第16話 観望会が終わって
観望会そのものはすぐに終わった。
望遠鏡二台で、観望者は三人で、部員が自分で見る分を入れても六人だ。それに、漫研部員は、木星を見ることそのものは珍しくても、どこに注目すればいいかというポイントは知らない。
それはそうだ。
だから、集中して見ている時間にも限界がある。
大赤斑は見えていたけれど、漫研の部員たちは、微かな大赤斑よりも、木星本体の左右に散らばって見えるガリレオ衛星のほうがおもしろいらしかった。手前のほうにいた一年生部員は、グミ先輩に「衛星の影が映っている」ときいて、それが見えるまでじっと見ていて、そして見分けられたら「やった」と言って喜んだ。
もう一人と次期部長も影を捜す。一年生部員はすぐに見つけたけれど、次期部長はなかなか見つけられず、望遠鏡をのぞきながら
「そこですよ、そこ」
「もっと下、じゃなくて上です」
と一年生に
けれども、その衛星の影探しが終わると、漫研部員三人は「ありがとうございました」と言って引き上げて行った。木星と、その表面の衛星の影が見えたというので三人とも興奮したままだった。
観望会としては成功だ。
残った部員でしばらく木星をのぞいたり、天の川を見たり、はくちょう座の嘴のところの二重星アルビレオを見たり、セリが超巨星の直径が見えるかどうか試してみる――高校の部活で使う望遠鏡でそんなものが見えるはずがない――と言ってさそり座のアンタレスを見たり、準惑星になった冥王星が見えるかどうか試してみたり――これも見えるわけがなかった――した。セリも、暁美も、それにグミ先輩も、口数が多く、いっぱい笑ったりしゃべったりして、次々にいろいろな星を見た。
みんな、終わりの時間が来るのが怖いんだ、と暁美は思う。
しかし、今日は、このまえの流星のときのように徹夜という許可はもらっていない。一〇時には終わることにしてある。それだって特別扱いだから、だらだら居残ることもできない。
残り時間が少なくなってきた。
「じゃあ、そろそろ望遠鏡を片づけましょうか」
グミ先輩のそのことばで、部員だけの観望会も終わった。
屋上には、このあいだの流星観測で使ったのより大きい折りたたみテーブルが一つ、その上のランプと、パイプ椅子が三脚、残っただけだった。
三階の上だったけれど、蛾やもっと小さい虫が、そのランプに集まってきている。
いちばん奥のパイプ椅子に座ったグミ先輩が言った。
「こんどのこと、言ってなくて、ごめんなさいね」
「あ、いえ」
暁美が答える前にセリが言った。
そういえば、いつもそうだった。グミ先輩と話をするときには、話し出すまで時間のかかる暁美より先に、セリが受け答えをするのが普通だった。
暁美のグミ先輩への気もちを知っているはずのいまでも、セリは譲ってはくれない。
でも、暁美はそれでもいいんだと思った。
「わたしこそ、母から聞いて、しかもアケビに探りを入れさせるようなことをして、すみませんでした」
セリはいつになくことばがていねいだ。グミ先輩がやわらかくこたえる。
「急に決まったことだったから、わたし自身が、あれっ、あれっとか言ってるうちに日が経っちゃって、それで、いろいろな手続きとかはやったんだけど、ぜんぜん、自分が外国行くっていう実感はできてこなくてね。ほんとは、いまもあんまり信じられない感じ」
そうか。グミ先輩でも、「あれっ、あれっ」とかいうふうになるんだ。
少し前までの暁美が、観望会で質問を受けると、「えっと、えっと」と言って、知っていることでも何を言っていいかわからなくなっていたみたいに。
でも、もちろん、グミ先輩はそこでしゃがんで泣き出してしまったりしない。
あたりまえのことなんだろう。けれど、暁美にはできない。
いや、今日でできるようになったのかな?
よくわからない。
セリが自分をじっと見ているのに暁美は気がついた。でも、暁美が口を開く前に、セリがグミ先輩にきいた。
「先輩って、どこに行くんですか?」
「あ」
グミ先輩ははっと息をのんだ。
「そういえば、それも言ってなかったのね。ごめんなさい」
そう言って、ことばを切ってから
「オーストラリア。だから、いま行ったら冬。これから春になって。だから、半年後に、また夏になるの。何か変な感じだけど」
「オーストラリアだったら、英語、通じますね」
セリが言う。暁美がふと、
「英語しか通じない、じゃなくて?」
とことばをはさんだ。セリが唇を尖らせる。
「わたしたちには、そうだけど。先輩をいっしょにしちゃだめだよ」
「いや、練習はしたよ」
グミ先輩が笑って言った。
「会話の授業でいろんなシチュエーションをやっていても、さ。ほら、実際の生活で、朝起きてから寝るまでって、それで言うことをぜんぶ英語でって、やっぱり知らないこといっぱいあるでしょ。あと、オーストラリアってイギリス英語だから、ちょっと違うからね」
「え?」
セリがグミ先輩と暁美の顔を順番に見る。
「英語って、世界共通じゃない……?」
最後のほうは声がかすれている。
「だからさあ」
暁美が言った。
「イギリス英語とアメリカ英語って違うところがあるんだって。わたしたちが勉強してるのってアメリカ英語だから」
「まあ、通じるらしいけどね」
グミ先輩が言う。
「それに、わたしたちのレベルでは、イギリス英語とアメリカ英語の区別が正確にできるっていうことよりも、まず英語そのものがちゃんと話せるようになることがだいじだから。けっこうたいへんなのよ。この前のペルセウス群の観測会の前にちょっとだけ行ってきたんだけど、とっさに、「はい」って何っていうのか、わからなくなったりして」
「えっと」
セリはどんどん英語の罠に落ちこんで行っているらしい。暁美にきく。
「そういえば、アケビさ、英語で、はい、って何って言うんだっけ?」
「イエス、じゃないの、普通?」
「あ、そうか。そういえば、そうだね」
「それがね、とっさに出てこなかったりするの」
グミ先輩が言う。セリは疑わしそうだ。
「それは、わたしとかはそうだけど、先輩とかアケビとかはそんなことはないでしょう?」
「それが、いざとなったら言えないのよ」
「グミ先輩がそれなら」
セリは悲しそうに言った。
「わたしなんか、いつまで経っても外国人とコミュニケーションできないな」
「いや、イエス、は言えなくても、コミュニケーションはできるから」
グミ先輩が言う。
「単語が並んでれば、まあだいたい理解してもらえるから。わたしたちだって、外国人の片言の日本語、わかるでしょ、だいたい」
「まあ、そうだけど」
セリはしばらく考えて、またきく。
「でも、グミ先輩は、授業とかも英語で受けるんですよね? その、英語以外の授業でも」
「うん」
それで「うん」と軽く言うところがやはり違うと思う。
「先輩だったら、わかるんですよね?」
「わからないわよ、そんなの」
グミ先輩はあたりまえのことのようにこたえた。
「だから、最初は、どういう授業をやるか見当をつけて、日本の教科書とか参考書とかを読んで行って、どんな話をしてるのか見当つけながらきくしかないって。そうやって少しずつ慣れるしかないんだって」
「それって、日本の授業でもちゃんと予習復習をやってる先輩だからできることですよ。わたしなんかそんなになったら」
「じゃ、セリも予習復習をきっちりするようにしたら?」
「うぎゅう」
やり込められてしまった。
セリは、悲しそうに、黙ってうつむいて、やがて顔を上げる。
グミ先輩の顔をじっと見て、一つ瞬きし、次に暁美の顔を見る。
「じゃ、わたし、漫研が下で何かやってないか見てきますから。お母さんにきいたんだけど、あの次期部長って、無届けの居残りの常習犯みたいですから」
「ああ」
暁美が声をかけたときには、セリは立ち上がっていた。
何をしに行くのだろう?
べつに漫研が何をしていても、わたしたちには関係のないことなのに。
それに、どうしてそんなに、いそいそと?
「それじゃ、グミ先輩っ」
言って、グミ先輩にちょっと頭を下げた。
「うんっ」
グミ先輩も潤いのある声でこたえる。セリは屋上の建屋の扉を開けて、なかに入って行った。
がちゃん!
「えっ? えっ、あっ!」
遅かった。
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