第68回 代行者


「――う……?」


 ベッド上で目を覚ます短髪の少女、藤賀真優。おもむろに起き上がると、まもなくその眠そうな瞳が見開かれることになる。


(な、なんなの、ここ……!?)


 そこは小さな病室からは大きく様変わりしており、四方に先が見えないほどの異常なスペースがあり、数え切ることが一目で不可能だと断定できる量のベッドが整然と置かれていたのだ。


(……こ、怖いよぉ。誰かいないの……?)


 不安そうに歩き始める藤賀。それからほどなくして、彼女はを耳にすることになる。


 ……ヌチャ、クチャ……ガリッ……。


(な、何、この音……? すぐ近くからみたい。誰かいるの……?)


 藤賀は音がする方向へフラフラと歩き始めたが、僅かなときを刻んだのち、凍りつくかのように立ち止まることになった。


(……う、嘘、嘘ぉ……)


 彼女の大きな瞳に映し出されたのは、ベッドの下で人が人を食べている場面であった。


「…………」


 藤賀はゆっくりと後退りしたのち、一気に駆け出す。


(……お、お願い、来ないで……こっちに来ないでえぇ……!)


 彼女は祈りながら走るも、途中で左足がベッドの角に当たり、バランスを崩して倒れ込んだ。


(……は、早く、早くここから逃げなきゃ――)


「――大丈夫かい?」


 立ち上がったばかりの藤賀は信じられないといった表情で振り返ると、そこには口の周りを真っ赤に染めた白衣の男が立っていた。


「レディーに食事中のところを見られちゃったみたいだね……」


「……ひ、ひぃぃ……こ、来ないで、来ないでええぇ……」


「そんな風に怯えないでくれたまえ。僕にこれから食べられるにしても、痛みなど一瞬で終わるし、逃げるスピードを見た感じ君もスレイヤーだろう? 死ぬ覚悟くらいできていなければ、この仕事は務まらないのだよ」


「……い、嫌ぁ、嫌だよぉ……」


「そんなに嫌かい? でもね、人は誰しもいつかは死ぬ。ならば、その命を偉大なる神のために差し出したいとは思わないかね」


「……か、神様? に、人間じゃないっていうんですか、あなたは……?」


「ん? あぁ、そうさ。実際、絶対者って呼ばれているんだ。それに関するウィンドウも出ているだろう? ただ僕から逃げるだけじゃ、報酬は得られないみたいだけどね。そんなことも知らないスレイヤーってことは、相当な新入りだね?」


「…………」


「図星か。可哀想だがこれも教育の一環だから仕方ない。食べる前に自己紹介させてもらうよ。僕は杜崎一聖もりざきいっせいといって、この大学病院の教授であり、神の代行者でもあるんだ」


(……ダメ、この人、話がまるで通じそうにない……どうすれば……どうすればいいの……)


 肩を震わせる藤賀の脳裏に浮かぶのは、佐嶋康介という青年の顔であった。


(……なんでだろう。あの人のことを思い浮かべると、体が熱くなるし、勇気が出る……。そうだ、私は野球が好きなんだよね。誰かに助けを求めてる暇があったら、自分の力でなんとかしなきゃ……!)


 はっとした顔で駆け出す藤賀。そのスピードは、目の前にいた男――杜崎教授――を一瞬で置き去りにするほどのものであった。


「……逃さん……う、うぉぉっ……うおおおおおおぉぉっ!」


 雄叫びがした直後、振り返る藤賀の目睫にあったのは、遠く離れていたはずの男の白い歯であり、その細い腕はたくましい右腕によってがっしりと握られていた。


「い、嫌だぁぁっ! 嫌だよぉ……!」


「ククッ……生贄が駄々をこねるようでは話にならんな。家畜以下だと思え――」


「――チッ……!」


 舌打ちとともに藤賀の右の拳が絶対者の頬に埋め込まれた。


「ぶへえっ……?」


「……あ、あれ……」


 自分のしたことが信じられないといった様子で、藤賀が自身の手と男の欠けた歯を交互に見ながら後ずさりする。


「……ぺっ、ぺっ……ほう、歯を折られた、か。これは驚いた。まだこんな元気があったとは。これは以前食した猫料理のように、食材を生きたまま何度も叩いて柔らかくしてからでも遅くはないだろう……」


「……い、嫌、嫌……助けて、康介さん……」


「……康介、だと? まさか、あの佐嶋康介か。これはもっと驚いた。やつの知り合いだったとはな。それならば尚更躾を施さなくてはならん。死ぬまで時間がかかる上に激しい痛みも伴うが、仕方ないだろう。。ヘブル書の9章22節から引用したものだ。神に従わない者たちの愚かさは、その辺の虫けらにも劣るということを、身をもってわからせてやる……」


「……い、嫌あぁ……」


 鬼の形相を浮かべた男を前にして、藤賀がすっかり戦意を喪失した様子で尻餅をつく。


「さて、生体解剖ヴィヴィセクションといくかね――――ん……?」


 片方の眉をひそめて、いかにも気難しそうな顔で振り返る杜崎教授。少し経ったのち、の姿を目撃することになるのであった。

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