【第五十二話】その男、区別をつける
「だって……あそこに私は必要無いでしょ」
顔を他所に向けながらも、糸口は自身の胸中を口にした。
「父も母も兄さんにばかり期待して、私は会社同士の結びつきを強くするだけの餌にしか考えていない。 勉強も運動も必要最低限で良いって決められていて、兄さんが強く反対を口にしなければ私の意見も通らなかった」
子供は親を選べない。
その環境、その性格、全ては子供からしたら運次第だ。彼女は件の父母の下に生まれ、そして生まれた当初から期待されてはいなかった。
大切な取引先との繋がりを強める為の道具という意味では期待されていたのかもしれないが、そこに彼女の意志は無い。
彼等が自身の意見を翻す時があるとしたら、三歳年上の後継者である兄が強く父母を叱咤した場合のみだ。
両親にとっては後継者は大事な存在である。甘やかすだけではないものの、やはり大切な気持ちは捨てられない。
二人しかいない子供の中で唯一の男児というのもあるだろう。あの二人にとって、後継者とは男児がなるべきものだと思っているのだから。
故に蔑ろにされていたというのは事実だ。一人の大人として見るのなら、糸口の両親は正に親として失格も失格である。
されど、その否定を覆せるだけの力を両親は持っていた。異なる価値観の中でも強引に物事を進め、成功とするだけの力を。
不憫なのは子供だ。特に糸口は、その価値観を共有することは出来なかった。
自分にはしたいことがあって、自分には目指したいことがあって、それを自分の力だけで成し遂げたい。
幼き頃の純粋な夢。その夢は踏み潰され、基本的に糸口は要らない物のような扱いを受けた。
ならば、自分が居なくなったとしても然程大きな問題にはならない。
兄は心配してくれるだろうが、それは余裕があったればこそ。余裕の無かった糸口自身には誰かを心配するだなんて考えはなくて、故に家族が表向きのポーズとして買い与えた品物を全部売り払って金にした上で誰にも見つからないように行方を眩ませた。
事前に金を支払うことを条件に彼女の家と縁の無い一人暮らしの友人の家へと御邪魔し、そこで家事等を覚えながら庶民的な常識を半年を掛けて覚え――――何れ金が無くなることを想定して家に近いコンビニにバイトに出ることにした。
履歴書を誤魔化すことは考えたが、いざ発見された際に味方をしてくれない可能性があると止めていた。
人民の味方は必要だ。争うにせよ、多くの人間と縁を繋いだ方が有利になる可能性を拾える。
「私はもう私として生活することが出来ているの。 沢田がどんなに説得したって、それこそ兄さんが直接出てくることになっても私の意志は変わらない」
要らないのなら、此方が逆に捨てても問題はあるまい。あそこの家族は元々三人家族で、決して四人家族ではないのだ。
なに、遺産を求めるような真似はしない。お前達を地獄に落とす為に接触する真似もしない。
完全に関わりを断つから、そちらも関わって来ないでくれ。それくらい別に何の問題も無いだろう?
彼女の態度は頑としていて、少なくとも身内の言葉では動きそうにない。寧ろ身内に近ければ近い程に彼女の態度は硬化の一途を辿る。
内心の心境を変えようとするのなら第三者。理性的に、かつ現実的に物事を語れる人間が優しく諭してあげるしかない。
それを沢田は一喜に頼んでいる。一喜の方が社会の荒波を知っているだろうから、どうかバイトなんて無茶な真似はしないでくれと。
「……一つ、聞いても良いかい?」
「何でしょうか」
一喜は彼女の言葉を聞き、ああ成程と納得した。
今、彼女は大人であり子供なのだ。大人な意味で金銭を稼ぐ手段を見つけ、子供な意味で親から離れる方法を実践している。
アンバランスな時期にそんな真似をすれば、最終的に人格面にどのような異常が起こるかは不明だ。不安だ恐怖といった負の感情が重くのしかかる程、理性とは容易く崩れ去っていく。
人間不信になればまだ良い。積極的に大人を嫌悪する性格になれば、さぞ社会生活に不便を齎すことだろう。
そういった諸々を指摘するのは可能だ。一喜には裏切られる者が持つ負の可能性を事前に多く予測してあるのだから。
その上で、彼女には先に聞いておかねばならないのである。覚悟は済ませているのかと。
「君は戻れば、窮屈ではあれど裕福な暮らしを送ることが出来る。 世の中はそりゃ嫌なことばっかりだけど、君は家に戻るだけで大部分を解決することがきっと出来る筈だ。 このまま此処に残るよりかは、幸福を掴める可能性は高くなる」
「大藤先輩……」
「自由が欲しいなら覚悟が必要だ。 その覚悟を君は……お前は持っているのか?」
その時、糸口と沢田は見た。
彼から放たれる何か重いモノを。根源的な恐怖を引き出されてしまうような、そんな悍ましい感情を。
暗く深く、しかして真実。この世の真実の一つを直に見てきた大人が放つ戦意にも等しいそれは、これまでの異世界生活によって大きく膨れ上がっている。
鋭い眼光はまるで敵を見ているようで。組まれた腕には何処か戦士のような気風が漂い、どうしたって普通の人らしさを感じられない。
口調すらも平時のものに切り替わり、彼は覚悟を問う。そんなにも何も無い空虚のような自由が欲しいのかと。
「此処で否と言い続ければ何れ諦めてはくれるかもしれない。 しかし、お前が接触を拒んだ以上はもう二度と家族は助けてはくれないだろうな。 それでも、自分には自由が欲しいと?」
「――当たり前です」
恐ろしく、深く、けれども負けられない。
自身が家出を図ったことに何の後悔も無い。一喜の挙げた全てのデメリットを飲み込み、自身の幸福のみを追求することを選んだ。
どれだけ一喜が凄んだとて、彼女の意志は固い。一度決め、迷いを捨てた人物に次というもしもはありはしないのだ。
ならば、一喜とてこれ以上問うような真似はしない。決めたのだから、先まで行くのみ。例え未来が悪くとも、それは彼女自身の責任だ。
「なら俺からこれ以上は言わない。 好きなように自分で決めな」
「大藤様!」
「黙れ。 ……彼女はもう決めたんだ。 最早素性が解らぬ子ではないし、何よりも自分で逞しく生きていけるだけの意志力が彼女にはある。 それを遮るのは、それこそ悪質極まりない」
沢田の抗議の声に一喜は断じた。
何も言わせぬ。何も反論させぬ。最早これは彼女の道であり、他の誰かが遮ってはならぬ道だ。
糸口は愚かな真似をしただろう。安寧を捨て、厳しい生活を余儀なくされることを良しとした。
馬鹿な娘だ。愚かな娘だ。――強い子だ。
昔の一喜に同じ真似が出来ただろうか。ただ流されるままを良しとするようなあの頃の自分に、果たして目前の子のような強さがあっただろうか。
思い出して、ふと笑みが零れた。そこには多分に自嘲の色が含まれていて、弱弱しい自分に向けた若干の怒りもあった。
弱い子だと思ったのは馬鹿だった。彼女は彼女なりに、明日を見ることが出来る強い子だ。
ならば、それなりの扱いをするのが大人ではないか。少なくとも、沢田のように何も改善せぬまま己の我を通す真似は許されない。
更に鋭利さを増した目が沢田を貫く。ただの一般人らしからぬ殺意すら滲む目に、沢田の背筋が僅かに滲む。
「大体。 お前は彼女を連れ戻したいようだが、それをする前に家出をする原因を何とかしたのか?」
「それは……」
「出来はしないだろうな。 お前は雇われている側で、相手は雇っている側だ。 力関係は一目瞭然。 僅かでも不満を露にするようなら、恐らく直ぐに解雇にしているんじゃないか?」
「――――」
沢田の手が強く握られた。
余裕の素振りは消え去り、残るは必死に抑えた壺の蓋から漏れ出た激情。家に訪れた際とは異なる敵意の宿る目を返され、されど一喜は鼻で笑った。
慣れているのだ、そんなものは。今更そのような目を向けられたところで引くと思うのか。
「彼女を家に戻したいのなら、彼女が納得出来る程の状態にしてから言え。 前提条件の整っていないもしもなんぞに価値は無い」
彼のその言葉が、今回の話の終結となった。
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