第6話 青い空のひつじ雲

 暁美あけみはグミ先輩の携帯電話の番号も知っていたけれど、家の電話にかけてみた。

 だれも出てくれなかったとしたら、それでいいと思った。

 それに、グミ先輩が観測会で徹夜して帰って、寝ているならばそれでもよかった。

 でも、電話には、グミ先輩本人が出た。

 だから、暁美は、セリに言われたとおりきいてみなければいけなくなった。しどろもどろになりそうになって、ききたいことを説明して……。

 「そう、セリが……」

 そのしどろもどろを最後までしんぼうして聴いてくれたグミ先輩は、落ち着いた、というより、沈んだ声で言った。

 その返事はどうなのだろう。

 「それ、ほんとうのことよ」

 体じゅうの血がいちどに倍か三倍の重さになった感じがした。

 いや。

 その重さは体から抜けてしまって、体が宙に浮いているようでもある。

 「黙っててごめんなさい」

 「い、いいえっ……」

 こんなときにも、グミ先輩の声はふわっと柔らかくて、そして柔らかく光を反射しているような艶がある。

 派手ではないが、上品な。

 どうして、こんなときの声まで……?

 「暁美とセリには今朝までに言わないと、って、昨日、空を見ながらずっと考えてた。でも、恒星のスペクトル型とか、いつもみたいに話をしていたら、言いそびれて。でも、あとでちゃんとメール送らないと、いいかげんまずいよね、とか思ってるところだったんだ」

 何も言わない。暁美も何も言わない。

 「よけいに心配かけて、ごめんなさい」

 グミ先輩がもういちど謝る。暁美は慌てた。

 「いいえ、そんなことないです。わたしこそ、観測会のあとの、眠いところにこんな電話かけて、ごめんなさい。あ、えっと、おやすみなさい。あ、えっ」

 自分でも何を言っているのかよくわからないまま、暁美は電話を切っていた。

 グミ先輩は、そのあと、何か言いたかったのかも知れない。しかし、これ以上、グミ先輩の声を聞くのは耐えられなかった。

 暁美は、電話機を戻すのも億劫おっくうで、そのまま床に膝をつき、ベッドに体を投げ出した。

 家にはだれもいない。

 お父さんは県北のほうに単身赴任中で来週の末まで帰ってこない。お母さんは看護師の仕事で朝から出て行ってしまった。お姉ちゃんは東京に住んでいる。お父さんとお母さんの仕事の都合で一家での夏休みは先週のうちに取ってしまったから、いまは普通の一週間と変わりがない。

 日本全国がお盆休みだというのに。

 ――いまが休みでないのは漫研だけではなかったんだ。

 「どうして……」

 どうして、グミ先輩は行ってしまうのだろう?

 急がなくても、半年後には別れが来たはずなのに。そのときのために気もちをいまから準備しようと思っていたのに。

 ――と思ったのではなかった。

 どうして、グミ先輩は教えてくれなかったのだろう?

 もっと早く知っていれば、昨日の観測会で……。

 いや、昨日の観測会は、先輩とセリと三人だけで、去年と同じようにやりたかった。だから教えてくれなかった。だから夜が明けてから、と先輩は思った。

 でも、夜が明けてからは、そんな話をする気にはなれなかったのだと思う。

 夜が明けて、なんとか図の恒星の型の覚えかたをきいたり、徹夜の漫研を見送ったりしていたときに、そのかわりにグミ先輩が外国に行くって話をしていたかった?

 ――Oh! Be A Fine Girl……。

 小さくつぶやいてみる。

 ああ、すてきな女の子になって。

 そして?

 ――Kiss Me Right Now! Sweet!

 忘れているかと思ったら、思い出せた……。

 グミ先輩が外国に行く話より、あの話をしていたほうがやっぱりずっと楽しかった。ほとんどだれも起きていない朝の明るい街にはそのほうがふさわしかったと思う。

 では、どうして、セリは今日の帰り道で急にこのことを教えてくれたのだろう?

 教えてくれないほうがよかった?

 もっと早く教えてくれたほうがよかった?

 どちらでもない。

 あのときに教えてくれてよかった。

 そして、あのとき、ああいうふうに教えるというのは、セリが考え抜いて出した結論なのだろう。

 あの恒星の型の話をしていたときに、セリがこのことを知っていて、自分が知らなかったことを考えると、何だか割り切れない気もちはするけれど。

 でも、セリだってほんとうかどうか、確信は持っていなかったのだ。

 それより、どうして?

 そう。

 どうして、さっきの電話で、暁美はグミ先輩の声をこれ以上聞いていたくないと思ったのだろう?

 グミ先輩の声を聞ける機会はもうほとんどないのに。

 外国から国際電話をかけてまで暁美と話をしてくれるなんてことはまずないのに。

 そういえば、外国といってもどこなのか、きかなかった。

 もし、電話も通じないような外国だったら、どうなんだろう。

 ここまで考えて、やっと暁美の目には涙がにじんできた。

 流れはしなかった。

 帰ってきたらすぐに寝ようと整えておいたベッドのタオルケットでは、牧場の羊たちが青い空のひつじ雲を見上げている。

 その青い空がそっと滲んだ。

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