【第五十四話】その男、問題が追加される

「先輩」


 店を出た段階で一喜は背後から糸口に声を掛けられた。

 振り返ると、急ぎ足で彼女が傍に近寄る姿が見える。その様に一喜は意識して眉を寄せないようにしながら、相手の行動を待つことにした。

 此方から何かをする気は無い。もう終わったことだから、態々関与する必要は無いのだ。

 しかし糸口にとってはそうではない。気になる相手を見つけたが故に、彼女は積極的にその対象と関りを持とうとしていた。

 

「どうかしたか?」


「いえ、その、ちょっとお話をしたくて」


「……歩きながらで良いか」


「構いません」


 二人の足は糸口のマンションへと向かっている。

 その最中で出て来た話題は、やはりというべきか実家の件だ。一喜が離れた時間内で沢田は彼女の本来の家へと戻り、そして報告をしたのだろう。

 即座に彼女に何時も開かれないメールが送られ、そこで初めて糸口は電話をするという行動に出た。

 久方振りに通話をした際に彼女の兄は随分と涙声だったようで、三十分以上も心配だったと言葉を募られたそうだ。

 

「両親は……特に私を気にしていませんでした。 精々死んいるのかいないのかを確認するだけで、もう帰っても帰らなくてもどうでも良いんでしょう」


 糸口の兄は両親の反応に大層お怒りだった。

 その怒りの規模は凄まじく、実績を直ちに作って最短で代替わりを行うとのこと。代わる間際には両親に与えられる権限の全てを剥奪し、ある程度の金を持たせた上で絶縁させるとのことだ。

 弁護士を向こうは野党であろうが、娘への精神的・経済的なDVは話し合いでも有利に働く。

 両親は必死になって息子を優先したものの、今回はそれが裏目に出たという訳だ。話の中では散々に兄が妹に対して優しくしているのは知っている筈なのに、それでも二人にとっては兄が何時か見放すと想定したのかもしれない。

 

「……良かったじゃないか。 そのお兄さんの代になれば無事に家に帰れる。 暫くはギクシャクすると思うけど、元の家族には戻れるさ」


「そうしてくれたのは先輩のお蔭なんですけどね」


 糸口は苦笑して、優しい瞳を一喜に向ける。

 全てが変化したのは一喜の強気の言葉があったからだ。金持ちの集団に属している相手に、退き気味になるのではなく逆に前へと出た上で諫める。

 帰って来てほしいのであれば、そもそもの環境を変えのが近道だ。そう言い切った彼の発言は、恐らく沢田には迷っていた背中を押す最後の切っ掛けになった。

 雇われている側が雇っている相手に反旗を翻す。その行為は裏切りに等しく、故に彼女が何か行動に起こす前に早々に解雇される恐れがある。

 それでは折角反旗を翻した意味が無い。無関係な一般人に成り下がれば、如何に沢田が優秀な人間でも糸口を元の家に戻すのには十年以上の時間が必要だろう。

 ならば妹を愛している後継者を巻き込めば良い。なるべく事の詳細を悲劇的に語ってやれば、あの兄は妹を心配して必ずフルの能力を発揮する。


「兄さんは昔から全力の時は凄い力を発揮しましたからね。 きっと私達が考えるよりも早く状況を変えてしまうんじゃないでしょうか」


「そいつは凄いな。 なら、店長にも相談して次の新人を見つけないとなぁ」


 二人の会話は少々不穏である。けれども、そうとは思わせぬ穏やかさがあった。

 一喜は素っ気ない雰囲気を貫いて、糸口は優しい雰囲気を纏い、しかし双方共に余計に踏み込むような真似はしない。

 いや、一喜はしなかった。そうすることがどんな面倒を呼び込むのかを彼は経験則で知っているからである。

 基本的に優しさに対するお返しが優しさである確率は低い。その殆どにおいて返される優しさ以上の負の感情を味わうのだ。

 ――しかし、未だ少女の域にある糸口に苦い経験は少ない。金銭的な問題を問題と捉えず、そもそも自活を可能にしようと奮起する存在だ。

 今はまだだが、何れはアパートを借りて引っ越す算段である。積極的で行動的であるからこそ、攻めるべき時には攻めるのが彼女らしさだ。


「私、あの家に戻るつもりはありませんよ?」


「え?」


 優しい目で、優しい表情で、彼女は一喜の前に出てそんな台詞を言い放つ。

 一喜はその発言に驚いた。環境は改善されるし、何よりも実家に居た方が彼女の暮らしはほぼほぼ安泰である。

 金を持っていることはイコールで幸せに直結し易い。身内の面倒はあるものの、それは優しい兄がある程度まで対処をしてくれるだろう。

 何より、彼女にはDVをされていた実績がある。それを盾にして使えば、多少の我儘は許される。

 

「例え両親が消えたとしてもまだ親戚も居ますしね。 何処にどんな屑が居るかも解らないですし、夢の無い話ですが金持ちのお腹の中は基本的に真っ黒なんですよ」


「それは、まぁ……」


 彼女の言っていることは解る。

 偉大な家系ということは、即ち親戚も大層偉い肩書を有していると見るべきだ。それらが両親を粛清した兄を見て果たしてどう思うか。

 想像は難しいが、二極化する確率は基本的に高い。

 即ち称賛するか、排除に動くかだ。称賛だけであれば適度に受け流すことで問題を解決出来るも、後者であれば彼女も巻き込まれることになる。

 糸口は巻き込まれたくはないのだ。というより、コンビニでの日々での方が彼女の性に合っているのだろう。

 

「将来がどうなるかは解らないですけど、少なくとも私はこのまま普通に社会の中で生活していきたいんです。 我儘を言うならあのコンビニで」


「……ま、君がそうしたいなら好きにすると良いさ」


 一喜は常識的な部分についてを話したが、彼女の意志は固い。

 そして、そこまで意志を固めているのであれば止めるのは不可能だ。ならば好きにさせた方が彼女にとっても暮らしやすい。

 別にそれで一喜が困ることはないのだから。態々関係性を悪くさせてまで実家に戻るべきだと告げるだけの理由を一喜は有していなかった。

 二人はそのまま糸口のマンション下にまで進み、一喜は帰るかと踵を返そうとするも、右腕が引っ張られた。

 視線を腕に向けると、右袖を糸口が摘まんでいる。振り返って彼女に顔を向ければ、糸口自身も何で掴んだのか解らず困惑したまま手を離した。


「あ、すみません!」


「ああ、いや、気にしないで。 それじゃあね」


「……」


 一喜は特に言葉を募らせなかった。

 謝罪を軽く受け入れて、二度目の帰途につく。背後からは足音は聞こえず、一喜の背中を糸口はずっと見ているのだろう。

 その事実に背筋に冷たいものを感じつつ、一喜は気持ち早足で彼女の視界から外れるように近くの角を曲がった。

 今度は明確に早足で家へと進んでいき、買い物もせずに家へと入る。

 服を適当に着替え、そのまま椅子に深く座り込んだ。溜息を零しつつパソコンを起動させるも、最後の彼女の目が脳裏に浮かぶ。

 最後の彼女は、他のどの糸口の姿とも異なっていた。快活な職場での雰囲気も、実家絡みの不安な雰囲気も無く――彼女の瞳には妖しい光が灯っている。

 

 あれがどういう感情の発露なのかを一喜は解らない。

 ただ、尋常の人間が放つ類のものではないのは確かだ。このまま彼女との関りを深くしていけばと、嫌な予感を覚えた。

 それが杞憂であれば良いと思いつつ、しかし現実は嫌な方に動くもの。

 今日も缶詰で夕食を済ませ、一喜は現実逃避を行う為に異世界でのプランを考えつつ夜を過ごした。

 向こうでの問題。此方での問題。

 二つの問題は揃って早期の解決を望みたいが、しかして難しいだろう。特に此方の問題は一喜には明瞭になっていないのだから。

 緩やかな日々を望んでも、問題が何処から湧いてくるのかは解らない。


「勘弁してクレメンス……」


 最後に自身を慰めるように独り言を漏らし、一喜は布団に潜っていくのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る