第31話 子午環・子午儀

 菜緒なおさんは、三人の天文部員を引き連れて、アインシュタイン塔の反対側、天文台の奥のほうへと進んで行った。

 林のなかに、昭和初期の古い図書庫やテニスコート(これはべつに古くない)があり、左側には大きな望遠鏡のドームが見えている。そして、右側に、古びた小さい建物と、屋根がかまぼこ形になった、やっぱり古そうな建物があった。その先で林は途切れ、広く開けたところのまん中に、かまぼこ形の屋根の、しかし手前の建物よりはずっと新しくて大きそうな建物があった。

 「この天文台のいちばん奥のほうの三つの建物は、門に近いほうからレプソルド子午儀しごぎ室、ゴーチェ子午環しごかん、自動光電子午環っていうんだけど」

 「ぜんぶシゴなんとか、ってつきますね?」

 なずなが言う。よく気がつくと暁美あけみは思う。

 菜緒さんが振り向いた。

 「うん、いいところに気がつきました。で、子午、って意味、わかる?」

 「ぜんぜん」

 セリがさっさと否定する。

 暁美もわからない。

 こういうときはセリがいてくれると楽だ。

 「えっと、えとのうしとら……の「」が、方角に当てはめて北、で、「うま」が南だから、南と北のことね。「子」と「午」を漢字で並べて書いて「子午」。太陽がその「午」の方向を通るときが正午で、その前が午前、後が午後っていう言いかたをするわけ」

 暁美はその説明でわかったけれど、セリはわかったのか、わからないのか。

 そのセリがきく。

 「で、この建物って、それとどう関係するんですか?」

 「ここではね、建物の方向が正確に南北になってて、望遠鏡の先が正確に北や南に向くようにできてるのね。それ以外の方向には絶対に向かない。最初のレプソルド子午儀室は惑星とか小惑星、ゴーチェ子午環はほかの星を観測できるようになってた。できたのはここまで見てきた建物とだいたい同じくらい、つまり、天文台がここにできたころからある建物というわけ」

 「でも、望遠鏡が北とか南とかだけにしか向かないとしたら、不便じゃないですか」

 セリが言う。菜緒さんは小さく首を振った。

 「いいえ。ぐるっと回る望遠鏡は、さっきの第一赤道儀室のとか、これから行く大赤道儀室のとかあるでしょう? これは、正確に南北にしか向かない望遠鏡だから、意味があったわけ」

 「どうしてですか?」

 「星の位置を正確に決めるため」

 菜緒さんが言った。

 「空にも赤道があって、地上と同じように、南北方向の緯度と東西方向の経度が決まってるのね。それで星の位置を表すんだ。星が何時何分何秒に真南や真北に来たかっていう時間を計ると、それで、まず、空のどの経度に星があるかがわかる。まあ、昔、電波とか人工衛星とかが使えなかった時代、船で、精密時計を使って、太陽を観測して船の位置を決めてたのと同じ方法ね」

 「ああ、なんとなく、わかります」

 セリがまじめに答える。菜緒さんはそれ以上説明はせずにつづけた。

 「で、そのときに、星が地平線からどれくらいの高さにあるかを測れば、やっぱり三鷹の緯度と較べて、その星が空の赤道からどれくらい離れてるかわかるでしょう? ここの頭の上が、ちょうど地球上の赤道とこの三鷹の角度だけ空の赤道から離れてるんだから、それを足したり引いたりしたら」

 「ええ、なんとなく、わかります」

 「そうすると、星の位置がはっきりと決められる。そのために、ここの二つの建物の望遠鏡は、正確に北か南かしか向かないように造ってあったわけ。でも、それでも、人間が目で見て、いま真北を通ったな、とか思って、それで位置を書きとめたとしても、どうしてもずれるじゃない? 思って書くまでに時間がかかるし、そのときどれくらいそのひとの頭がさえてたかとかで、その時間が変わっちゃうかも知れないし」

 「はい……」

 「それで、あっちの大きいのを造ったわけ」

 菜緒さんは奥の銀色の建物を指さした。手前の二つの建物はまわりを木に囲まれていて、何か「山の山荘」みたいになっているが、この新しい建物の両側は木がなくて、一面の草地になっている。

 草地は大きな窪地になっていて、その底に、百葉箱を大きくしたような建物が建っている。それは銀色の建物の両側にあった。

 菜緒さんが説明する。

 「あれは自動光電子午環っていって、一九八二年、昭和五七年、平成になるまであと七年って年に造られた、やっぱり南北方向専門の望遠鏡でね、これは、いまのデジタルカメラとおんなじ仕組みを利用して自動で星を観測する装置なの。あのくぼんだところの建物が、正確に望遠鏡の北と南にあって、そこから南北にレーザー光線みたいな光を当てて、それに星が重なったところで位置をぱちっと記録する、って仕組みで。目で見て観測するのの五倍の精密さがあったの」

 「じゃあ、いまはあっちの新しいのを使ってるってわけですね?」

 「いえ、あれももういまは使ってない」

 菜緒さんは笑った。

 「なぜかって言うと、まず、まわりが街になって、星が見えにくくなった」

 「ああ……」

 「あと、最近は人工衛星で星の位置がものすごく正確に測定できるようになって、その観測結果で星図――つまり星の地図――も作られたから。それと較べると、この自動光電子午環の技術で測定できる精密度ってずいぶん低いから。だからね、あの第一赤道儀室の、おもりで望遠鏡を回す望遠鏡が六〇年間も太陽観測に使えたのに、この自動光電子午環は二〇年ほどで役割を終わっちゃった、ってことになるわけ。技術が進歩すると、その技術ですごいことができるけど、そのかわり応用範囲が狭くなるから、新しい技術が出てきたときにどうしてもすぐに古くなっちゃうのね」


 (注)自動光電子午環室は現在は天文機器資料館となっています(2022年1月現在、新型コロナウイルス感染症対策で閉鎖中)。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る