第1話⑤ それぞれの日常⑤ 美里詩織

「くしゅん!!」


 鼻がムズムズしていた俺は思わずくしゃみが出た。


「ちょっと桜坂。このご時世に風邪なんてやめてよね」


 すると、目の前の席でモバイル端末を操作している美しい女性が、ジト目で俺に文句をつけてくる。


「す、すみません。別に風邪とかじゃないです。誰かが噂でもしてるのかも……」

「へぇ? あんた、噂してくれるような友達とか恋人とかいるの?」


 その女性は強いウェーブをかけた自らの茶色の髪をさらりと払い、そんな笑えない冗談をかましてきた。


「……いない、ですけど。ていうか、このリアクションはお約束というか、様式美みたいなもんじゃないですか。そんな辛辣なツッコミ受け付けてないんですけど」


 俺も負けじと目を細くして睨み返す。


「あはは、ごめんごめん。あんたをいじるのも習慣になってきててさ」

「……やめてくださいよ。美里みさと先輩」


 言いながら、俺もまた自分の端末を立ち上げ、ログインする。


 この人は、俺の職場であるきさらぎ銀行の先輩であり、職位的には半分上司でもあり、営業ではツーマンセルを組む相手でもある美里詩織しおりさん。

 この間、結月さん日菜さんと横浜でオムライスを食べた時に話題に上ったその人だ。

 

 言うまでもなく超がつく美人。社会人らしい落ち着きと、適度に見せる愛嬌が実に魅力的な人である。年は俺の二つ上なので、もはやアラウンドサーティではなくジャストサーティが目の前に迫っているはずだが、とてもそうは見えない。


 ……まあ、性格はちょっとアレだけど。

 だいたい、もう社会人なのに、自分のことを「先輩」と呼ばさせていたり、「後輩」いびりを平気でしてきたりと、俺の嫌いな体育会系のノリそのものを残してる人だからな。

 ……今時、パワハラじゃないのかなあ。

 

 今、俺たちは出張の帰りの途中で、今日の業務報告をオンライン上で行うべくコワーキングスペースに立ち寄っていた。


「はいはい。じゃあ始めるわよ。あたしは準備OK」

「わかりました。では、動画を再生します」


 俺は音が周囲に漏れないようにヘッドセットを接続し、共有フォルダにアップしたファイルをダブルクリックする。

 すると、俺がついさっきビデオカメラで撮影をしていた取引先の工場の内部が映し出された。


「……めっちゃ手ブレしてるじゃない。ヘッタクソねえ」


 ……そんな力込めて言わなくてもいいじゃん。


「素人に無茶言わないでくださいよ。ただでさえ、工場の中は機械が動いていて揺れてるんですから」


 この動画は、俺の担当する半導体メーカーの工場で、AIやらIOTやらを活用し、人手がほぼゼロ、全自動で機械が稼働する様子を撮影したものだ。


「やっぱ圧巻ね。プレスから切削、研磨までフルオート。……もう、本当に人間がいらない時代がそこまで来てるのね」


 美里先輩は感慨深そう……とだけとは言い切れない、複雑な感情をその言葉に乗せる。 


「……ええ。これなら参加者は大ウケ。例のセミナーで使えそうですね」


 俺はそれには答えず、この動画の使い道だけを確認する。


 デジタル化が叫ばれる昨今、こういった先進的な企業の取り組みの情報を欲しがっている同業者や関係者は多い。この動画は、俺たちきさらぎ銀行が開催する企業向けのセミナーで使う予定だった。

 今時の銀行員はカネを貸すだけでなくこんなこともやるのである。

 そこで、ふと思いついた。


「……これ、せっかくですし、社内の研修動画とかにも使えないですかね?」

「……ほう。言ってみ? 発言を許可するわ」


 仕事にはめちゃくちゃ厳しい先輩のお許しが出た。

 いや、だからさあ。


「えっと……こほん。最近入社した社員たちって、こういう現場、あんまり見る機会ないらしいじゃないですか。そういう人たちのために社内のイントラネットにも公開したらいいんじゃないかって。あとは融資審査の研修資料に提供するとか。……ただの思い付きですけど」


 おそるおそる提案してみる。

 すると、美里先輩はくすっと笑みをこぼすと、


「ふーん、いいんじゃない? やっぱ現場の臨場感がネット越しでも伝わってくれば、見る子たちにも感ずるものはあるだろうしねえ。じゃあ人事の研修課にはあたしから連絡しておいてあげるから。実際の依頼はあんたがやっといてね」


 なぜか俺の提案をあっさりと肯定した。


「へ? え、ええ。ありがとうございます……?」

「何アイデア出したあんたが呆けてんのよ。やるからにはきちんと責任持ちなさいよ」

「え? いやそれはもちろん。……ただ、先輩がすんなりOKしたのが意外で」

「いや、あんた、あたしのことなんだと思ってんのよ? 若い子の提案を一方的に無碍にするほど年じゃないわ」

「えっと……鬼? 悪魔?」

「……あんたねえ。あとでちょっとツラ貸しなさい。体育館裏……じゃなくてビルの路地裏に」


 ……やべ、つい本音が。それにしても、元ヤン疑惑がますます深くなるな、この人。

 あと、年じゃないと言いつつ若い子って……


 そこで、美里先輩は「はあ」と一度ため息をつくと、ヘッドセットを外すと、


「ところでさ桜坂……」

「な、何ですか?」

 

「さっきはああ言ったどさ、あんた、最近、プライベートでもいいことあったでしょ?」


 本当に楽しそうにニヤリと笑った。

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