第15話 まだ、ちょっと寂しいだけ
「ガスでできてるんだったら、透明なはずでしょ? どうしてそんな木目みたいなのが見えるの?」
次期部長は、ともかく木星が気体でできているということにこだわりがあるらしい。
「あ、えっと」
そういえば、気体ならば透明なはずだ。それは考えなかった。
でも、もう慌てない。前なら、こんなことをきかれたら、泣き出してしゃがみこんで、一年生の前で恥ずかしいところを見せてしまっただろうと思う。
セリのおかげだ。
それと、グミ先輩の。
「あ、そうですね。でも、地球の空気だって、透明なはずだけど、雲は見えるじゃないですか。霧が出たりするとぜんぜん前見えないし。それに、海の水は透明だけど、宇宙から見ると、いえ、たとえば
「ああ、それだったらわかる」
次期部長が落ち着いた声で言った。
「ほら、海を見てても、風向きでちらちらして白く見えるところと、深く青で見えるところと、違うし。それに、自分で確かめたことはないけど、黒潮はまわりより黒いっていうし。そんなんじゃないのかな。だから言ってるんだよ。海だからってぜんぶおんなじ色で塗ったり、おんなじトーンをべたっと貼ってごまかしたりしちゃだめだ、って」
「はあ」
漫研部員に言っているのだろうが、何のことかよくわからない。
「あ、でも、たぶん、そうなんじゃないかと思いますけど」
違うような感じもしたけれど、だいいち、
「あの、一つ質問ですけど」
さっき、八犬伝がどうこう言っていた一年生がきいた。
海の塗りかたについての次期部長のお説教はあまり効果がなかったみたいだ。
「はい」
また江戸時代の話とかされたら困ると思う。
「あの、教科書とか、あと、テレビで見たのでは、その、大赤斑っていうんですか、そのでっかい木目みたいなやつ、下のほうについてたんですけど、その図では上になってますよね?」
「ああ」
想定はしていなかった質問だが、これならばすぐ答えられる。
「天体望遠鏡で見ると、上下が逆に見えるんです。図がそれに合わせてあるだけです。だから、ほんとの向きは、大赤斑が下、というか、南のほうがほんとで」
「え、だって」
一年生部員はとまどっている。
「顕微鏡はたしかに逆に見えるけど、望遠鏡って、ほら、逆にはならないじゃないですか。だって、この前の即売会のあと新橋のほうまで出て、東京タワー行って、展望台から望遠鏡でいろんなところを見たんですけど、そのとき東京が上下逆に見えたかっていうと、そんなにはならなかったですよ」
「即売会」って何なんだろう?
――そう思ったけれど、それはきかずに、
「あ、そうですね」
と、暁美はうなずいた。
「でも、展望台とかについてる望遠鏡って、じつは近くを見るためのもので。だって、遠くが見えたって言っても、五〇キロとかでしょ? それだと上下逆にしなくても見えるんですよ。だから、どっちかというと、そういう望遠鏡って、遠視の眼鏡に近くて。眼鏡ってひっくり返って見えたらたいへんじゃないですか。それといっしょです」
「ええ、それはそうですけど……?」
「でも、天体望遠鏡ってじつは全然違って。八億キロとか向こうを見るものだから」
「八億キロ?」
「ええ。これから見る木星が太陽から八億キロぐらいですけど?」
一億五千万の、五・二倍。
「八億キロって、えっと、一時間歩いて四キロとして、歩いて行って二億時間、二億時間って言うと、一日で二四時間だから、えっと、一か月が、だいたい七二〇時間とかで」
「無駄な計算やめなさいって」
次期部長がたしなめる。
「駅から会場まで歩く間にへばってるような体力では絶対に歩けないから」
「えーっ? だって重かったんですよ、新刊ぜんぶわたしが持ってたんだし」
漫研どうしのよくわからないやりとりが続く。
暁美は微笑してつづけた。
「えっと、えっと、八キロ歩くのもたいへんだけど、その、一億倍。そんな遠いところの小さいものを見るわけだから、天体望遠鏡ってじつは顕微鏡とかに近いんですよ。だから、顕微鏡とかといっしょで、上下が逆になってしまうっていう」
なぜ天体望遠鏡で上下が逆になるかは前に調べたことがある。でも思い出せない。
でも、いまはこんな説明でいいんじゃないかと思った。
「えっと、じゃ、説明は終わりにして実際に見てみたいと思うんですけど」
グミ先輩がほほえんで軽くうなずいてくれる。説明を切り上げるタイミングもちょうどよかったようだ。
用意した説明は半分以上残っているけれど。
「あ、この図みたいにはっきり見えたりはしないですから、がっかりしないでください。最初はまず白くて円いのが見えるだけだと思います。じっと見てると木目みたいなのがちょっと見えるかな、って感じで。だいたいこういう絵を作る人は見慣れてるからここまで見えるんだし、あと、写真も、模様がはっきり見えるように強調したりしてあるから」
「あ、それ、わかる」
次期部長が言う。
「鉛筆絵の筆圧の弱いやつとか、わたしたちもそうやって強調して見えるようにするから。そこのなずななんてさ」
なずなというのは、手前に座っているほうの一年生部員らしい。何を言われるかわかっているらしく、ちょっと首をすくめて笑っている。
「鉛筆絵だといい絵描くんだけど、筆圧弱いんだよね。それであとで処理するときに苦労する。こいつが画用紙に鉛筆で描いた線なんか活かそうとすると、紙のざらざらまで写っちゃってさ……ほんと画像処理苦労するんだわ」
「あ、はあ」
よくわからなかったが、漫研もいろいろな工夫をして部活動をしているのだということはわかった。
「あ、それと、木星も地球といっしょで自転してるので、その大赤斑は、こっち側を向いてるときと、地球の反対側に向いちゃってるときと、両方あって、いま見えるとは限らないので、それもよろしくお願いします」
「りょーかいっ」
次期部長が言って手を挙げた。部下の一年生部員がそれに合わせて立ち上がる。
セリがテーブルの上に置いたランプの明かりで目を輝かせてこちらを見ているように見えた。
グミ先輩も、肩の力を抜いて、心地よさそうにパイプ椅子に腰掛けて、暁美のほうを見ていた。
グミ先輩の思い出に残るという目的は達した。
そして、次の観望会では、もうグミ先輩はきいてない、グミ先輩はそのパイプ椅子に座ってない、と思うと、寂しかった。
でも、ちょっと寂しい。
まだ、ちょっと寂しいだけだった。
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