第69回 主菜
(――だ、誰かこっちへ来る? そ、そうだ、今のうちに逃げなきゃ……!)
「ぬうっ……!?」
前方に視線を移した杜崎教授の顔が歪む。藤賀が彼の手を噛み、そこから逃れたのだ。
「――はっ……」
彼女はしばらく走った時点で足を止めた。どこを見渡しても、その遠方には幾多ものゾンビや大きな蛆たちが這い回る姿があったからだ。
(ここから離れても、どこにも逃げ場がない。どうすればいいの……?)
近くのベッドの陰に隠れる藤賀。そこからそっと杜崎教授の様子を覗き込む。
「ひっ……」
すると彼は藤賀のほうをじっと見ていて、欠けた白い歯を覗かせていた。
(ここにいても、いずれあの人に食べられちゃうだろうし……前のほうから来る人に助けを求めるしか――って、あ、あの人は……)
一人の人物の姿が徐々に近付いてきたことで、藤賀はうずくまって頭を抱える。
(……ど、どうして? あ、頭が、凄く、いた……い……)
◆◆◆
「…………」
杜崎教授は、藤賀が隠れた後方と右腕の咬傷をしばらく見やったあと、前方に視線を戻した。こちらへ猛スピードで向かってくる人物が一体誰なのか、大方区別できるほどに迫ってきていたからだ。
(まあ、メインディッシュの前に小休止といったところか……)
首をコキコキと鳴らす杜崎教授。やがて、その人物の全貌が明らかとなる。
「――誰かと思えば、お前かぁ……」
七三分けの髪型をしたスーツの男は、ずっと宙に浮いた状態であった。
「おぉっ……これはこれは、かの有名な虐殺者の羽田氏ではないですか、お久しぶりですな」
杜崎教授が深々とお辞儀をしてみせると、羽田京志郎はいかにも小ばかにしたように鼻で笑った。
「杜崎、共食いの趣味は相変わらずなのかぁ? 私の周りには変な趣味を持つ輩が多い」
「ハハハッ。共食いとはとんでもない。神の生贄ですぞ」
「神の生贄ぇ? ただの犬の餌だろう」
「ハハッ……もし、あなたが羽田氏じゃなければ、今頃怒りのあまり生きたまま貪っている最中でしたよ。なるべく意識を保たせた上でね。それにしても、こんなところへ何用で?」
「私は入院していただけで、患者の一人として彷徨っているにすぎない。私の手術をしたいというのなら、構ってやってもいいぞぉ……?」
「いえいえ、いくら僕でも、あなた様に勝てるなどとは微塵も思っておりませんし、そんな暇はありませんのでね……」
「フンッ、私もお前みたいな犬の相手をしている暇などない――」
「――おーい、羽田ー!」
後ろから叫び声を上げつつ駆け寄ってくる少女。両膝に手を当て、その髪は地面に届きそうになっていた。
「おやおや、羽田氏のガールフレンドですかな……?」
「こいつは勝手に私のあとをついてきているだけだ」
「はぁ、はぁ……ちょっ、羽田、いきなり勝手に進んでおいて、そんな言い方はねえだろ……」
「「「「「杜崎教授ーっ!」」」」」
そこに、白衣を纏った集団がぞろぞろと走ってくる。いずれも疲れ切った様子で、顔面蒼白になっていた。
「……で、こいつらは、お前の非常食か?」
「いやいや、僕の部下たちですよ。こう見えても本業は教授なのでね」
「そういえばそうだったなぁ――」
「――おい、そこのやつ! 杜崎教授にタメ口とは、無礼だぞっ!」
白衣の集団の一人、原沢医師が前に出て眼鏡を曇らせながら抗議すると、羽田が指を鳴らしてみせた。
「お前、自分の手の平を見てみろぉ。左手のほうだぁ……」
「えっ……?」
原沢医師が骨だけになった左手を二度見したのち、失禁しつつ倒れる。
「いやぁ、お見事。これは、中々洒落たことをなさいますな」
「そいつはただのおまけだ。私の真の芸術品を見ていないのかぁ?」
「あ……」
杜崎教授が視線を移した先は、自身が引き連れている医師団の足元であり、見るも無惨な状態で横たわっている者がいた。
「……ひゅー、こひゅー……」
「「「「「ひ……ひぎいぃぃっ!」」」」」
杜崎教授を除く白衣の集団が一斉にその場から離れる。
「どうだ、杜崎ぃ。雑魚の活き造りという名の芸術作品だが、得意の共食いでもしたらどうなんだぁ?」
「ハハハッ……さすが死体クリエイターという異名も持つお方だ。なんとも味わい深いものを鑑賞させていただきました。しかし細かい注文をつけるなら、これは死体ではないのでは?」
「フンッ。死体じゃないと言い張るならお前たちが助けてみろ。さぁ、行くぞ、黒坂ぁ」
「あ、あ、あいあいっ、わかったよっ!」
青ざめつつも羽田の背中を追う黒坂。
「……ひゅー……ご、ごろじ、で……は、やぐ……」
「「「「「……」」」」」
人体を知り尽くした者の死を乞う声が、徐々に小さくなっていった。
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