第43話 【6年2ヶ月後】カルテット






葉竹航太は緊張していた。



この日のために卸したシャツに、年末に背伸びをして購入したヘリンボーンのジャケットを合わせ、朝からそわそわと落ち着きがなかった。


黒地の無難なロングコートを羽織ったあと、何度も鏡を覗き込んでは、ワックスで流した前髪が、見る人に妙な印象を与えないか確認する。無駄だとは分かりつつも、航太は背後でにこにこと笑顔を浮かべる恋人にも聞いてみた。


「変じゃない?」

「とても可愛いです!」

「そうじゃなくてさ、一般的な感想が欲しいんだけど」

「一般的に見て銀河一可愛い!」

「もういいや」

「えっ!」


正月休みを利用して、今日、宰と航太は静岡へ——狩野田家へ、婚約の報告に行くのだ。





◆◆◆





狩野田家の家族については、航太も宰からかねがね聞かされていた。両親、姉が皆アルファであり、それぞれが社会的に高いとされる地位に就いていること。宰と航太の関係を、交際段階から祝福してくれていること。


そうは言っても、航太のなかには不安があった。優秀な、アルファだけの家族。本当にそのなかに加わってもいいのか、という戸惑いが航太にはあった。


東京で買った手土産を持ち、航太は宰の実家へと向かっていた。


お互いの左手の薬指には、銀色の指輪が輝いている。宰から指輪をもらった一ヶ月後、航太は宣言通りにそれを着けてもらった。

なぜか「誓います……ッ!」と感極まる宰を笑い、同じように宰の分の指輪も嵌めてやった。さすがに職場で着けるのは自重しているが、ふたりで過ごすときは指輪をするのが、今では暗黙の了解となっている。


まだ新しい指輪に目をやりながら、航太は続ける。


「……本当にいいのかな」

「なにが?」

「おれ、オメガだから。宰の家族が気にしないかなって」

「ノンノンノン! 心配いらないよ航ちゃん!」


溌剌と言い切ると、宰は航太の両手を取った。不安げに曇った恋人の顔を覗き込み、彼は諭すように言う。


「みんな航ちゃんに会えるのを楽しみしてるんだ。そろそろ写真やグッズだけだと物足りないって」

「……グッズ?」

「あっ、なんでもない」

「え、ちょっと待って。なに? グッズって」

「うーん、故郷の風はおいしいな!」


航太の追及を華麗にかわすと、宰は「I'm home!」と叫んで駆け出した。そして途中で立ち止まり「ふふ、航ちゃんを置いていくところだった……」とわざとらしく微笑みながら戻ってくる。

どう見ても不審だった。


「さあ、みんなが待ってるぞ!」

「…………」


航太は嫌な予感を覚えていた。そしてこれまでの経験で、その予感は往々にして当たるということも知っていた。










結果として、航太の予感は正しかった。


「ようこそ! 航ちゃん!」

「待ってたわよ、航ちゃん。さ、上がって上がって!」

「やだ、本物は写真以上じゃないの……!」


高い生垣に囲まれた欧風建築の家の敷地へ入った途端、航太は熱烈な歓迎を受けた。

宰によく似た父と、強烈に華やかな顔立ちの母と姉。一見して「あっ、宰と同じ血が流れてるな」と分かるレベルで、玄関前に横並びで立つ三人は宰と同様の雰囲気を纏っていた。初対面だというのに突然「航ちゃん」呼びをされ、ますます航太は不安に駆られる。

しかしそれはそれとして、筋は通さなければならないと、航太は頭を下げた。


「初めまして、葉竹航太と申します」


三人はその様子に口をつぐんだが、次の瞬間、我先にと航太に駆け寄りしゃべり出した。


「知ってるよ航ちゃん!」

「まあっ! 礼儀正しいこと!」

「航ちゃん、私は領子。領子お姉ちゃんと呼んでくれていいのよ」

「……あ、えっと……」


アルファたちの圧に押されていると、「やれやれ」と首を振りながらその間に割って入った。


「お三方、興奮しすぎですよ」

「あら、宰。随分偉くなったわね」

「ふふ、そんなことはありません……」


「ただ」と言葉を続けて、宰は微笑む。


「愛する人を得て、強くなっただけです……」

「ふん、少し見ない間に立派になったな」

「母さんは誇らしいわ」

「私もよ」

「…………」


狩野田家四人の会話を聞きながら、航太は少しずつ置かれた状況を飲み込み始めていた。

大変なところへ来てしまった。

彼は震える心でそう思った。

狩野田家の面々とのファーストミーティングからわずか一分ほどで、航太は宰のルーツを見せつけられてしまったのだ。


——宰が、四人いる。


それは恐ろしい事態だった。

航太は間違いなく宰を好いている。しかし出会って六年経った今でも、気持ちが冷めるような言動にほとほと手を焼いていた。今では慣れと情で、航太はなんとか宰単体であれば対応できる。


ただ、それが四人となると話は別だ。

婚約の挨拶をそこそこにして帰りたい、と航太はひっそり後ずさったが、四人に「さあさあ中へ」と促され、未踏の魔窟へと立ち入ってしまった。玄関で靴を脱ごうとした彼は、そこで恐ろしいものを目にした。


「ひっ……!」


航太原寸大の胸像である。


これはかつて宰が塑造し、航太の摘発を恐れ秘密裏に実家へ送ったものだった。胸像には幾重にもフラワーレイがかけられ、見るからにご機嫌な様相をなしている。震える航太の傍らで、宰の母が誇らしげに胸を張った。


「これね、宰が作ったのよ。よくできてるわよねぇ」

「えっ、つくっ……?」

「ふふ、ごめんね航ちゃん。びっくりした?」

「え、え、なんで? なんで作ったの?」

「でも本当、そっくりだな。すごいぞ宰!」

「恐縮です!」

「ねぇ宰、なんで? いつ?」

「でも本物の方がずっと可愛いわね!」

「それはそうさ!」


四人が一斉にどっと笑い出し、航太は泣き出しそうになっていた。

誰も疑問に答えてくれない。

逃げ出したい気持ちを打ち明けられぬまま、リビングへと通される。


そしてそこにも、絶望は潜んでいた。


「…………」


航太はまばたきすら忘れ、「それ」を見つめた。いや、実際には目を開いたまま、数秒間気を失っていた。


壁には、「祝!婚約」「T♡K」という極太文字が踊る、極彩色の布が貼られていた。一歩遅れて来た宰が、感心したように声を弾ませる。


「すごい! 大漁旗だね!」


航太は信じられない気持ちでそれを聞いた。

この場に、漁師は誰一人としていないはずだった。


「大漁……旗……?」

「そうよ。私がデザインしたの」

「さすがだ、姉さん! ありがとう!」

「どういたしまして。縁起物にはあやかりたいものね」

「ちなみにカラーリングは母さんが決めましたっ」

「ふふ、君は本当にセンスが抜群だ」

「いやね、あなた。皆の前で恥ずかしいわ」

「えっ、え、なんで? なんで大漁旗? なんで? どういうこと?」


狼狽する航太に謎の微笑みを投げかけたあと、四人は和気藹々と談笑を始めた。領子が手にしているスマホに、自分の顔写真付きのストラップが付いているように見えた気がしたが、航太はあえて記憶から抹消することにした。 


これ以上立て続けに刺激を浴びるわけにはいかない。


彼は自分の心を守ることに必死だった。そのままの流れで、航太は一同とともにテーブルに着くよう促された。


彼は幼いころから個性の強いアルファに囲まれて生きてきたが、ここまで混乱の渦に叩き落とされたのは初めてだった。物言えぬまま航太が固まっていると、目の前に紅茶がなみなみと注がれたカップとクッキーが並べられる。


航太はやっとの思いでカップに口をつけた。

その温かさにほっと息をついたのも束の間、宰の父が穏やかな視線を向けてくる。よく似た面差しに、宰も歳を取ったらこうなるのか、とぼんやりと考えていると、思いもよらぬ問いを投げつけられた。


「航ちゃん。それで披露宴の希望は何かあるかな?」

「……ひろうえん?」

「ふふ、父さん。気が早いですね」

「何を言ってるんだ。遅いくらいだぞ!」


「はっはっは」と快活な笑い声がリビングに響き渡る。婚約の挨拶どころか、その先の話をされた航太は呆気に取られていた。彼の知らないところで、さまざまなことが決められようとしている。


領子がエナメルで飾られた指を顎に当て、真剣な声で提案した。


「入場はアルジャンテに二人乗りで来たらいいんじゃないかしら」

「絶対いやです」

「ふふ、姉さん。二人乗りはコンプライアンス的にNGですよ」

「いやだわ、宰。あなた随分堅いのね」

「しかしアルジャンテは親族席に座ってもらうんだろう?」

「何を言ってるんですか?」

「母さん、白いタイを用意しておくわね」


航太のか細い抵抗は、アルファたちの張った声にことごとくかき消されていった。

このままでは大変なことになる。

本能的に危険を感じた航太は、気力を振り絞り「あの!」と真っ直ぐに挙手をした。

四人が驚いたように注目するなか、彼は必死に言い募る。


「あの、おれは、披露宴をやることは考えてなくて……」

「……披露宴を」

「やらない……?」

「はい。あの……というか今日は、ご挨拶に伺っただけで……」


航太の言葉に、一同はしん、と静まり返った。怖いくらいに整った顔が四つ、航太を見つめている。航太は気まずさに息を飲んだ。


——どうしよう、気分を害してしまっただろうか。しかし披露宴はいやだ。


航太がなおも言葉を続けようとしたそのとき、突然宰の父が高らかに笑い始めた。


「なるほど、これが宰が言ってた航ちゃんジョークか!」

「おもしろいわね、百点満点よ」

「え、いや、ジョークとかではなくて……」

「さあ、航ちゃん、おかわりはいかが?」

「僕が淹れるよ!」

「あの、え、えっ……」


四人は楽しそうに笑い合う。

その場で笑っていないのは航太だけだった。

救いを求めて宰を見ると、「ナイスジョークだ航ちゃん……」と囁かれて終わった。航太は無表情のまま、その顔に指輪を投げつけてやりたいと思った。


疎外感と絶望感に苛まれながら、航太はひたすら時間が経つのを待った。四人は時折航太に質問を投げかけるが、その回答を待たずして勝手に盛り上がってしまう。


すべてを肯定する家族。

それが、宰を形成した。


婚約者のバックボーンを目の当たりにし、航太はこれまでの宰の奇行を納得し始めていた。この家庭で育ったら、こうなる。航太の胸には虚無だけがあった。


四人の話がひと段落し、そろそろ帰れるかもしれないと航太が顔を上げたときだった。宰の母が突然立ち上がり、皆に向かって破滅的な発議をした。


「そろそろ、ジェンガをしましょうか」

「ジェ……?」

「いいわね、賛成よ」

「やはり新年家族が集まったらジェンガだな」

「ふふ、航ちゃんとは初めてのジェンガだね……」


ジェンガ? なぜ?

このタイミングでなぜテーブルゲームを?


航太が驚愕のあまり口を開いている間に、長方体のバランスゲームは卓上に設置された。

そして、戦いは始まってしまった。


「おっ、航ちゃん! こっちのブロックなんていいんじゃないか!?」

「父さん。航ちゃんに任せてあげてよ」

「あらっ! でもこっちのブロックも良いんじゃない?」

「ははは、僕はこの上の方にあるやつがおすすめだな!」

「…………」


航太はわずかに残った精神力を行使して、狩野田家の四人組カルテットに付き合った。

もはや涙すら出なかった。航太がブロックをひとつ抜くたび、彼らは手を叩いて喜び、その慎重さを褒め称える。


最終的に宰がタワーを倒したところで、航太はやっと安堵の息を吐くことができた。

これでやっと終わる。航太はそう思った。しかし彼の心の安らぎは、一瞬にして打ち砕かれた。


「さっ! 次は何をやろうかな?」

「ふふ、ここは人生ゲームじゃないかな!」

「母さんは久しぶりにモノポリーがいいわね」

「私はウノをやりたいわ」

「…………」


ご機嫌な家族を目の前に、航太は自分の心がゆるやかに死んでいくのを感じていた。










航太が解放されたのは、傾いた陽が帰路を照らす時間になってからだった。


ひたすらゲームを強要され、持ち切れないほどの静岡名物を渡された。帰り際には「せーのっ、また来てね!」の三重奏も聞かされた。航太の表情筋は、もはや作り笑いを成すことすらやめていた。


家庭環境の違い。

そんな言葉が彼の脳裏をよぎる。


一方の宰は、家族に航太を紹介できた喜びで、軽やかに足を進めていた。両手には航太から引き取った、大量の静岡土産が提げられている。


その後ろをとぼとぼ歩いていた航太は、夕陽のなか立ち止まり、ウキウキ気分の婚約者の名前を呼んだ。


「……宰」

「はい航ちゃん!」


振り返った宰の肌は、つやつやと輝いて見えた。航太はそれを一瞥したあと、薬指に嵌る指輪に視線を落とす。


これをもらったときは、勝手に顔がにやけるほど嬉しかった。

今だって嬉しい。

嬉しい、けれど。


航太はうつむき、ぼそりと呟く。


「おれ、結婚考え直そうかな……」

「エッッッッッ!?!?」

「なんか、自信なくなってきた……」


狩野田家の衝撃を一身に受けた航太は、早めのマリッジブルーに冒されていた。そしてそのブルーは、極めて暗い色調のディープブルーであった。

一日にして、彼の心は粉々に打ち砕かれてしまったのである。


「えっ、な、なんで!? なんで航ちゃん!?」

「本当ごめん……。でも、ちょっと考えたい……」

「ど、どうしたの!? おなか空いた!?」

「今は静かなところに行きたい……」

「航ちゃん……っ!」



その後、航太が気持ちを整理し、再び結婚を覚悟するまで、約半年の時間を要したのだった。



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