第二章 《たった一人の覇循軍》-5
ディモフィーリア・ラグニカーニ、テーレはその一階の厨房に立っていた。大き目の袋を、両手で抱えて。
「フェリン兄さん、こちら食材を街の人たちから貰いまして……」
彼女の前には、金色の短髪の美丈夫が立つ。まだ若く、その頭には白い帽子をかぶっている。同じく白い服から見ても、彼がこの厨房のコックだということが分かる。
かき混ぜていた鍋から、テーレのほうへ眼を向けた。
「うっわ、どうしたのテーレ、この食材……って言いたいところだけど、実はさっきテーレが主人を連れて買い物に来たって、街の人から聞いてね」
人当たりの良さそうな人物で、少し困り顔で返事をする。
「だから違うって言ったのにあの人たちはー!」
フェリンという男の言葉に、テーレは赤くした顔を両手で抑える。落としそうになった袋はフェリンが見事にキャッチして事なきを得た。
……絶対にあのエリアにいた誰かであるのは間違いない。
テーレは必ずもう一度きちんと説明すると決意しつつ、言うべきことを言う。
「その、先ほどの客っていうのは、皆さんが勘違いしているヒトのことでして……」
「僕たちは君の親ってわけじゃないからとやかくはあんまり言えないけど……」
ちらりと天井――テーレの部屋の方を見るフェリン。むくれた顔で、唇を尖らせた。
「心配なのよね、娘みたいなテーレちゃんをどっかの男が持ってっちゃう、って思うと」
厨房にはもう一人いた。緑色の長髪をきれいにまとめた美しい女性は野菜を瞬時に切り分け、テーレの持っていた袋から魚を取り出す。そして手際よく解体していく。
「アナイ姉さん。その、そう思ってくれるのは嬉しいですけど、大袈裟ですよ」
彼女の包丁さばきはずいぶんと手慣れたもので、一瞬も迷いを感じさせなかった。フェリンより少し高い帽子をかぶり、白い服に身を包んでいる彼女こそ、この厨房の支配人であることが分かる。
彼女がアナイ、店のオーナーであるフェリンの妻であり、厨房の
「主人とかなんとか言ってるのも、ちょっと言葉遣いが古めかしいだけでですね、別にわたしの彼氏とか、そういうのじゃなくて――」
気恥ずかしそうに捲し立てるテーレを落ち着かせるように肩を軽く叩く。
「わかってるわ。ともかく、そのお客さんには何か出すの? 私のほうで、一品くらい作りましょうか?」
続く問いかけに、テーレは首を縦に振る。
「かなりお腹が空いている様で、いくつかパンをもらいたいのと――」
棚に並んだスパイスを眺めるテーレ。その中に目当てのものを見つけ手に取った。
「フェリン兄さんのスープを少し。あとはわたしの特性スパイス炒めを出すので。アナイ姉さんはお店の方に集中してください」
楽しそうな笑うテーレに、アナイもまた笑みを返す。
「わかったわ。ほら、フェリンもむくれてないでスープを用意して」
「はーい、すぐに用意するよぉ」
そう言って鍋に視線を戻す。しかし、彼はかき混ぜながらも時々上を見る。
「なんか、覚えのある気配なんだよな……」
数種類の具材を煮込んだこの店の看板メニューの一つを、器に盛っていく。誰がこれを食べるのかと想像しながら。
「ほう、この香り、一万年前と変わらぬ。いや、より深くなっているか」
店名を『聖なる香り』と名乗っているためか、階段にもいい匂いが漂っていた。彼にとってもハーブ、スパイス、油の焼ける香りは心地よいものだった。
多幸感を空気と一緒に吸い込むをミクトルを、テーレが出迎えた。
「ようやく来たわね、せっかく兄さんがスープ用意してくれたのに、冷めちゃうとこよ」
ミクトルが下りてきた階段は厨房の隣。ミクトルが右を向けば、そこに厨房を出たテーレの姿があった。
店内の様子をちらりと見たミクトルは、テーレに視線を向けながら問いかける。
「手伝わなくていいのか? 忙しそうだが」
「ええ、だからすぐに戻るわ。そこで待ってて、すぐにあなたのご飯持ってくるから」
彼女はミクトルに席を一つ示す。そこに座って待っていろ、ということだった。
「いーよ、テーレは座ってて」
トン、とそんな彼女の肩に後ろから手を置く者がいた。その人物は、フェリンだ。
「フェリン兄さん、でも今お昼時で忙しいんじゃ……」
「いーの。それに君の主人って名乗る奴を見てみたいとも思ってね」
「だから違いますってばぁ!」
その言葉に顔を赤くし若干前かがみになった彼女には、この時見えていなかった。
敵を見据えたような、鋭いミクトルの眼光を。
彼の緑と紫の二重虹彩が、強い光を放ち始めていた。彼の視線を受け止める店の主人のメモまた、青白い光を強めていく。
「そうだ。名乗ってるとは違うぞ。オレはテーレの主人にきちんとなるつもりだ」
「君は現代と古代の言語や言い回しの違いをきちんと勉強した方がいいと思うよ」
ピシリと、テーレにはその場の空気が凍り付くような気配を感じた。
――何? という言葉すら出せないほどの緊張感を伴って。
「ではまず聞こう。なぜお前がここにいる。勇者フェリンよ」
「その前に、久しぶり、でいいのかな。覇王ミクトル」
テーレから見て目の前にいるミクトルと、真後ろでお盆を小脇に抱えたフェリン。この二人が放つ気配が、あまりにも冷たかったため、そう感じたのだ。
直後、ミクトルは左手に銀色の手甲を造り出して殴りつける。
対して勇者と呼ばれたフェリンは、お盆を手甲へと叩きつける。
両者ともに放ったそれは、強い法力の光を伴っていた。
パァァァァァァンッッ……!
ぶつかり合った二つの衝撃はきれいに相殺し、法力は爆発することなく静まっていく。
もしこれで法力の相殺を行わななければ、この大衆食堂は丸ごと吹き飛んだだろう。
「どうやら、間違いなく勇者フェリンのようだな」
「わざわざそれを確かめるために法力精製した手甲で殴りつけたのかい?」
喉を鳴らして笑うミクトルと、クスクス笑うフェリンだが、中間地点にいたテーレにはそんな笑っている余裕はない。
他の客は、二人のぶつけ合った法力に気付いていない。だが、目の前で繰り広げられた激突にテーレは声が出なかった。法力を持ちえない彼女でもわかる、あまりにもけた違いの激突に、肩を支えるフェリンがいなければへたり込んでいただろう。
だが、厨房のほうには、巨大な力の激突に気付いていた者がいた。
「他のお客様がいるでしょうっ!」
厨房からお叱りのフォークが一本飛んでくる。とんでもない勢いで迫りくるそれを、ミクトルは空中で掴んで止める。そして一度彼は視線を飛んできた方向に動かした。
ゆっくりと、フェリンの方へと戻す。
「奴も……女神アナイもいるのか?」
「いるよ。僕の奥さんは相変わらず美人だし、強いよ」
「……そうか。では話は後にしよう」
「君ならそう言うだろうと思った」
ミクトルの提案にフェリンは同意し、厨房へと戻っていく。溶け消えていく緊張感によって占められていテーレの喉が、ようやく解放される。フェリンが引いていった椅子にちょうど彼女が座ると、冷や汗の浮かんだ顔で口を開く。
「……なんでミクトルは兄さんたちの名前を知っているの」
恐る恐ると言った様子で問いかけるテーレに、ミクトルはため息交じりに告げる。
「お互いにいろいろあるのだ。まぁ、一万年も経った今は、気にすることでもないが」
他の客は何も変わらず食事を続けている。彼らの因縁は、この時代には存在しない。
一方、料理が運ばれてくるまでの間、奇妙な気まずさをテーレは感じるのだった。
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