第2話② 彼女たちの未来のために

 マスターこと真宮寺昭一さんは、その皺で細くなった眼光を俺に向けてくる。彼はもう60歳は優に超えているはずだが、ベテランの刑事のような渋い風貌には相当な迫力がある。


 俺は慌てて否定する。はっきり言って怖い。濡れ衣なのに。


「ちょ、ちょっとマスター。そんなわけないじゃないですか。買い物に付き合うだけですよ。ここに引っ越してきて二人ともバタバタしてたでしょ。やっと落ち着いてきたから身の回りのものを揃えたいんだそうです。俺は荷物持ちで駆り出されるだけです」

「む……」

「真宮寺さん。心配なさらないでください。妹も久しぶりの息抜きで浮かれてるだけですから」

「そ、そうか……ならいいが」


 続けて結月さんが援護射撃してくれたおかげで、マスターの批判めいたトーンがいくぶんか和らいだ。……なんだい、結局あんたも男かよ。


 面白くなさそうなのは日菜さんだ。


「何よー。出かけると決まった途端、お姉ちゃんだってめっちゃ気合入れて化粧直してたくせに。舞い上がってるのはどっちってカンジ」

「……日菜? 余計なことは言わなくていいのよ?」


 結月さんはニッコリと笑いかける。もちろん目は笑っていない。日菜さんはびくりと肩を震わせていた。

 ……でも結月さん、いつもの薄化粧でも十分すぎるほど美人だと思うんだけど。何でだろう。


「ともかくだ。俺も水瀬君たちの事情は分かったつもりだが、今の状態は決して世間体がいいとは言えん。それはわかっているだろう?」

「それは……はい」


 いくらマスターの配慮で別の部屋を貸し出してくれたとはいえ、確かにアラサーの独身男が若い女の子二人の生活の援助を申し出たことは、健全とは言い難い。どれだけやましいことはないと主張してみても、理解されることはまずないだろう。人と人との関係にすきま風が吹き続ける現代で、赤の他人との共助や共生が成り立つ時代ではないのだ。


「ここの住人はみな“色々ある”からまだ大丈夫だろうが、アパートの外はそうもいかん。特に日菜君はまだ未成年で高校生だ。光輝、意志が固いなら俺は止めないが、もし謂れのない誹謗を受けても、それはおまえの選択の結果だ。誰のせいにもできん。……平坦な道ではないぞ?」


 マスターが問う。その眼差しは、先ほどの疑い半分のものとは違う、俺の覚悟を推し量ろうとする真剣なそれだった。

 俺は頷く。


「はい。さっきこの子たちにも直接言いましたが、同情や憐憫で助けようとしたわけじゃありません。彼女たちのような優秀で将来ある学生たちは、きちんと最後まで学ぶ権利を享受すべきです。家庭の懐事情だけで途絶えさせてはいけないと思います。きっと、それが回りまわってほかの誰かのためになるはずです」


「光輝さん……」

「…………」


「……そうか。そこまで腹をくくってるなら俺はもう何も言わん。困ったことがあったら頼れ。できる限りのことはしてやる」


「……! あ、ありがとうございます! マスター!」


 俺は深く頭を下げた。

 ……なんていうか、恵まれてるな、俺は。こんな陰気でパッとしない野郎なのに。そんな価値なんてないのに。


「真宮寺さん。私も、できるだけ光輝さんに負担をかけないよう努力します。約束します」


 結月さんもまた、俺と同じくらいの角度で一礼をした。

 俺が先に頭を上げると、マスターは目を眩しそうに細めていた。


「……ふっ、確かにこれは未来をベッドするに足りうる楽しみな若者だな」

「へへっ、でしょ?」


 俺が自慢げに鼻をこすると、結月さんが「そ、そんなことないです……」とあわあわと手を振っていた。しかし、


「………………」


 明らかに納得していない少女が一人。


「……なんなのそれ。……ムカつく。……すっごいムカつく」


 日菜さんは小さく舌打ちすると、その場をくるりと振り返り歩き出した。


「ちょ、ちょっと日菜!? どこ行くのよ!?」

「……駅。先に行って待ってる。このへんで光輝くんと一緒にいるとこ、近所の人に見られたらまずいんでしょ?」



 彼女は感情の読めない瞳で一瞬だけ一瞥してから、すぐさままた前を向き、足早に進んでいく。


「あ、こら! 日菜ったら! ……光輝さん、ごめんなさい。先に行って待ってます!」


 結月さんは本当に申し訳なさそうにぺこりとお辞儀をしてから、慌てて日菜さんを追いかける。

 その二人の対照的な態度に、俺は思わず苦笑してしまった。


「……はは。すみません。日菜さんのほうはまだまだ子供っていうか……若いっすよね。でも、ああ見えて彼女もすごく成績いいんですよ」


 なんて、一応彼女より10年先輩として偉そうにしてみたのだが。

 マスターはなぜか渋い顔をしていた。


「あの子の怒りの理由を察せないおまえのほうがよっぽど子供だ。正直心配になる」

「え?」

「……まあ、それは俺のせいか。ほれ、ぼさっとしてないでさっさと追いかけてやれ」

「……え、は、はい……?」


 マスターに背中を叩かれ、俺もまた彼女たちの後を追おうとする。その時だった。


「光輝」


 背後からまたもや呼び止められる。優しい声色だった。


「俺から見ればおまえだってまだまだ若造でクソガキだ。……だから、あの子たちだけじゃなくて、自分の幸せってやつも少しは考えてみろ」


 俺は水瀬姉妹の後を追い始める。返事はしなかった。


 ………………。


 ……俺が幸せになる、ねえ。


 まあ無理、かな。

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