【第三話】その男、疑問を深める
――彼が興奮していられたのは僅か数十分だった。
骸骨の怪物と評すべき存在から一喜の身体は反射的に逃げに徹し、後ろを一度も振り返ることもなくボロのアパートの扉を開けて飛び込んだ。
力の限り全力で扉を閉め、鍵を回した上でチェーンを付けて忘れていた胸の痛みが襲い掛かる。
久方振りの全力疾走。力無くよろよろと靴を脱ぎ、そのまま床の上で両手をついて荒い呼吸を繰り返す。
肺に酸素を取り込み、次の瞬間に全てを吐き出した。知らぬ間に汗も流れ、夏も過ぎた季節に頬に流れる水滴は冷たい。
あれは何だったのか。
あれは何をしていたのか。
僅かな時間であれど、彼はあの化け物の姿を鮮明に記憶している。
時代錯誤も甚だしい、肩に棘のある世紀末風のパンクな姿。身体全体を隠しつつも、頭部だけは隠さずに髑髏を晒していた。
そして、その手には赤い肉塊。もしかしたらそれは肉ではなかったかもしれないが、一喜は直感的にそれが肉塊であると確信していた。
では何の肉なのか。あんな不気味な存在が家の中で襲ったのであれば、やはり持っていたのは――
そこまで考えが及んだ段階で、一喜はそれを忘れるように激しく首を振る。
扉の外からは物音はしない。壁を粉砕するような力の持ち主であれば安アパートの玄関扉くらい易々と破壊出来そうなものであるが、そうしなかったのは相手側が慈悲をかけたからか。
いいや、それは違う。一喜にはあの蛍火に浮かぶ感情が解る。
あれは恨みや妬みが籠ったものだ。強烈な感情を有した者のみが目や言葉に意思を宿すことができ、一喜自身も嘗ては激情を職場で抱いていた。
であれば、そんな不穏な存在が目撃者を見逃す筈がない。証拠隠滅を目的として一喜を追うのは自然で、それでも何も変化が無いのであれば待ち伏せをされていると見るべきだ。
――クソッ、一瞬でも期待した俺が馬鹿だった!
異世界と聞けば、やはりそこにはプラスの感情が湧く。
如何に重苦しい世界もあると説明されたとて、人間は都合の良い方ばかりを考える生き物だ。
辿り着いた世界が自分にとって理想だと信じている部分は確かにあるし、一喜自身もこの世界を何処か自分にとっての理想になると思っていた節があった。
しかし、蓋を開けてみればどうだろう。見るだけでも危険であると解る怪物に、何故か放置されている住宅街。
あそこに人が居るのは確かであろうが、多くはきっといない。というよりかは、そもそも住んでいる人間が居ないと思うべきだ。
――兎に角今日は外に出るのは止めよう。昨日も何も食べてないけど、そんなもんは後だ。
あれの正体は不明だ。
不明であるからこそ、警戒を強めておいて損は無い。ノートパソコンの乗っている机を動かして玄関扉の前に起き、最初から用意されている押し入れに布団を敷いてそこにパソコンを運び込む。
最後になけなしの飲み物達を中に入れ、自身も押し入れの布団に潜り込んだ。
季節が夏であれば地獄だったが、今は寒い。掛布団は丁度良い暖かさを徐々に彼に与え、実家のような安心感を覚えながらもノートパソコンを操作していく。
検索エンジンを立ち上げ、彼は賢明にこの事態を対処する方法を探し続けていた。
誰かに相談することはしない。基本的に信用はされず、頭がお花畑になっている者の戯言だと右に左に流されるだけだ。
思い付く限りの単語を打ち込み、検索結果が外れであることに一々落ち込む。
彼自身のメンタルは然程強い方ではない。草食動物程ではないにせよ、少なくとも危険に対して喜んで飛び込むような勇者ではないのだ。
結果が出ないのは外の世界を具体的に調べていないのもあるだろう。一時間も居ない状態でどうやって正解に辿り着けるというのか。
意味不明な事ばかりで少しの真実にも辿り着けていない現在の状況は、暗中模索に等しい。
そのまま彼は今日も外に出ず、襲撃に怯えながらも調べものに精を出し続けた。
陽が沈んでも、闇夜の中でも、陽が上っても。
気付けば仕事の日が訪れ、彼は仕事に出なければならない時間となっていた。隈が酷い状態である彼はノートパソコンの時間をふと見て、この状況でありながらも以前の職場の所為で身についてしまった規則正しい勤務時間に向かうことを心掛けてしまったのだ。
大慌てで荷物を纏め、ノブを回して外に出る。
意識の判然としない今の彼は周りの風景を一切視界に収めず、そのままふらふらと幽鬼の如くに職場のコンビニに向かった。
彼の意識が正常に戻ったのは、休憩時間に限界まで眠ったお蔭だ。
家ではまったく安心出来なくとも、コンビニの休憩時間に彼に干渉してくるような人間は仕事関係を除けば無い。
今回は彼自身の顔色があまりにも悪いことで誰も声を掛けず、客も店員の状態が悪いことを察しながらも我関せずを貫くように無視をした。
故に一度完全に眠ったお蔭で覚醒を遂げ、微睡みから戻った彼は普通に働けている状況に内心で驚きを露にしていた。
それを声に出さなかったのは奇跡に等しい。もしも叫んでいれば変人を見るような目で先輩後輩店員には見られていたかもしれない。
『なんで戻って来れたんだ? 特に何か大きな変化は無かったよな……?』
彼は思い出せる限りで思い出したが、別段おかしい部分は無かった。
あの怪物が一番の異常であるものの、件の骸骨人間が空間を弄れるのかと考えるといまいち想像出来ない。
勿論、相手は異世界の存在だ。此方の常識と彼方の常識が異なっているのだから、空間や次元を歪ませる技術が無いとも限らない。
しかし、それにしてはあまりにも唐突だ。休日明けの月曜日に異世界との繋がりが断たれるなど、あまりにも一喜にとって都合が良過ぎる。
作為的なものを感じざるをえない。何処かの誰かが彼を見ていて、彼の様子を笑いながら見ているのではないかと仕事中の間は気が気ではなかった。
仕事が終わってからも一緒だ。食事を買っている間も、家に帰っている間も、そして扉を開ける瞬間まで警戒を解くような真似はしなかった。
何が起こるか予想出来ない。故に常に逃げる足だけは残し、されど結果だけ言えば自宅は何も変わらず平穏そのものだった。
それは火曜が過ぎてもそうであり、水曜が過ぎても同じ。
警戒と困惑を深めつつも、木曜日の段階まで彼は何の異常にも襲われずに無事に過ごすことが出来ていたのである。
「本当、なんだってんだよ……」
新しく購入した手帳に、思い出せる限りの情報を書き込む。
情報量は決して多くはない。崩壊した家や見知らぬ廃墟、消えた近所の人間。
そして怪物。怪物に関しては忘れぬ為にと出来る限り絵にしてみたが、どうにも似ているとは言い難いものに仕上がった。
白黒の絵に矢印で色を書き込み、何をしていたのかを予測だけで記す。出来上がったのは小学生の自由研究のような様で、甘く見ても設定厨の下手な敵役紹介だった。
これより更に真実に近付きたいのであれば、即ち向こうの世界を歩き回るしかない。
とはいえ、向こうの繋がりは現状断たれている。何時繋がるかも不明で、そもそも二度と繋がらない可能性もある。
この不安と恐怖が無駄に終わるとなれば、一喜は喜びながらも机を叩くだろう。
休憩時間の中でうんうんと悩み、誰かが入ってきたのかもまったく意識していなかった。
「――あれ、先輩。 それってダーパタロスじゃないですか」
後ろから聞こえた声に一喜はゆっくりと振り返る。
そこに居たのは、彼が働くコンビニで最も新人である二十歳の青年だった。
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