第42話 【5年4ヶ月後】argenté





それから宰と航太は、努めてふたりで過ごす時間を作るようになった。


宰は持ち前の能力の高さと集中力で研修に取り組み、仕事を終えるとすぐさま戦友アルジャンテに飛び乗ってアパートへ帰った。

一方の航太も、宰への当てつけのように残業をするのをやめた。無理をして、いたずらに発情期ヒートを起こしたら誰も幸せにならないと、身に染みて分かったからだ。肩の力が抜けた航太の様子に、神田は悪戯っぽく「俺、良いことしただろ?」と笑っていた。その笑みの奥にひそむ複雑な想いに、航太は静かに頭を下げ、感謝した。


ふたりは、何でもない時間を過ごした。


新たに覚えた「ちょっとだけ」を何度かくり返し、落ち着いて眠れないと分かりながらも、ひとつのベッドで寄り添って寝た。正しく言えば、身体を隣に横たえただけで、添い寝をした夜は毎回ろくに眠れなかった。朝になり、お互い眼の下に隈を作った恋人を見て、笑い合うのにも慣れていった。


時間が経つのは早かった。

クリスマスと正月を過ぎたあとは、瞬く間に時が流れ、宰と航太は交際二周年を迎えた。


昨年のリベンジと言わんばかりに、ふたりは高級焼肉店へと乗り込み、値段を見ずに注文をした。彼らは思う存分腹を膨らませ、会計の段になって並んで青ざめた。ふたりの財布は一夜にして空になった。やっぱり無茶は良くないという教訓を胸に、帰りはいつも通り、手を繋いで帰った。


そして、宰が大阪へ発つ日がやってきた。






◆◆◆






新大阪行きの新幹線のアナウンスが響くホームで、宰は声を張って航太に語りかけていた。航太はあからさまに迷惑そうに顔をしかめる。


「航ちゃん。早寝早起きとバランスの良い食事と、適度な運動。これだからね!」

「分かったって。何回言うの、それ」

「あとあれ! ベジタブルファースト! 野菜から食べることで、血糖値の上昇をゆるやかに……」

「それももういいよ……」


会社で不慮の発情期ヒートを起こしてからというもの、宰は航太にこれまで以上に過保護になった。しつこくかまってくる様子が父と重なって、航太はひっそりとうなだれる。


宰の荷物は、昨日のうちに大阪へ送っていた。隅々まで部屋を掃除して、退去の立ち会いも済ませてある。


今回ばかりは、アルジャンテは宅配で送った。五年間宰に酷使され続けた戦友ともは、だいぶ劣化が進み、自転車業者からは「これ以上無茶な乗り方をしたら走ってる途中にバラバラになる」とドクターストップをかけられている。


しかし宰は、大阪でアルジャンテを復活させるべく、改造を行うつもりらしい。時折ママチャリと一対一で対話をする恋人に、航太は薄ら寒いものを感じていたが、もはや突っ込む気力はない。宰と付き合っていく以上、ある程度の諦めは必要だった。


最後の夕飯はふたりで食べた。

外はもう暗く、ホームは人が絶えず行き交う。


「工藤くんにもよろしくね」

「もちろん。また東京にも連れてくるよ。ふふ、あいつは暇人だからな……」

「…………」


宰は今晩は、ひと足先に大阪へ向かった工藤の部屋に一泊するという。先月、げっそりとした工藤から「俺、いつまでこいつの面倒見なきゃだめなの?」と苦情を言われたことを思い出し、航太は顔を伏せて密かに笑った。


出発のアナウンスが流れる。

宰は、次の新幹線で行ってしまう。


そわそわと航太が視線を泳がせていると、宰はボストンバッグを地面に置き、何のためらいもなく抱きしめてきた。普段なら人目を気にして突っぱねるところだが、航太はあえてその腕の温かさに甘んじた。

今日くらいは。 

そんな思いが胸にあった。


「…………」

「航ちゃん、がんばろうね」

「うん」

「すぐに会いに来るから」

「……うん」


やわらかな声と甘い匂いに、航太の声は少しだけ震えた。身体を離して、ふたりは見つめ合う。

別れるわけではない。でも、離れることになる。宰は晴れやかな、それでいて寂しげな瞳をしていた。


「……遅れるから」

「うん、それじゃ!」


発車を告げるメロディに促され、宰は再びバッグを手にすると、新幹線に乗った。そして席には向かわず、デッキに立ったまま航太を見つめる。


「航ちゃん」


宰は航太を呼ぶと、したり顔で口を緩ませながら、右手を胸元まで掲げた。そして、親指と人差し指の指先を交差してみせる。

それは指ハートであった。

航太はめまいを感じ、反射的に一歩後ろに下がる。


「きっつ……」

「え?なに?」

「いや、なんでも……」


本音を言えば笑えないくらい引いていたが、航太は大人の対応をした。なにせ宰の旅立ちの日なのだ。できるだけ快く送り出したかった。


「じゃあ、また」

「うん、あっ! 航ちゃん! あと『首』がつくところは冷やしたらだめだからね!手首と足首と」

「だから分かったって……」


下がってください、とのアナウンスが流れ、ドアが閉まる。ドア越しでも、宰は終始指ハートを保ちドヤ顔をしていた。とどめにバチン! と音がしそうなほどのウインクをされて、航太はひきつった笑みを浮かべた。

何なの、こいつ。

航太が改めてそう思っているうちに、新幹線は走り出す。


指ハートを決めた満足げなスーパーアルファの顔は、そのまま西へと流れて行った。


航太は新幹線の最後尾が遥か遠くに見えなくなるまで、そこに立っていた。







◆◆◆






ふたりで歩いて行った道を、航太はひとり俯きながら帰る。


あっけなかった。

考えていた以上に、あっけない別離だった。


宰のことだから、発車直前に突然新幹線を降りてくるとか、逆に航太を引っ張り込むとか、そういう派手なことをやらかすかもしれないと思っていたのに。


「……いや、期待してたわけじゃないけど」


言い訳するように、航太は口のなかで呟いた。いつもなら、この道では右手を繋ぐ。そんなことばかり思い出した。でも右側に立つ男はもういない。


アパートに帰ると、当然ながら宰が住んでいた部屋には明かりがなかった。郵便受けにはテープで封がされている。駐輪場でいつも輝いていた自転車アルジャンテも、もちろんいない。


当たり前だ。引っ越したんだから。

航太は自分に言い聞かせた。


カンカンと耳障りな音を立てて、階段を上る。もう何年も住んだ部屋に身体を滑り込ませ、電気をつけた。何も変わっていないはずなのに、何もかも変わって見える。


昨日、宰は航太の部屋に泊まった。

最後だから、朝までつまらないことをぐだぐだ話そうと思っていたのに、ふたりでベッドに入ったら寝てしまった。添い寝だったのに、初めて眠った。宰も同じだったようで、朝起きたときは変な顔をしていた。


ソファの上には、ビニール袋で密閉された宰のパーカーが置いてある。密閉しなくていいと抗議したのに、「匂いの保ちが違う」と不気味なことを言われ、勝手に梱包された。ついでに宰は「ユニフォーム交換みたいなものだから! 記念だから!」と訳の分からない理由をまくしたて、航太が着ていたスウェットを持っていった。何に使うのかはあえて聞かなかった。恋人同士でも、知らない方が幸せなことはある。


「…………」


航太はそのパーカーを両腕に抱えた。カサカサとビニールが鳴り、そのシュールさに笑ってしまう。見慣れた服を見たら、途端に気持ちが萎れてしまった。この二年間は、あまりにも騒々しかったから。


静かすぎる部屋で、航太はパーカーを抱えたままじっとしていた。馬鹿でうるさい恋人がいなくなったことが、無性に寂しかった。


あと三年。

二年しか一緒にいられなかったのに、あと三年は、待たなければいけない。部屋のそこかしこに、宰の気配がある。


航太の心がじわじわと沈みかけた、そのときだった。


「……?」


ポケットに入れていたスマホが鳴った。

取り出すと、「宰」の文字。

まだ新幹線に乗っているはずなのに。


不思議に思いながら、航太はスマホを耳に当てる。電話越しに、新幹線の走る音が聞こえた。おそらく、宰はデッキから掛けてきている。


「宰? どうしたの?」

『もしもし。ごめん、航ちゃん」

「なにが?」

『航ちゃんの部屋に、忘れ物しちゃって』

「え」


忘れ物。あれだけ気をつけろと言ったのに。しかし部屋のなかに視線を滑らせても、宰の物は見当たらない。


「何忘れたの? どこ?」

『平たいお皿が入ってるとこに』

「えぇ……」


そんなところに、何を忘れるというのか。

航太は呆れながらも台所へ向かう。


『ごめんね』

「いいけど、何を……」


忘れたの、と続けようと平皿の入った引き出しを引いた瞬間、航太は手を止めた。


ぱちくりとまばたきをして、見慣れぬ「忘れ物」に目を奪われる。昨日見たときはなかったものだ。だとしたら。


『航ちゃん』

「…………」


宰の声は、緊張しているように聞こえた。

航太は黙り込んだまま、宰の「忘れ物」に手を伸ばす。


ネイビーの四角い小箱。手に取ると、掌に収まるくらいの大きさだった。中を見なくても、それが何かは分かった。


——まじか、こいつ。


航太は呆気に取られていた。

ロマンチックな感じで、ちゃんとやる。

以前夜景を見ながら、そう宣言されたことを思い出す。


開けてみて、と耳元で囁かれ、航太は小箱の蓋を開けた。


「…………」


そこには、シンプルなシルバーの指輪が、蛍光灯の光を浴びて、きらきらと輝いていた。航太が絶句しているうちに、宰は弾んだ声で言った。


『……アルジャンテの色を、イメージしてみたんだ……』

「…………」


なぜ、そこをフューチャーするんだ。


航太は呆れながらも、スマホを耳と肩で挟み、おずおずとケースから指輪を取り出した。ころん、と掌に乗せてみると、思っていたよりもそれは重かった。


『婚約指輪、兼、結婚指輪ということで』

「……びっくりした」

『ふふ、サプライズ成功……』

「…………」


電話越しでも、航太は宰がどんな顔をしているのか分かった。絶対にこちらの腹が立つような笑みを浮かべている。

目の前にいたら小突いているところだ。でも、その小突きたい相手は、遠くにいる。


真摯な声が、航太の鼓膜を打った。


『航ちゃん。あと三年、待たせるけど』

「…………」

『結婚しよう』


宰の声は真剣だった。おそらく、宰としては練りに練ったであろう、ベタで、馬鹿らしくて、宰らしいサプライズ。


「分かった」


航太は頭で考える前に、そう答えていた。そして嬉しそうに「ありがとう」と返した宰に、思わず笑ってしまう。恋人の考えたこの計画が、たまらなくこそばゆかった。


宰はウキウキのテンションで、「はぁ〜よかったぁ〜」と吐き出すと、いきいきと続ける。


『着けてみて! サイズは合ってると思うんだけど』

「……着けない」

『へっ!?』


航太は掌で指輪を転がしながら、素っ気なく答えた。


「今は着けない」

『そ、そんな……』


絶望感に満ちた宰の声に、航太はまた笑う。

本当に馬鹿なやつ。でも馬鹿なところも、愛おしい。すっかり絆された自分に呆れつつも、航太はきっぱりと言い切った。


「今度会ったとき、宰に着けてもらうから、いい」

『え』

「自分で着けたらもったいない」

『……こ、航ちゃん』


電話の向こうで、宰の声はかすかに震えていた。それは、喜びによる震えだった。


そして感極まった声が、航太の耳に届く。


『……航ちゃん。今の、もう一度言ってほしい。ちょっと待って、今から録音を』

「おやすみ」


航太は冷めた声でそれだけ告げて、ブツリと通話を切った。危なかった。油断していると、声を録音される。


スマホにはすかさず「もう一度チャンスを」とメッセージが送られてきたが、航太は知らないふりをする。けれど、穏やかな光を灯した彼の瞳は、掌のなかの指輪に注がれていた。


「……あれ?」


内側に何か文字が刻まれているのに気付き、航太はそっと覗き見る。

そして即座に、後悔した。


そこにはオシャレな飾り文字で「T♡K 〜ETERNAL ♡ LOVE〜」と刻まれていた。航太は、自分のテンションが急速に下がっていくのを感じ、ため息をつく。


「……最低」


この文字は見なかったことにしよう。

そう自分に言い聞かせ、航太は静かに指輪を小箱に戻した。


銀色argenteの輝きが、誇らしげに航太を見返す。


「本当、どんなセンスしてんの」


そう呟いた航太は、しあわせそうに微笑んでいた。






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