々慌てつつ携帯のスリープを切って一喜に画面を見せる。

 バイブレーションが引き起こされている原因は単なる目覚ましだ。真っ暗な画面に白い数字が浮かんでいる画面を見て、一喜は安堵の息を零す。

 

 これ以上の面倒事はもう御免だ。こうして過ごしているのだって彼女の兄達に知られれば大問題となるのに、今から行うのは彼女の身を危険にさせるものである。

 驚かすなと短く注意を入れて、一喜はリュックを持たずに玄関へと歩を進めた。

 糸口は彼の背後を慎重に進む。鼓動の勢いは増していき、既に痛みすら伴うようになってきていた。

 扉のノブを掴んだ時、一喜は最後に彼女に振り返る。

 目が良いんだなと尋ね、彼女は迷い無く首を縦に振った。

 鍵は彼女が入って来た段階から外している。ノブを回し、扉は開かれ――――彼女は目の前の光景に暫し頭が認識出来なかった。


「――――」


 外は暗い。

 零時なのだから当然だが、しかし完全な闇夜という訳ではない。

 この人工の光が満ちる街では有り得ない星々の光が街を照らし、朧気ではありながらも風景を視認可能にしている。

 視界で捉えた範囲でも建物が倒壊していた。外に出ることは叶わずとも、そこが先程外で見たような景色と一変しているのが解る。

 文字通り世界が異なったのだ。この零時という時間を境に、玄関先は全て異世界へと接続された。

 ゆっくりと扉を開けた一喜の横まで移動し、更に左右に瞳を動かす。

 此処は一階なので数多くの建物を見れる訳ではない。精々がこのアパートの一部と、アパートが遮っていない箇所だけだ。


 けれど、それで十分。

 アパートは見事に罅割れだらけで、ガラスは殆どが割れ落ち、放置された所為で苔や動物の糞尿に塗れている。

 その動物の姿は無く、代わりに近くには何の動物かも解らない骨が散らばっていた。

 よく見ていない場所もあるので骨はあるかもしれないが、しかし星の光は少し前までもまったく見えていなかった。この違いは明瞭であり、更に言えばアパート近くで灯っていた筈の街灯の明りも無い。

 あるものが一瞬で消えることなど有り得ないだろう。

 どんな誤魔化しをしたところで、この光景を嘘だと断じることは不可能だ。

 

「……ほ、本当に異世界なんです、よね?」


「ああ。 正真正銘、此処は異世界だ」


 扉が閉められる。

 鍵が掛けられ、一喜の声で二人は揃って元の部屋に戻った。

 実際に異世界を目にしてしまった以上、もう全てを嘘だと感じる思考を彼女はしない。寧ろ、彼女の頭にはあの日喫茶店で話した一喜の言葉が脳裏を過った。

 世紀末のような世界に、そこで暴れる支配者達。対抗出来るのはメタルヴァンガードと呼ばれる特撮作品の技術で、更に一喜自身は子供の世話もしている。

 その過程で人を殺しているのも思い出し、目は自然と一喜に向けられた。

 職場では彼は優しい人間だ。困っている従業員を助け、積極的に業務を行っている。

 自分の時間だけに集中しても良いのに、後の人間も困らないように準備を進めてあげてもいた。

 良い人なのだ、善人なのだ。とても職場では悪事を働くような人間には見えなかったのだ。


 一喜の目を糸口の目が捉える。

 その目には普段とは異なる、不気味にも思える狂気が見え隠れしていた。

 

「……やっぱり知るべきじゃなかったな。 早朝に外に出るのは止めよう」


 けれどその口は、確かに彼女を心配していて。

 糸口は訳が解らなくなった。そんな不気味な目をしているのに、彼は何時だって自分を優先してくれている。

 早朝にそのまま帰れと言外に告げているのも、彼が異世界の空気に触れたことでその色に変わったことを糸口が気付いたからだ。

 あの世界に普通の女性は耐えられない。苦境や苦痛の程度があまりに違い過ぎて、それらに慣れ切っているか狂っていなければ生活することは不可能だ。

 故に、此処で臆したままなら彼女は異世界に関与してはならない。そのまま何も知らなかったかのように、彼との関係が希薄化していくだろう。

 

「ッ、いえ! 私は大丈夫です!!」


 糸口は一喜との繋がりが薄れていく気配を敏感に覚り、即座に否を口にする。

 その勢いに一喜は僅かに目を見開くが、彼女のそれが強がりであるなど自明だ。強がってくれない方が個人的に有難いのだがと思い、されど力強く瞳に炎を灯らせる様を見ては指摘するのも無粋だ。

 彼女は大学生ではない。まだ未成年の部類に入る、言ってしまえば子供寄りの年齢だ。

 大人と呼ばれるにはもっと苦い経験を積まねばならず、それがこの異世界となれば将来的には強い女性になるかもしれない。その前に心が壊れる方が先になる可能性もあるが。

 

「ちょっと驚いていただけですから、早朝にはもっと見せてください」


「無理だと思えば直ぐに言ってくれ。 その時点で止める」


「はい。 それで構いません」


 一先ず、二人の予定は変わることはなくなった。

 この後は身体を休める為に糸口も一喜も同じ部屋の中で座ったまま眠りにつく。本格的に寝ては一喜としては今後の予定が遅れると考え、彼女は単純に異性の部屋で気が抜けずに壁に寄り掛かって意識を薄めた。

 良質な睡眠が取れる訳ではないものの、数時間の眠りですっきりするのは元より難しい。

 慣れぬ体勢を取っていたこともあり、二人は数十分に一度は覚醒を繰り返して早朝の時刻を迎えた。

 起き抜けの気分は共に快調とは言い難い。食欲も湧かず、共に半目を向け合いながらゆるゆると立ち上がった。

 徐々に徐々にと沈んだ陽は登り始め、夜空が青空へと変わろうとしている。

 

「……よし、次は外に出るぞ。 警戒は常に厳で頼む」


「解りました。 何かあれば即座に連絡します」


 一喜は護身にとベルトとカード束を準備する。

 彼女はそれを初めて見たが、どう見ても玩具売り場にあるような代物にしか思えない。これが向こうでの決戦兵器になるなど、一体どうして予想出来るというのか。

 化け物の存在が無ければ一喜自身も気付くことは無かっただろうと鈍っていた頭を強引に回し、一喜の背が動くに合わせて彼女も足を進めた。

 僅かに数時間前と同じく、一喜はドアノブを回して扉を開ける。

 風景に夜と朝の違いがあるものの、壊れかけの建物の姿は相も変わらずそのまま。結局最後の可能性であった幻覚の類も否定され、彼女はいよいよ外へと出た。


「――――凄いですね」


 アパートの外はより異世界であることを強調していた。

 彼女の視覚は常に映画のような荒廃した街が見え、およそ人の気配と呼べるものがまるで感じられない。

 踏み締めた地面にも大きな亀裂が走り、他に何か衝撃が加われば地割れとなってアパートを飲み込んでしまうだろう。

 ほぼゴーストタウンとなってしまった影響か、地面の割れ目から草木が伸びて自然の要素が付け足されている。

 別に大した差は無いものの、崩壊しかけの街に自然となるとどうにも現実味が薄くなってしまった。

 

「空気とかは変わらないんですね。 空にも何か変なものが飛んでいることも無さそうです」


「ファンタジー世界じゃないのは事前に説明したろ? まぁ、そんな世界から出て来たような奴等が覇権を握っている世界ではあるが」


 呆れた一喜の視線を気にせず、彼女はあちらこちらへと目を向ける。

 アパートの敷地外から出ることは許されてはいない。その敷地外ギリギリまで外に向かい、遠目に見える街並みを彼女は眺める。

 少し前であればまったく気にもしなかったような風景が、まるで竜巻や地震や津波に合ったかのように崩壊している。

 ビルが倒れていた。集合住宅地が抉れていた。瓦礫の山が大量に転がっていて、やはり遠くでも人の姿は確認出来ない。

 まるで世界で二人だけになった気分だ。不思議な現状に、しかし彼女はずっと浸ることは出来なかった。


「――あー! 兄ちゃんだ!!」


 一喜とも糸口とも違う、第三の声。

 共に声の方向に向いた時、少し離れた道路で少人数の子供達の一人が一喜を指差していた。

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