第44話 【8年7ヶ月後】夜間当直





「……葉竹さんって」

「え?」


仕事中、ふと降ってきた声に航太が顔を上げた。


「あ、いえ、なんでも」


どうやら航太のうなじに視線を落としていたらしい後輩は、慌てたように首を横に振る。

そして苦笑いを浮かべ「なんでもないです」とくり返し、そそくさとその場から立ち去ってしまった。


周囲から不思議そうな視線を向けられながら、航太はうつむき、ひそかにため息を吐いた。軽く掌で自分のうなじを擦る。後輩が言いたいことは、なんとなく分かっていた。


——葉竹さんって、婚約してるのに、つがってないんですか。


ときには陰で、ときには面と向かって幾度となく突きつけられるその言葉。そんな不躾な質問には、とうに慣れてしまった。

婚約者がいるのにつがっていないオメガなんて、そうそうお目にかかれないから、面白がられるのも当然だと言えた。


うちはうち。よそはよそ。


そう自分に言い聞かせ、後輩の無礼を忘れた。肩身の狭さはもう感じない。航太は社会で揉まれるうちに、良い意味で図太くなっていた。


聞き慣れたベルが鳴り時計を見れば、もう終業時間だった。さっさとパソコンの電源を落とし、航太はバッグを持つ。金曜の夜だからか、仲間たちも仕事を早めに切り上げているようだった。


身体を大事にして、仕事では無理をしないこと。

婚約者からしつこく叩き込まれた約束は身体に染みついている。


不意に、隣のデスクから視線が飛んできた。

遠慮のないその瞳は、いつも以上に揶揄いの色を含んでいた。航太はあえて笑みで応える。


「神田さん、お先です」

「随分とそわそわしてんなぁ、葉竹」

「おかげさまで」


しれっと返した航太に、神田は「お前、からかいがいなくなってきたなぁ」と笑う。

神田との付き合いも随分長くなった。良き相談相手となってくれる先輩社員と、気安い関係を続けられていることを、航太は嬉しく思っている。


「あの馬鹿みたいな彼氏によろしく」

「はい、よろしく言っときます」

「馬鹿みたい、は否定しないんだ?」

「『みたい』じゃなくて馬鹿そのものなので」


けらけらと笑う神田に頭を軽く下げて、航太は事務室を出た。階段を降り外へ出ると、空はまだ明るかった。人波はいつもより早く流れて見える。


ポケットに入れていたスマホが鳴り、航太はすかさず画面を確認した。「こちらは終わりましたぞ(^^)v」という気の抜けたメッセージと、「予定通り、いつもの居酒屋で」という別の素っ気ないメッセージ。その両方に頬を緩め、航太は足を進めた。


今日の航太には、約束があった。






◆◆◆






「ていうかさ、健気に支え続けた俺が一番すげぇよな」

「風間、またその話?」

「僕はすごいと思います!」

「……健気ではなくね?」

「なんだコラ工藤、文句あんのか」

「えぇ……」


なんでいつも俺だけ、と細い声で呟く工藤を笑いながら、航太はいつもの三人とグラスを合わせた。四人がこうして顔を合わせるのは、実に一年ぶりだった。


無事に研修を終えた宰と工藤は、今は東京で勤務医をしている。そして、あれほど酒が好きだった風間は、今はウーロン茶を手にしていた。


一昨年、子どもを産んだのをきっかけに、風間は酒をきっぱりとやめた。もう飲まねえ、と宣言した風間に、宰が「ついに更生するんだね、風間くん!」と返したときは現場が荒れて大変だった。もちろん宰に悪気はこれっぽっちもなかったが。


風間によく似たかわいらしい子どもは、今日は(旧姓)吉川さんが面倒を見ているという。そう、今や売れっ子少女漫画家になった吉川さんが。


宰が精魂込めて送り続けたファンレターが功を奏したのかどうかは分からないが、吉川さんの漫画は謎のヒットを見せ、いまやアニメ化されるまでになった。


風間は誇らしげに鼻を膨らませていた。


「メディアミックスだよ、メディアミックス」

「……メディアミックスって言いたいだけじゃん」

「うるせぇな。こんなときくらい言わせろよ。人生で何回メディアをミックスできると思ってんだ」

「吉川先生の作品は素晴らしいからね!」

「お前は本当好きだな」


宰の隣で、工藤が呆れたようにジョッキをあおる。そして彼が照れながら「そういえば俺にも彼女が……」と切り出したところで、風間が「そういえば航太」と話しかけてきた。無視された工藤は悲しげに顔を伏せ、風間はきらきらといたずらっぽく瞳を輝かせる。


「顔合わせ、どうだった?」

「……ああ、うん、まあ」

「ふふ、滞りなく終わりました」

「狩野田には聞いてねぇんだよ」


顔合わせ。

その単語を思い出しただけで、航太の気持ちは一気に沈んだ。三ヶ月前に行われたそのイベントは、航太の人生のなかで最も辛いものとなった。


風間にその先を促され、航太は渋々話し出す。


「……おれの父さんと、宰の家族が、その、共通の趣味があって……」

「よかったじゃん。なに、共通の趣味って」

「……それは、その」

「ふふ、『先生は運命なのにズルいッ!』という往年の名作があってね……。両家ともにたしなむものだから、随分盛り上がったよ」

「は?」


航太は顔を覆った。思い出したくない記憶がひらかれていく。

両家顔合わせの場には、互いの両親、そして宰の姉と、航太の兄が並んだ。

確かに、航太の父と宰の母姉は大いに盛り上がっていた。我の強いアルファたちは共鳴し、まさかの化学反応を起こしたのである。


調子に乗った航太の父明彦が、相良先生の物真似をし始めたとき、航太は首を括ろうとさえ思った。途中からは宰も交えて「私が思う『先ズル』最高のフレーズ」を語り合うコーナーになり、航太は黙々と箸を進めることだけに専念した。


そして最終的に、顔合わせ会場では「リズムに乗せて、航ちゃんの良いところを一個ずつ挙げていく」というゲームが執り行われた。

これには航太の兄、陽介も参加した。


長々と続くリズミカルな空気のなか、航太はこの場で舌を噛み切ろうと覚悟した。しかし唯一常識的な母にやんわりと宥められ、航太は現世に留まることにしたのである。


——あなたはね、母さんの子だから。根本的に趣味が悪いのよ。


明彦というアルファを伴侶に選んだ、母の言葉は重かった。


つらかった。本当に。

航太は奥歯をきつく噛み締める。


工藤が怪訝そうな顔で尋ねる。


「は? なに、狩野田。『先生は』? え?」

「通称『先ズル』だ」

「……余計わかんねぇよ」

「未履修なのか、工藤。今度貸してやろう」

「絶対いらね」

「ふふ、君は相変わらず情緒のない男だ……」


新米医師ふたりを一瞥したあと、風間はなおもその先を知りたがる。


「それで?そのあとは?」

「うん、まあ披露宴は改めて、無しの方向でって話をして……」

「派手にやったら面白かったのに」

「派手になりそうだったから断固拒否したんじゃん」


狩野田家での強烈な洗礼を受けて以降、航太は粘り強く「披露宴はいやだ」と主張してきた。

披露宴という存在自体を否定するわけではない。

しかし航太は目立つのが得意ではなかったし、さらにそこに狩野田家が絡むことで、目も当てられない惨劇になると確信していた。


余興を狩野田家全員でやるという計画——しかも大掛かりなイリュージョンマジックをやるつもりだと聞いたときには、航太は卒倒しそうになった。彼らはその技を磨くため、エンターテイメントの本場ラスベガスへ研修を受ける予定まで立てていた。

なぜ。どうして。

航太の問いには誰も答えてくれなかった。


アクセルしか踏めない一家を止めるため、航太は苦肉の策に出た。宰を説得の道具に使ったのである。


「僕がいらないと言ったら、皆納得してくれてね」

「へぇ、狩野田はやりたがると思ってたけど」


工藤が意外そうな声を上げる。

本当のところを言えば、宰は披露宴をやりたがっていた。アルジャンテに空き缶をくくり付けてどうのこうのと語る婚約者に対して、航太は腹を決めた。正攻法では通じない。

だから航太は、ひとつの提案をした。


——披露宴をやめてくれるなら、週一で「つっくん」と呼んでやってもいい。


宰は嬉々としてこれに応じ、実家の両親たちを説得した。狩野田家の面子はしばらくぶうぶう言っていたが、息子の強い意志は折れなかった。彼らの息子は、「つっくん」呼びに固執していたためである。妥協案として、近親者だけの結婚式はすることになったが。


宰は工藤にふっと微笑み、軽やかに口を動かす。


「まあ、僕はトングでケーキを分けるという演出も、なかなかオツだと思ったんだけどね」

「だからそういうのが無理なんだって……」

「うっわ、トング……っ、なつかし、航太のトング……っ、ぶっ、くっ、腹いてえ」

「航ちゃんのトングって何?」

「いいよ、知らなくていいこともあるから……」


余計なことを言うな、と宰を小突くと、嬉しそうに笑われた。そんなふたりを、風間と工藤が生あたたかい目で見つめる。航太はそれに気付き、ぶっきらぼうに尋ねた。


「……なに?」

「よくこんな長くもったな、と思ってさぁ」

「なんだかんだで仲良いよな、お前ら」

「…………」

「ふふふ、僕と航ちゃんは、運命のつがいなので……」


「うっざ」と笑う風間が、隣に座る工藤の肩を叩く。とばっちりを受けた工藤は悲鳴をあげていた。


航太は居た堪れない気持ちになりながら、ジョッキに口をつけた。風間がにやにやと笑いながら、航太の顔を覗き込む。


「あんまり飲みすぎんなよ。明日、朝早いんだろ?」

「航ちゃん! 僕が起こすから心配しないで!」

「いや、自分で起きれるから……」

「まあでも、今日は早めに終了だな」


三人とも、久々の再会に浮かれているように見えた。横目で見れば、宰が楽しそうに顔をゆるめている。


こんなに長くもつなんて。


一番そう思ってるのは航太だった。八年前は、こんな日が来るとは思わなかった。あのころの自分に今の状況を見せたら、一体どんな顔をするのだろう。


三人の空気につられて、航太は諦めたように顔をほころばせたのだった。






◆◆◆







早めに終了した飲み会の帰り、宰と航太は並んで歩いていた。彼らには、もうひとつ予定があった。


「宰、持ってきた?」

「もちろん!」

「ありがと」


目的地に着いたところで、宰は手に持っていたバッグからいそいそと一通の書類を取り出す。それを受け取って広げながら、航太は呟いた。


「何回見ても、どっか間違えてそうで怖い」

「大丈夫だよ!」


そしてふたりが向かったのは、役所の受付窓口だった。夜間当直に入った館内は薄暗い。当直室と書かれた小部屋でテレビを見ていた中年の事務員が、厚い眼鏡越しにふたりに気付き、顔を上げた。


「あの、すみません」

「届出ですか?」

「はい!」

「……これ、お願いします」


おずおずと航太が用紙を手渡せば、事務員の男性はそれを一瞥し、「たしかにお預かりしました」と軽く会釈した。あっさりとした言葉に、航太が目を瞬かせると、男性は訥々と続ける。


「訂正とかね、あったらあとで連絡行きますんで。今は当直中なので」

「あ、そうなんですね」

「そうなんです。ね、それじゃ、今の時間で受理になりますんで。おめでとうございます」

「ありがとうございます!」

「……ありがとうございます」


宰と航太は、それぞれ頭を下げた。

たかが、届出一枚。

されど、届出一枚。

役所を後にして、航太は不思議な感覚を味わっていた。そして宰に誘われるがまま、手を繋ぐ。


「……なんか三文字の名字って、慣れるまでバランス難しそう」

「ポイントは野を少し小さめに書くことなんだ」

「練習しないと」

「ふふ、僕がレクチャーをしてあげよう」

「ええ……いいよ、別にいらない」

「まあまあ遠慮しないで!」


六月の湿り気を帯びた夜を、宰と航太は並んで歩く。

それぞれの左手には、銀色の指輪。


航太は真っ直ぐ前を見つめたまま、隣を歩く男の名前を呼んだ。


「宰」

「ん?」


そして指を絡めて、強く握った。


「……あの日、会いにきてくれてありがとう」


明日、ふたりは結婚式を挙げる。




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