第3話 「ああ、すてきな女の子になって」
「わたしたち、地学、
何を言うかと思ったら、それか……。
できればグミ先輩に。
でも、いまので先輩に伝わるのだろうか?
縦軸と横軸がある図はいっぱいあるし、よくわからない図もいっぱいある。
これでは先輩もよくわからないんじゃないかと思ったら、グミ先輩は、コーヒーを一口飲んでから、おもむろに
「ヘルツシュプルング・ラッセル図、でしょ? ふつうHR図っていうよね」
と言った。
口もとにちょっと苦そうな笑みを浮かべ、目はセリから軽く逸らしている。
セリは一瞬で眠気も不機嫌も忘れてしまったみたいだ。
「そうそう、それ! それですよっ! それ、みんな答えられなかったんですよ、その図の名まえ! で、でも、それをわたしに当てて、わたしが言えないと、天文部のくせに、って言うんです。それで、そのなんとか図の」
せっかく教えてもらったのに、セリは覚えていない。
でも暁美だって覚えていない。
グミ先輩がちらっと暁美を見た。
暁美も覚えていないのを見抜かれたのかも知れない。セリは続ける。
「その、なんとかなんとか図の横軸に星の温度の型とかいうのがあるでしょ? A型とかB型とか。あれを九月の最初の実力テストで出すって。わたしは天文部だからかんぺきに覚えてないと許さないなんて。もう頭に来ますよ」
グミ先輩は、穏やかな笑みを浮かべて、そのセリの顔を見た。
「じゃ、セリは完璧に答えられる。だから安心ね。もちろん、暁美も」
後輩を暗示にかけて安心させようとしているのだろうか。
先輩は、暁美と、口を開いて何か言いたそうにしているセリとを見てから、言った。
「星の表面温度の、スペクトル型っていうんだけど、温度の高いほう、図の横軸の左側から、O、B、A、F、G、K、M、R、N、Sの順番」
「はいっ?」
セリが、目の前で魔法の呪文を唱えられたように、間の抜けた声を漏らす。
グミ先輩は笑った。
「温度の高いほうから、O、B、A、F、G、K、M、R、N、S」
セリは何か言おうとした。でもことばが出ない。
先輩は軽く笑い声を漏らした。
「覚えかたがあるの。それさえ覚えてしまえば、かんたんに思い出せる」
「はあ」
セリが、浮かしていた腰をパイプ椅子に下ろす。
「それって、覚えかたそのものがすごく難しかったりしません?」
「だいじょうぶよ、簡単な英語だから」
「英語っ?」
セリはさらにいやそうな顔をした。
グミ先輩は、微笑したまま、セリと、それから暁美とを見て、ゆっくり、一語一語、言った。
「Oh! Be A Fine Girl! Kiss Me Right Now! Sweet! その頭文字で、O、B、A、F、G、K、M、R、N、S」
日本語風の発音だったけれど、「Right」の「R」はちゃんと舌を巻いて言っているのがさすがだと思う。
それにしても。
そうすらすら言ってもらっても覚えられない。
セリも同じなのだろう。
「えっ? えっ、えっ? もういちどっ」
「Oh! Be A Fine Girl! ああ、すてきな女の子になって、ね」
「Oh! Be A Fine Girl!――ですね」
セリはメモを取ろうとした。でも、書くものが手もとにないのに気がついて、口で復唱する。
「オー、ビー、ア、ファイン、ガール! はい。で、つづきは……」
セリが促す。グミ先輩は、ゆっくりと、柔らかく、でもめりはりのある声でつづけた。
「Kiss Me Right Now! Sweet! いますぐキスして、スウィート!」
「オー、ビー、ア、ナイス、ガール」
セリは、カタカナ英語っぽい発音で繰り返している。
「あ、そこ、ナイス・ガールにすると間違うから。ファイン・ガールだから」
グミ先輩が注意して、うふん、と笑う。
「「ファイン」って、きめ細やかな、って意味もあるし、天気がいいっていう意味もあるし。決して派手じゃないけど、輝いて見えるようなお上品さ? そんな感じね」
おお、こまやかで、晴れやかで、輝いて見えるようにお上品な、すてきな女の子になりなさい……。
「あ、はい。オー、ビー、ア、ナイス、じゃなくて、ファイン、ガール。で、キス、ミー、えっと……いますぐキスして、だから、いますぐ……えっと、ナウ、すぐ、すぐ……」
「ライト・ナウ、ね」
「ああ、キス、ミー、ライト、ナウ! それで、スウィート! オー、ビー、ア、だから、O、で、B、A。で、ファイン・ガールだから、F、G、それで、K、M、R、N、で、Sと。よし覚えた! それにしても、強引な覚えかたですね」
せっかく覚えておいて、セリは贅沢な文句を言う。
「そう?」
グミ先輩はとぼけたように答えた。
「「水兵リーベ」とか、「貸そうか、ま、まああてにすな」とかよりずっと自然な覚えかただと思うけど」
「あ、ああ」
セリも反論はしない。かわりに、セリは急に顔を暁美に向けた。
「わたしは覚えたから、アケビ、あんたも言ってごらんなさい!」
暁美が何も言わなかったから、覚えていないと思ったのだろうか。
アケビというのは暁美のあだ名だ。グミ先輩は使わないけれど。
セリも、暁美と二人だけのとき以外はあまり使わないのだけど、いまはいいと思ったのだろう。
暁美は口に出して言ってみた。
「Oh! Be A Fine Girl! Kiss Me Right Now! Sweet! だから、その頭文字で、O、B、A、F、G……K、M、R、N……S、かな」
「うくっ!」
セリがテーブルの上に拳を作ってみせる。
「わたしがこんな苦労してるのに、なんで一発で覚えんのよ、あんたはっ!」
「いや、それは、グミ先輩とセリちゃんの言ってるの、ずっと聞いてたから」
「なんで聞いただけで覚えられるの、あんたはっ!」
「そんなこと言われても、困るよ」
暁美が言い返す。セリは不服そうだが何も言わなかった。
グミ先輩が言った。
「まあ、正確に言うとね、O型からM型までは表面温度の順、R型からS型までは構成元素の特徴だから、温度の順だけなら、Oh! Be A Fine Girl! Kiss Me!――までよね。教科書もそうなってるんじゃないかな? 温度だけで言うなら、Mのあとは、L型、T型の順だけど、M型より暗い星って、実際の観測ではまず出てこないから、ほんとはどっちでも問題ないんだけどね。もし、LとTだったら、そうね、Oh! Be A Fine Girl! Kiss Me Last Time――とでも覚えるのかな?」
「ラスト・タイム?」
こんどは暁美が復唱する。グミ先輩は、小さく、すばやく、二回、うなずいた。
朝の日はまだ当たっていないけれど、東の空からの光は明るく、それがグミ先輩の白い頬を白く明るく照らしている。
その感じに、暁美はふと何かを思い出しそうになる。
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