第33話 大赤道儀室・天文台歴史館
「これはなんかほんとに天文台って感じの建物ですね」
なずなが正直に言った。
「わたしたちは、いつもここで解説のボランティアをしてるんだけど」
階段を上ると、入ってすぐの部屋に菜緒さんと同じくらいの歳らしい学生の人がいた。笑ったことがあるんだろうかというまじめそうな男の学生の人だったけれど、菜緒さんを見ると、にっこりと軽く頭を下げて会釈した。
そこから階段でまた中に入る。中には、筒の長い大きな望遠鏡がドームの中で中空に筒先を向けていた。
「これはほんと、立派な望遠鏡ですね」
「まあ、屈折式、つまりレンズ式では日本最大だから。レンズの直径が六五センチ、焦点距離は約一〇メートル、横にくっついている副望遠鏡でもレンズの直径は三八センチもあるから」
「一〇メートルもあるんだ」
なずなは感心して見上げている。
「一〇メートルもあるから、地平線に近いところの天体を見るのと、上のほうの天体を見るのとでは、
「ええ」
なずながうなずく。
「はしごか何かあるんですか?」
「いえ」
菜緒さんは、自分たちの立っている赤茶色の床に目を落とし、その床をつま先でとんとんとたたいて見せた。
「この床がね、エレベーターになってて、上がったり下がったりするの」
なずながあっと驚く。ほんとに「あっ」と短い声を立てて。
はしごで上下するのかと思ったら、床そのものがエレベーターで上下する。
――漫画に使えるネタだと思ったのだ。
たぶん。
菜緒さんが続ける。
「だから、地平線に近いところを見るときには床を上に上げて、てっぺんのほうを見るときには床を下に下げるの。あとでこの下に行くけど、そこでそのためのおもりとか滑車とかを見ることができるよ」
「いまも動くんですか?」
「動かない」
菜緒さんが言った。
「一九九八年、平成一〇年にこの望遠鏡も引退して、二〇〇〇年に床を固定しちゃったから。でも、望遠鏡そのものは、見ようと思えば、いまも見られるようにはしてあるよ」
「じゃあ、なんで引退させちゃったんですか? 日本最大なんでしょう?」
なずながきく。菜緒さんは微笑して説明した。
「屈折式では、ね。屈折式の望遠鏡って、ガラスのレンズだから、大きくなるとどうしても分厚くなって重くなるし、あと、レンズってプリズムとおんなじで、そのままだと色を虹みたいに分解しちゃう性質があるの。カメラでもいっしょだけど」
と、菜緒さんは、フラッシュを使わないで望遠鏡を写そうとデジタル一眼カメラを構えているセリを見た。
セリはちらっと菜緒さんのほうを見る。得意そうな笑顔だ。
レンズが色を分解する性質は知っているのだろう。
「そのプリズムみたいに色を分解するのを抑えるために、いろんなレンズを組み合わせないといけないのね。そうすると、ますます重くなってしまう。だから、あんまり大きくできない」
「じゃあ、どうするんですか?」
「反射式にするの。つまり、レンズのかわりに鏡を使うわけ」
「部の大きいほうの望遠鏡が反射式だよ」
暁美が言う。わざわざ言ったのは、たぶんセリはわかっていないだろうから。
菜緒さんがつづける。
「反射式だと、回転軸の横から星の像を観察できるから、床を上下させる必要もないし。だから、国立天文台は、これより大きい望遠鏡も持ってるけれど、それはどれも反射式」
「それって、どこにあるんですか? それもこれから見られるんですか?」
「この三鷹にあるのは五〇センチの反射望遠鏡だね。ふだんは公開してないけど。それより大きい反射望遠鏡は、残念だけど、ここじゃないから無理ね」
「ここじゃない、っていうと?」
「国内だと、岡山。岡山の天体物理観測所ってところには、一メートル八八センチの望遠鏡がある。それと、ハワイのマウナケア山にはすばる望遠鏡があって、これは反射鏡の大きさが八・二メートルある。世界でも最大の望遠鏡の一つ」
「すばるってきいたことあるけど、ここの天文台のものだったんですか?」
「ええ。下の階にはすばるで撮った写真の展示とかもあるし、あと向こうの展示室にも説明があるけど」
菜緒さんはちょっとことばを切った。
「つまり、この六五センチ屈折望遠鏡が引退するのとだいたい同じころに、ハワイですばるが観測を始めたわけ」
「それもちょっとさびしいですね」
なずなが言う。
「すばるはすばるで観測して、ここの望遠鏡も観測を続けたらよかったのに」
「だってお金がかかるもの」
菜緒さんが肩をすくめた。
「ここのドームもだいぶ傷んでいるから、これから観測を続けるとなると、ドームの修理が必要になるし、床を上げ下げするエレベーターだっていずれ造りかえないといけなかったでしょう。それに、いま、観測にはコンピューターが必要だから、この望遠鏡もコンピューターで使えるような装置をいっぱいつけないといけないし。それで、さっきも言ったけど、このあたりって街が広がって、星がそんなに見えないでしょう? そんなところで観測するのに、それだけいっぱいお金をかける意味があるのか、っていう問題になるわけ。ここ、国立の天文台だからさ、やっぱり税金使うから」
「でも」
なずなはすっと背を伸ばして、菜緒さんのほうを向いた。
「最先端のものだけじゃなくて、古いものもいまもがんばっている、星があんまり見えないところでもがんばってるっていうのもだいじなことだと思うんですけど」
「うん。わたしもほんとはそう思うんだけどね。この望遠鏡もせっかく使えるんだから、昼間はこうやってみんなに見てもらって、夜はちゃんと観測すればいいし、あちらの第一赤道儀室でもどうしていまも黒点の投影観測とかしないのかな、って思うことは思う。それも、いろんなひとに来てもらってね。だって、さっき話したみたいに、太陽の黒点が多いと太陽の活動が活発だとか、太陽の黒点が見えなくなると地球が寒くなるとか、そういうことって、まだまだ知らないひとが多いわけでしょ? それに、あのおもり式の赤道儀みたいな機械って単純だから、何がどうなって動いてるか、見て確かめることができるのね。いまのコンピューター制御の機械って、正確で高度なことができるけれど、どこがどうなって、ってなかなかわからないじゃない? だから、自分の目で、単純な機械がごろごろって動いてるのを見て、おおっ、って思うのもだいじなことだと思う。でも、やっぱりお金を使うってことになると、わかってもらうのはたいへんだから。そんな古い機械のことなんかわかってもしかたないってひともきっと多いし、古い機械に触れるのもだいじだって思ってるひとでも、何もここの天文台でやらなくても、って思うひとも多いからね」
菜緒さんは、ことばを選びながら、ゆっくりと話した。なずなだけではなくて、セリもカメラのレンズのところに手を当てたままきいている。
「うん」
なずなはうつむき気味のまま言った。
「でも、そういうのって、わかってもらうのにどうすればいいんでしょう?」
「難しいよね。でも、わたしは、たとえばここでいまみたいなお話をすることで、少しはわかってもらえるようにがんばってるつもり。もちろんここでわたしが説明するひとは限られてるし、みんなにいみまたいな話ができるわけじゃないからね。でも、わたしにはわからないけど、それぞれ、がんばれるところでちょっとずつがんばるしかないんじゃないかな」
「うん」
なずなはうつむいたまましばらく考えていた。
(注)2022年1月現在、天文台歴史館(大赤道儀室)と展示室は新型コロナウイルス感染症対策で公開中止となっています。
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