【第五十一話】その男、聞きたくもない事情を聞かされる
暗闇から照明の下にまで出て来た姿は、燕尾服だった。
黒のブーツに黒の上下。黒くない箇所は少なく、内にある白いシャツや白い手袋が幽霊のように浮かび上がっているように感じさせる。
肩上で揃えられた黒い髪に秀麗な印象を抱かせる顔。クールとも言えるし、冷ややかな表情には冷酷の二字が並んでもいた。
体格から女性であるのは言うに及ばず。彼女は一喜と顔を合わせ、優雅に一礼をしてみせる。
それが是非一度だけであれば良いと願いながら、一喜は徐に口を開けた。
「……これは、見事なもんだな」
「疑わないので?」
「そんな振舞いを自然に取れる奴を偽物だとは思えないさ。 よしんば嘘だとしたら、それは俺が単純に間抜けだったって話だろ。 ……本当にあの子は御令嬢なんだな」
「何処の、とまではまだ言えませんが。 しかしあの方の御両親がとても偉大であることだけは伝えておきます」
「それはそれは……」
両手を上げて一喜は降参のポーズを取る。
ストーカーだと思った上での接触だったが、藪から出て来たのはそれよりも厄介な存在だった。
異世界なら力技で逃げれる。しかし、それを今言ったところでどうしようもない。
兎にも角にも、彼自身が平穏無事な生活を送る為にはこれ以上深入りすべきではないだろう。ただでさえ彼の肩には厄介な案件があるのだから。
降参として上げていた手を降ろし、両腕でクロスを作る。相手はそれに対して明確なリアクションは取らず、酷く感情が抑えるのが得意なのだろうと息を吐く。
「彼女がどうして庶民向けのマンションに住んでいるのかは聞かない。 詮索しても待っているのはろくでもない末路だろうしな」
「賢明な判断です」
「アンタがあの時彼女の前に出てこなかったのも何か理由があるんだろうが、その点については興味が無い。 ……だから、彼女の身に起きている唯一の厄介事をアンタが解消してやれ」
「聞きましょう。 あの方の障害を取り除くのが私の役目ですので」
燕尾服の女性はどうやら糸口に接近しているストーカーのことを知り得ていないようだ。更に言えば、初見の接触時に一喜のことも彼女は知っていない様子だった。
つまり彼女が此処に来たのはついさっき。遅くとも最近だと思うべきだ。
そこから追加で辿れるとすれば、糸口の実家はつい最近まで彼女そのものを半ば放置していたと推測を立てられる。
ならば彼女の境遇は――――とそこまで意識を巡らせる前に断ち切った。
必要なのは情報を伝えることだけ。ストーカーの件を説明し、燕尾服の女性は解り易い程に険しい表情を浮かべた。
「止めなければ彼女が襲われる可能性がある。 気付かれても良いなら直接話をした方が良い」
「……情報、感謝致します」
「どうも。 んじゃ、俺は手を引く」
未だ暖かい緑茶の内の一つを燕尾服の女性に投げ、一喜は席を立つ。
女性は自然な動作で飛んで来たペットボトルを掴み、静かに歩み去っていく一喜の後ろ姿を視界に収めた。
これから何が起こるかは一喜には関係無い。相談には乗ったし一緒に帰ることはしたが、それでも守ってやろうとまでは彼は考えてはいなかった。
故にそのまま何事も無く家へと帰り、月曜という週の始まりが終わる。
次の日、彼は若干の寝不足を感じながらも何時も通りの時間に起きた。重い瞼を無視して開き、ぼやけた視界のまま洗面所まで向かい、顔を洗って目を覚まさせる。
コンビニ弁当を買うことを忘れたので、今日の食事は缶詰ばかりだ。向こうでも食べていた缶詰でもあるので味は変わらず、さっさと食い終わってからはパソコンを用いて具体的な目標を明記していく。
一つ、支援ロボットを投入して周辺警戒を長時間続けさせる。
一つ、支援ロボットの大破を長期間回避する。
一つ、子供が出歩いても問題が無いレベルの治安にする。
一つ、此方が購入しなくとも回していけるように、積極的に物資を集める。
四つの大目標を記入して、ふぅと一喜は息を吐く。
彼等が安心して生活していくには、この四つは絶対に必要だ。他が手出し出来ない環境を構築してこそ、安全という二字は出来上がる。
街全体を安全にしなくとも良い。重要なのは、子供達が普通に成長することが出来るだけのエリアを確保することだ。
教育にせよ、食料にせよ、何れある物だけでは追い付かなくなる。
教育者というのは時代時代によって考え方を柔軟に変えることは出来るだろうが、食料に関しては物資だけではとても足りはしないだろう。
よって、必要なのは食料の生産。これもまた将来的には必要となる。
それを全て達成するのは現状では不可能だ。目指すべき理想として情熱を注ぎたくなるが、それは止めろと自粛して時間を過ごした。
「――――……ん?」
唐突にアパートの玄関からチャイムの音が鳴った。
昨今は通販によって聞き慣れるようになった音に首を傾げつつ、ドアに付いている穴で来客を確認する。
ドアの前に立っていたのは二人。見た瞬間に眉を顰め、ドアの鍵を開けた。
開いた先に居たのは昨日の女性と糸口だ。女性の方は静かなものだが、糸口の方は目に見えて顔色が良いとは言えない。
何かあったのかと思うべきだが、思うべき内容が一つではない所為で判断に困る。
「取り敢えず、どうかしましたか?」
「……あの、少し話したいことがありまして。 今、時間はありますでしょうか?」
「仕事まではまだ時間はあるけど、出来れば手短にお願いしても良いかい?」
「――はい」
何が起きているのか不明であれば、一先ずは情報を手にするべきだ。
二人をボロのアパートに入れるのは大変に恥ずかしいが、掃除自体は基本的にはしているので然程見られないものではない。
とはいえ、男性の部屋に入るのは糸口としては初めてなのだろう。随分あちらこちらに視線を彷徨わせ、その様子に若さを感じずにはいられない。
生憎なことに来客向けに机や椅子等は無いので、冷蔵庫にあるペットボトルを二本渡して立ったまま話を聞くことになった。
二人はその様子に随分警戒されていると思うも、そのことはおくびにも出さずに用件を口にする。
「先ずストーカーについてなんですが、解決はしました」
「早い解決だな!? もっと時間を掛ける必要があるかと思ったんだけど」
「先輩が横に居る沢田に言ってくれたお蔭です。 迅速に情報を集め、即日に警察に連れて行かれました」
「犯人はやっぱり?」
「はい。 歌い手として活動している女性だったそうです。 卒業前の学校で目撃した時から一目惚れだったそうで……此方に引っ越して来た際に偶然目撃してからずっと後を追っていたようです」
「うわぁ……」
彼女の話に一喜は素直に言葉を漏らす。
相手が女性であった事実は、画像の段階でそうではないかと一喜は考えていた。それが一目惚れであったのも、ストーカーであった事実から考えれば頷けるものだ。
しかし、その後の過程はドン引きの一言。正面から話し掛けるなら兎も角、いきなり追跡から入る辺り人格面が正常であったとも思えない。
異常を抱えたレズの女。それがこの犯人の真実であり、故に警察に連れて行かれるのも当然だった。
歌い手であったことから最悪の場合はネットにまで情報が流れるだろう。大炎上を迎えれば、流石にその女性も活動は無理になるのではないか。
一喜には関係の無い話ではあるも、取り敢えずは死んでくれることを願っておいた。
「大藤様。 この度参りましたのは、今回の報告と私の非礼を詫びる為です。 ……昨日の態度につきまして、誠に申し訳ございませんでした」
「ああ、いえ。 そちらについては別にどうとも思っていませんよ。 怪しい奴なのは事実でしたしね」
腰を曲げ、深々と頭を下げる沢田と呼ばれた女性に一喜は苦笑しつつ気にするなと返す。
あの時点でどちらが怪しいかは一目瞭然だった。どうやら随分と大事に思っていたようだし、実際糸口の出自は大事にすべきことだ。
迂闊に接触して良い存在ではない。それこそ、あんなコンビニで働くべきではない人間だ。
一喜が気楽に返したお蔭か、僅かに立ち込めていた緊張の気配が緩んだ。糸口も小さく安堵の吐息を漏らし、緩やかな笑みを浮かべている。
「お話については以上でしょうか? でしたら、今日も仕事がありますので……」
「ああ、いえ、それだけではないのです。 大藤様、どうかお嬢様を説得していただけませんでしょうか」
これで終わり。面倒な問題が長引かずに済んで良かった。
そう思った彼の本音は、しかしフラグだったのだろう。沢田と糸口が現れたのはこんなことを話す為だけではない。
寧ろ先程のは前座に過ぎず、沢田からすればこれこそが本題。一喜の不思議そうな表情を見やりつつ、沢田は瞳に憂慮を浮かべた。
「お嬢様は非常に大切な方です。 後継者にこそなりませんが、その後継者の方が大層大切に御考えになられているのです。 お嬢様が居ない状態では、正直に言って後継者の方は実力の四割が限界でしょう」
「それは……家族を心配してとのことですか?」
「そうです。 お嬢様は家出同然に飛び出してしまいましたので」
家出。その言葉に視線をそっと横に動かすと、糸口もまた逃げるように視線を横に逸らした。
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