第30話 アインシュタイン塔

 「さて、ちょっとこの太陽系のところから道をれて」

 菜緒なおさんは、「木星」を過ぎたところの道を左へ曲がった。

 両側は高い木立が続く。冬の日はもう日没も間近で、道はもう薄暗くなり始めている。

 道の両側には色づいた落ち葉が積み重なっていた。

 「天文台って、木がすごいですね」

 暁美あけみとセリの後ろからなずなが言った。

 「もしかして、天文台って植物の観察とかもしてるんですか?」

 「いえ」

 先頭の菜緒が答えた。

 「この天文台のあるあたりは、もともとこういう森や林だったの。ただ、まわりがぜんぶ家になったり、工場ができたりして、森や林がなくなってしまっただけ。でも、天文台の敷地だけは、天文台がここに移ってきたときからこのままだから、森や林が残っている、って、そういうこと。わざと森や林のままにしたんだよね」

 「なんでですか?」

 なずながきく。

 「そのほうが暗いから。夜によそから光が入ってくると望遠鏡にその光が入っちゃうでしょ? その光を森や林でさえぎるってことだよね。まあ、天文台ができたころは、その程度でさえぎれるくらいの光の明るさだったってことだよね」

 「はあ」

 なずなが感心する。

 道を突き当たると、右へ曲がる。曲がるところに看板が出ていた。

 「蛇に注意、だって」

 セリが看板を見て小声で暁美に言った。暁美も「うん」と小さくうなずく。

 ところで、蛇にはどう注意すればいいのだろう?

 蛇はもう冬眠してしまっただろうか?

 前に来たのは春で、そのときにはまだ冬眠から起きていなかっただろうか?

 夏に来るときには注意したほうがよさそうだ。

 「着いたよ」

 菜緒が声をかける。道は行き止まりになっていて、立ち入り禁止のロープが張ってあった。

 その向こうに、上に望遠鏡のドームの着いた、高い四角い建物がある。

 「ああ、これ、お土産で売ってたよ」

 セリが無遠慮に言った。

 「これの切り紙細工みたいにしたやつ」

 「ああ、うん」

 菜緒さんが先を制されて、少し詰まってから言った。

 「コスモス会館って、ここの反対側の売店でね。この塔を切り紙細工みたいにしたクリアファイルを売ってる。今日は日曜日だから開いてないけど」

 「なんだ」

 セリがどちらでもよさそうに言う。前に来たときに、自分は買うものは買ってしまったからだろう。

 「えっと、これがアインシュタイン塔っていって、これもやっぱり太陽を観測するための望遠鏡なんだ。でも、さっきと違うのは、これは、あの五階建ての高い塔全部が望遠鏡の筒になってるってこと。さっきの赤道儀とおんなじように、上のドームを回して太陽の光を取り入れて、それをレンズとか鏡とかであの建物の五階から地下まで通して、で、地下で観測する仕組みになってるんだ」

 「アインシュタインって学者の名まえですよね?」

 セリがきく。

 「アインシュタインさんがこれを造るお金を出したとかですか?」

 セリのお母さんは、暁美やセリやなずなの通っている学校の理事だ。理事というのは学校の経営とかをやってる仕事らしい。

 そこで、とても理事の娘らしい質問だと暁美は思う。

 セリが寄附きふして学校に塔を建てたら「セリ塔」という名まえになるのだろうか?

 「うん、まあ、関係あるんだけど、でもそうじゃなくて」

 菜緒さんは微笑して答える。

 「アインシュタインの一般相対性理論――って知ってる?」

 セリは答えない。暁美がかわりに

「えっと、名まえだけは」

と答える。

 「そう。ちゃんと理解しようとしたら、すごい難しい数学が必要になるから」

 菜緒さんが笑う。

 「たしか、重力が強いと時間が遅くなったり、空間が曲がったりするんですよね?」

 一年生のなずなが後ろから元気よく言ったので、暁美とセリが振り向く。なずながまた恥ずかしそうにする。

 「あの、前に漫画描くときに、いちおう調べて、それで、そのときにそんなことが書いてあったから」

 「そう」

 菜緒さんが言った。

 「時間と、空間の長さっていうのがじつは関係しあっていて、両方とも重力の影響を受ける、ってことかな。でも、アインシュタインがそれを言い出したころには、それを確かめる方法がなかったの。それで、太陽って大きいから重力が大きいでしょう? だから、太陽を観測すれば、その一般相対性理論っていうのの証明ができるんじゃないか、っていうことで、これを造ったんだ。だから、さっきの黒点を観測する望遠鏡よりずっと大きなこんなのを造ったんだけどね」

 「で、この建物、っていうか、この望遠鏡でそれを証明した、と」

 セリがどうでもよさそうに言う。

 「いいえ」

 菜緒さんが答えた。

 「この望遠鏡ではその一般相対性理論の証明はできなかった。いまでは、時計も精密になったし、遠くの銀河を大きい望遠鏡で観測したら、光が曲がってるところって見つかるから、ああ、じゃあ空間も曲がってるんだな、ってわかるけれど、これが造られた一九三〇年、昭和五年ごろの技術じゃ無理だったのね。太陽のおかげで空間が曲がるってことは、日食のときに太陽の近くの星を観測したのと、あとは、太陽に近い水星の動きを理論的に説明することで証明された」

 「じゃあ、これは、造ってむだだった、ってことになるんですか?」

 セリが菜緒さんにきく。

 「それは考えよう、かな」

 菜緒さんはそう答えた。

 「たしかに一般相対性理論の観測はうまくいかなかったけど、そのことだけで、一般相対性理論の効き目っていうのが、太陽ぐらいの天体ではほんとうにごくわずかだ、っていうことの証明にはなった。地球の近くでは太陽がいちばん重くて大きい天体だけど、それでもほんとわずかしか曲がらないっていうことの証明だから、それも重要。それに、これだけ大きい望遠鏡で太陽のことがいろいろと観測できたんだから、そういうことでは無駄にはならなかったっていえるんじゃないかな?」

 「つまり、漫画で、アタリを取り損ねて失敗した原稿みたいなものですよね? その、失敗して原稿用紙一枚無駄にしたけど、それで構図とかバランスとか字の入れ方とかがわかって、それで次に描き直すときにそれが使える、みたいな」

 なずなが言う。暁美とセリが同時になずなを振り向いた。

 それは……何か違うのではなかろうか。

 でも、またなずなが恥ずかしそうにする前に、菜緒さんが言った。

 「あ、たぶん、似てるんじゃないかな、って思うけど」

 それは先輩二人に「違う」と言わせないためだったかも知れない。菜緒さんはしばらく考えた。

 「うん……。わたしは漫画は描かないからよくわからないけど、お金はかかっても、ときにはやってみてうまく行きませんでした、っていう体験がないと、天文学とかも進歩しないんじゃないかな? だって、いままでわかっていることで絶対に成功するってわかってることばっかりやってたら、新しいことは何もわからないわけでしょう? 漫画描くのも、あと、勉強もほんとはみんなそうなんだと思う」

 菜緒さんがきちんとフォローしてくれたので、なずなは恥ずかしそうにせずにすんだはずだが、やっぱり小さくぴょこんと頭を縮めて、恥ずかしそうにして見せた。


 (注)天文台の樹木は、もとの「武蔵野の林」がそのまま残ったものというより、周囲の人工の光が観測に影響しないように植林したものだそうです。

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