【第五十三話】その青年、変化を感じる

「おはようございます……あれ?」


「おはよう」


 時間が過ぎて、バイトの時間。

 どのような出来事が起きても時間は平等に流れる。一喜達も例外ではなく、話を終えた後に全員が解散してこの時間を迎えた。

 一喜は当たり前のように渡辺に声を掛けられて返したが、渡辺は一喜の様子に訝し気な顔を向ける。

 なんというか、隠してはいるようだけれど疲れが漏れ出ている。何かあったのだろうなと思いはしつつ、されど隠している時点であまり触れてほしい話題ではないのだろう。

 渡辺はなるべく気にしないようにそのまま制服に着替えて始業時間を待つと、糸口が遅刻ぎりぎりで事務室に入って来た。

 彼女は一喜の姿を一度視界に収めた後、何もなかったかのように着替える。

 

 そのまま三人揃って前の人と交代し、一見すると何も変わらないような普段通りの仕事が開始された。

 この場には他に店長が居るものの、その人物は基本的に表には出てこない。内側で書類整理や発注、後はトラブルの対処が彼の仕事だ。

 流れるような仕事にミスは無い。今日は一喜も変に考え込まず、素直に仕事に意識を向けている。

 平穏に仕事が出来ていると一喜は安堵してはいるものの、同時に不穏な影が先程から此方を見ているのにも気づいている。

 視線の数は主に一つ。それが誰であるのかなんて、今更過ぎて疑念を覚えることもない。

 

「……無視しとこ」


 気にしない。無視しよう。

 職務上の関係として接すれば、彼女もこれ以上プライベートな話題を振ってくることはない筈だ。

 仮に振ってくるにせよ、此方がそれを避けているのは現状が示している。人としての常識があれば、まず話題とするべきではないと彼女も考えるだろう。

 とはいえ、彼女の事情は重い。他よりも複雑であるが故に、頼れる相手を一度見つけてしまうと寄り掛かりたくなる。

 特に糸口の場合は一喜という普段とは違う一面を出した男が居た。彼女にとって一喜とはそこまで意識する相手ではなかったが、今日この日によってその認識が一気に引っ繰り返ったのである。

 金持ちの人間が抱える問題とは大抵、庶民には予想出来ないものが多い。彼女の場合は然程金の有無は関係が無いが、それでも根底にあったのは地位の維持だ。

 

 父親も母親も後継者を優遇して現在の立場を盤石なものにしようと必死になっている。

 それが逆効果となっているし、彼女の頭では恐らくは彼等に碌な末路が訪れないだろうとも半ば確信している。

 そんな大人と、大人を守る者ばかりだったからこそ、彼女は一喜の厳しくも重い言葉に衝撃を抱いた。

 覚悟を持って自身の我を通す。それが良いものになるかは解らずとも、己の望みを叶える為に行動した結果であれば納得も出来る。

 一喜にはそれがあった。そうなった理由を糸口は知らないが、両親と比較してあまりにも違い過ぎたのだ。

 保身に走るのではない。寧ろ積極的に自身を追い込んでいるかのようで、そんな立ち方は非情に危なっかしい。


 誰かが支えなければ一喜は何れ崩れる。

 彼女には解った。一喜は表面上は普通の人間めいた顔をしているが、その裏にあるのは苛烈な鬼だ。

 優しい男ではない、というと表現としては少々不適切か。

 損得勘定で考えているようで、激情的な面が極めて強い。特に彼の地雷を踏み抜けば、待っている爆発は自身をも巻き込んで全てを吹き飛ばす。

 強烈なリーダーシップと呼ぶべきだろう。彼が本来のまま動き始めていれば、恐らくこんな場所でバイトをしている程度では済まなかった。

 

「あのぉ……」


 一度知ると彼女には彼が別人のように見えていた。

 他の男性と異なる、ある種破滅型とも言える異性。その危なっかしさは逆に人を惹き付けることが出来る魅力ともなる。

 健全な魅力とは言い難いが、誰かを惹き付けることが出来るのなら素質としては十分だ。

 故に、彼が意図しない形で彼女は沼に嵌まり掛けていた。

 ゆっくりと彼の機嫌を伺うように声を掛け、その上で感謝と共に仕事で解らない部分を尋ねて会話を繋げる。

 一喜はもう口調を元に戻していた。あれだけ厳しい言葉を放った以上、もう苦手に思われているだろうと想定していたのもある。

 

 その様子を遠目で渡辺は眺め、何だか変だなと首を傾げた。

 これまで彼女の教育係的な役目を担っていたのは渡辺だ。彼女も解らない部分は渡辺に聞いていたし、世間話をするにしても一喜とする回数は少ない。

 それがいきなり変わった。加え、彼女の放つ雰囲気も少々変化が起きている。

 それが具体的には言葉にし難く、無理矢理に言葉として排出するのであれば恋する乙女だろうか。

 彼に対して何やら強い感情を向け始めているようで、これが酷くなれば何だかよくないことが起きるかもしれないと渡辺は眉を寄せる。

 此処は良い職場だ。虐めてくるような先輩も同僚も居ないし、女性陣ばかりのお蔭で男性は重宝されて悪質な客の数も少ない。


 時折変な奴は出現するものの、本当に厄介であれば警察を呼ぶことにも迷いが無い店長が居てくれる。夕方からは忙しいものの、バイトで生計を繋げる者であれば正に優良物件だ。

 だからこそ、こんな職場を止めるような事態にはなってほしくない。一喜が止めるような状況にも陥ってほしくはないのだ。

 

「糸口さん」


「はい?」


 故に、売り場に出て行った一喜を見送る糸口にレジ内で渡辺は声を掛けた。

 彼女は顔を渡辺に向けるも、意識が一喜に向けられているのは明白だ。


「なにかあったんですか? 随分親し気にしているみたいですけど……」


「あ、え? そんな風に見えましたか?」


「少なくとも糸口さんはバレバレですよ。 大藤先輩は何だか避けているみたいですが」


「あー……そですか」


 肩を落とす糸口にやはり解らないと渡辺は首を再度傾げる。

 何故気落ちしているのかは本人から聞かねば解らないだろう。とはいえ、顔を上げて意識的に表情を取り繕った彼女が渡辺に事情を説明する気は皆無のようだ。

 気にしないでくださいと返され、渡辺ははぁと溜息混じりの言葉を出す。

 一先ずは待つしかないだろう。状況が劇的に変わった時に対処が出来るよう、ゆとりを持った生活を心掛けた方が良いのかもしれない。

 夕方のシフトは他に代わりが居ない。この店の社員待遇の人間が交代要員としているものの、彼等は他の時間帯でも働いている。

 無理を効かせることは難しい。ならば、渡辺は自身の方に余裕を持たせるべきだと今後の予定を組み変えていった。


 学生であればもっと純粋に踏め込んでいたかもしれない。

 でも今の自分の生活を支えるのは自分だ。実家に居る両親などではない。自分で金を稼ぐことが出来ないのなら、待っているのは趣味すら出来ない極貧生活だ。

 渡辺は取り敢えずの体で二人の間に漂う雰囲気を無視し、そのまま数が増えていく客の相手を続けていった。

 糸口も一喜も同じく客の相手をしていき、夜が遅くなる頃には最早そんな雰囲気など皆無となる程に仕事に集中して――そして何事も起きることなく終了を迎える。

 内側で引き篭もっていた店長は今日も三人を労い、一喜はそれに短めに応えつつ手早く外へと出て行った。

 糸口はそんな彼の背を見つめ、同様に荷物を纏めて早足で帰宅の途についた。


「渡辺君、二人はもしや付き合ってるんだろうか」


「どう、でしょうね。 大藤先輩にそんな素振りはありませんが」


「ってことは糸口さんだけが燃えてる感じかねぇ?」


「燃えてるかは解りませんが――――」


 ――少なくない感情を一喜に傾け始めているのは間違いないだろう。

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