第7話 あの日の夜の空
あの日の夜も、空は晴れていたが、星は昨日の夜と同じように
暗い星は見えなかった。明るい星の輝きも鋭さを失っていた。
でも、それは、何かにふんわりと包まれた優しい星空のようでもあった。
空高くに、その空によく似合った天体が輝いていた。
小さい綿毛のようにふわっと黄色い白い光が滲み、見ようによっては、その滲んだ光がかすかに筋を引いて流れているようにも見える。
「この
グミ先輩が説明していた。ふわっとした優しい声で、でも、ことばの切れ目でめりはりをきかせている。その声がさざ波を打つように暁美の耳の後ろから体に滲みてくる。
体が震えるように感じた。
寒さのせいだったかも知れない。
でも、
「発見のときには、まだ、いまの一億分の一の明るさもなかったんです。とても微かで、望遠鏡を使わないと見えないというだけではまだ足りなくて、星空の同じところに望遠鏡をじっと向けつづけて、とっても感度のいいデジタルカメラでずっと長い時間写真を撮って、それでやっと見つかる明るさだったんです。だから、見つかったのも、望遠鏡のなかではなくて、望遠鏡で撮った像を大きく拡大して映し出したコンピューターの画面の上でだったんですね。そこで偶然に見つかりました。ところが、それから半年で、彗星は明るくなって、コンピューターで拡大しなくても、望遠鏡なんか使わないでも、こんなふうに、街の夜空でも見えるようになったんです」
グミ先輩は冬の制服を着て、この屋上に集まった三十人ほどの人たちに向かって説明していた。
高等部の生徒だけでなく、中等部の生徒も来ていたし、先生や、生徒の保護者らしい大人もいた。
そのみんなにわかるように、グミ先輩はことばを選びながら話していたのだろう。でも、グミ先輩は一度もつっかえなかった。
短い説明が終わると、グミ先輩は、来ていたみんなを望遠鏡のところへ案内した。
天文部が持っている望遠鏡は、そのときもいまも二台だけ――八センチ屈折望遠鏡と一二・七センチ反射望遠鏡だけだ。
一二・七センチ反射望遠鏡のほうがよく見える。でも望遠鏡待ちの行列は屈折望遠鏡のほうが長かった。レンズを星に向ける屈折式のほうが望遠鏡らしく見えたからだろう。
屈折式望遠鏡のほうにはそのころの部長さんがつき、反射望遠鏡の横ではグミ先輩が説明をしてくれていた。暁美は反射望遠鏡のほうに並んだ。
暁美のすぐ前にいた中等部の女子生徒は、最初はむずかる子どものように「見えない」を繰り返していた。この子はどうしてこんなにだだをこねるんだろうと暁美はいらいらした。でも、グミ先輩は、ときどき自分でも望遠鏡をのぞきながら、どう見ればいいか、どこを見ればいいかを、繰り返し、ていねいに教えた。そして、その子は最後には
「目で見るよりずっとはっきり見える、きれいに見える、わあ! 川が流れているときみたい!」
と大きい声で言ったのだった。
その中学生が興奮した声で「ありがとう」と言って望遠鏡を離れ、暁美の番が回ってきた。
暁美は、そのとき、一二・七センチ反射望遠鏡で、沼間‐SMONEAS彗星のどんな像を見たか、まるで覚えていない。
この先輩に何か話しかけて、何か言ってもらわなければ、でもどう話しかければいいだろうと、そのことばかりを考えていた。
でも考えつかなかった。いまの中等部の生徒とちがって、ちゃんと彗星の像は見えていた。見えているものを、どう見ればいいんですか、とたずねるような演技力は自分にはない。
「見えてる?」
ふいに耳の後ろでグミ先輩の声がした。ふんわりと首の後ろの背骨のほうへとその声がじかにしみ通ってくる。
「あ……えっと……」
「ピントがずれちゃってない?」
「い、いえっ。だいじょうぶです」
喉が細く細く締まってしまったような声だったと思う。
すぐに望遠鏡から目を離したら、彗星を見る気がないと思われるかも知れない。暁美はしばらく望遠鏡をのぞきつづけた。
望遠鏡から目を離して振り向いたとき、自分はどんな顔をしていただろう?
「どうだった?」
きかれて、どう答えたか、覚えていない。グミ先輩は、つづけて
「何か、質問、ある?」
とやさしくきいた。
何かきかなきゃ――と思った。でも質問なんか考えていない。
そのとき、とっさに自分が何をきいたかは、暁美はいまも覚えている。
「あの、彗星って、見つけたひとの名まえがつくんですよね?」
それは、さっきグミ先輩が説明していたことだ。
「ええ」
もうすこし先のことをきかなければ。
「その、沼間っていう日本人の天文学者って、どういうひとなんですか?」
グミ先輩は、何か言おうとして、そこでことばを止めたようだった。
あ、まずいことをきいた――と暁美は思う。
名まえはわかっていて、日本人だということもわかっていても、「どんなひと」かはなかなかわからないだろう。
「どんな」という質問は、きくほうは安易にきけるけれど、答えるのには困る。
「どう、言えばいいのかな」
でも、グミ先輩は、きちんと答えてくれた。
「うん。彗星を探す人のことをコメット・ハンターって言うんだけど、コメット・ハンターと天文学者は同じじゃないことも多い、って知ってた?」
「いいえ」
「つまりね、コメット・ハンターっていう人たちは、最先端の天文学とかを知っているとは限らないけれど、夜空を熱心に見ている人たちで、学者っていうのは、空を実際に見ることよりも、星とか宇宙とかについて学問的なことを知るのが仕事なのね」
「はい」
「でも、この星を見つけた沼間先生ってひとは、コメット・ハンターじゃなくて学者なんだよね。彗星にはほとんど興味のないひとで、さっきも言ったけど、オーストラリアのスプリング・マウンテン天文台っていう天文台、正確に言うと、その天文台を持ってる大学に勤めていてね、そこで学問的な研究をしているひと。そこで、自分の研究のために撮った写真に、たまたまあの彗星が写っていて、それで彗星に名まえがついたの」
「……はい」
暁美の答えは上の空だった。グミ先輩は心配そうに暁美にきいた。
「これで、いい?」
「あ、はい、えっと、あの」
暁美はもう少し何か言わなければと思った。
「あの、わたしも、天文部に入りたいんですけど、ど、どうしたらいいんですかっ?」
そんなことは思ってもいなかった。ただ、グミ先輩が、このまま次の順番のひとに声をかけてしまうのがたまらなかった。
グミ先輩は笑った。
「嬉しい。じゃあ、あした、部室に来て。この建物の三階。わたしが待ってるから。名まえは?」
「わたしは、
「わたしは、
「あ、はい。えっと、よろしくお願いします」
自分でもおかしいと思うほどに暁美は大きく頭を下げた。
自分がどんな顔をしているか、自分にもわからなかったし、ましてそれをグミ先輩に見られたくはなかった。頭を下げると、長い髪が顔の左右に垂れて、表情を隠してくれる。
それが一年と一学期前のことだった。
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