第41話 【5年1ヶ月後】ちょっとだけ
ちょっとだけ。
愛しい恋人の言葉に、スーパーアルファの全身は硬直した。
ちょっとだけ。チョットダケ、とは。
彼のIQ250の頭脳は、ここへ来てまったく役に立たなかった。
宰は清い身体の男である。生まれてこの方少女漫画を愛し、「婚前交渉はNG」の戒律のもとに生きてきた。しかしその一方で、彼は健全な好青年でもあった。
ちょっとだけ、というのは。それはどこまで許されるのだろうか。キス……はいつもしている。おそらく求められているのは、その先だ。
しかし「その先」の「ちょっと」とは。
切なげにこちらを見つめる航太の視線が、宰の脳を揺さぶった。
以前、航太の珠玉の名言「付き合ってるのに、キスしかしないのは、寂しい」を受けて以降、宰は大人のキッス……つまりはディープキッスを実践するようになった。
一時期、彼のスマホの検索履歴は「ディープキス テクニック」「上手いディープキス」「恋人 夢中 キス」ばかりになったが、そのかいあって、最近は自然にディープな口づけに移行できるまでに進化していた。
ついでにいえば、深いキッスの合間に航太の身体を触る、という段階までステップアップした。触るといっても背中や腰への軽いお触り程度だったが、宰にはそれが精一杯だった。
一度だけ、思い切って添い寝にもチャレンジしたこともある。朝まで恋人同士が抱き合って眠る。むしろ何もない方がおかしい状況である。
ふたりは「これは何か起こってしまうのではないか」とドギマギして一晩を過ごしたが、結局お互い何のアクションも起こさぬまま、いたずらに徹夜をするという無為なイベントとして終了した。
これは、次の日に響くからやめておこう。
虚しさのなか決められた取り決めに従い、それ以降添い寝は行われていない。
しかし今回、新たに提示された「ちょっとだけ」。
宰の脳裏には、以前広告に惹かれて、こっそりとレンタル漫画サイトで閲読したアダルト漫画の一面が浮かんでいた。
主人公は「先っちょだけ先っちょだけ」という古典的な定型文を駆使し、結果的にはヒロインとの行為を完遂させていた。それどころか三回戦まで持ち込んでいた。なるほど、こんな技があったのか、と静かな感動を覚えたことは記憶に新しい。
——もしかしたら、航ちゃんが言うところの「ちょっとだけ」とは、「先っちょだけ」の意味なのではないか。
その可能性に思い至った宰は、わずかによろめいた。なんと大胆な。確かに、先っちょだけならギリギリ性交渉に当たらない気がする……いや、それはもう性交渉ではないか?
先っちょとは、先端から何センチまでを指すのか。
「つかさ」
「はわっ!」
宰が悶々と考えていると、焦れたように恋人が手を引いた。潤んだ瞳が艶かしい。宰は心のカメラを連写モードにした。
「しようよ、ちょっとでいいから」
「……は、はい」
再び差し出された、「ちょっと」という難問。宰は一瞬ためらったが、意を決してベッドの上に上がった。仰向けになった航太にまたがり、その顔の両脇に手をつく。真っ直ぐに見下ろせば、火照った顔が見返してきた。
絶景、ここにあり。
宰は痺れるように思った。
甘やかな香りが全身を包み、理性をじわじわと溶かしていく。ここまで航太に求められて拒否できるほど、宰は枯れていなかった。
「……航ちゃん」
なるようになる。
ちょっとだけ、で終わってみせる。
「……ん、」
速まる鼓動を感じながら、宰はゆっくりと唇を合わせた。触れ合った瞬間、ぴりぴりと全身に快感が広がる。何度キスをしても同じだった。この人だ、この人が自分の運命なのだと、宰の本能が告げている。唇を軽く吸うと、航太の鼻からは甘い吐息が漏れた。
航太がゆるりと両腕を首に回してきたことで、ますます宰はヒートアップした。普段は時間をかけて唇を割り開くところを、性急に舌先でこじ開ける。熱く濡れた航太の舌を誘いながら、宰は目の前の身体に触れた。服の上から腰のラインを辿っただけで、発情した身体はびくびくと敏感な反応を見せる。
宰は半ばパニック状態に陥っていた。
予想以上に、自分に歯止めが効かないことに気づいたからだ。
キスが深まれば深まるほど、航太はうっとりと声を漏らした。それどころか宰を引き寄せ、自分から舌を吸い、誘うように軽く噛む。
普段なら絶対に有り得ない恋人の積極性に、宰はくらくらしていた。自分の下腹に不穏な熱が集まっているのを感じる。
そろそろ「ちょっとだけ」の範疇を超えそうだ。そうは思ったものの、火のついた互いの身体は止まらなかった。アルファとオメガの香りが誘発し合い、触れるたびに濃さを増していく。身体から絶えず発せられる匂いは、ふたりの身体を高める要素にしかなり得なかった。
宰は航太のワイシャツをスラックスから引き抜き、肌着ごとたくしあげる。初めて見る恋人の素肌に、宰はごくりと喉を鳴らした。
おそるおそる掌で胸を擦れば、航太は大げさなくらいに身体を震わせた。
これは大丈夫なのか?
もう「ちょっとだけ」を超えてるんじゃないか?
とりあえず航ちゃん、えっちすぎるのでは?
興奮のあまり痛み始めた頭を、宰は軽く振る。航太は抑制剤の効果を打ち消すほど、発情の熱に飲み込まれつつあった。ほんのりと赤く染まる肌がたまらなく色っぽい。宰はめまいがするほど感激していた。
キスをしても、首筋や鎖骨に触れても、耳元で囁いても、胸を撫でても。どこに触れても、敏感になった航太は掠れた声で喘ぐ。
触るたびに声を上げられると、宰も謎の自信が湧いてきて、ますます触りたくなってしまう。そのたびに、航太は蕩け切った目を宰に向け、眉根を寄せて鳴く。
これが
濁った瞳の航太が、ふわりと笑う。
「つかさ、キスしよ……」
「はい喜んで!」
誘われれば、すぐに唇を重ねた。
お互いの身体を撫で回しながら、水音を立てて唾液を絡める。宰はわずかばかりの理性を手繰り寄せながらも、航太の身体を味わうことに夢中になっていた。
ずっと、こうして触りたかった。
気持ちよさそうに身悶える恋人の反応を目にするたび、これが「正しいこと」なのだと本能で分かる。心以上に身体が、目の前の相手を求めていた。
かつてないほどの進度で、宰と航太は関係を深めていった。むせ返るような濃い香りが部屋に充満する。
ちゅ、と音を立てて顔を離すと、航太は名残惜しそう目を細めた後、指を伸ばして宰の唇を拭った。あまりの色気に、宰は一瞬昇天しかけたが、すんでのところで無事にまた現世へと舞い戻ってきた。
二人は身体を起こして抱き合い、互いを慰めた。
航太の身体が前に傾いて、うなじが宰の目の前に差し出される。
揺れる視界の先で、そこだけがまぶしかった。
宰はそこにそっと唇を当て、舐めた。
航太が怯えるように肩を震わせたのが分かる。
噛みたい。噛まなければ。噛んで、自分のものにしなければ。
本能がそう告げていた。
宰の頭に、神田の声が蘇る。
大切にした方がいい。離れるなら、なおさら。
そう言っていた。
大切にする。
宰は朦朧とした意識の隅で、その意味を考えた。
つがいになれば、自分がいなくなっても航太を守ってあげられる。航太はほかのアルファのものにはならない。つがいになれば。
ここを、噛めば。
宰が歯を剥き出しにしようとしたその瞬間、「つかさ」と、航太の声が鼓膜を打った。
宰は動きを止める。
「噛んでも、いいけど」
「…………」
「いいけど、でもつかさは、たぶん」
切れ切れの呼吸のなかで、航太は続けた。
「父さんとの約束、破ったら……後悔するよ」
「……航ちゃん」
「おまえ、面倒くさいから。今、つがいになったら、我慢できなかった、って……後悔すると思う」
「…………」
「後悔されるの、いやなんだけど」
宰から、噛みたいという強い渇望が徐々に引いていく。
確かに、航太の父と約束した。結婚するまでは、つがいにならないと。そして宰自身、半端な立場で航太とつがいになるのは避けたいと思っている。
宰は自分の身勝手さに気付いた。彼は恋人の安全よりも、自分の信条を大事にしていた。恋人という立場に甘んじて、浮かれていた。
「……でもそれは、僕の自分勝手な都合で」
「別に、いいよ」
え、と聞き返す前に、宰の唇に、一瞬柔らかな感触が触れた。見返した先の航太は、また困ったように笑っている。
「お前が勝手なの、今更じゃん」
「…………」
「宰が納得できるときまで、おれは待つから」
宰は自分の胸の奥が、じんわりと熱くなっていくのを感じていた。止まっていた手に力を込めて動かしながら、蕩けた表情の恋人にキスをする。呼吸の合間に、航太がまた笑ったのが分かった。
熱が放たれて目の前が白む感覚に、航太は宰の肩に力なく寄りかかった。うっすらと眦に浮かんだ涙を、宰がそっと吸う。
「航ちゃん、好きだ」
「……知ってる」
恋人の真剣な声が妙に照れ臭くて、航太はぶっきらぼうに返答した。
タオルで汗ばんだ身体を清めたころには、航太はすべての体力を使い切っていた。
ぐったりとベッドに横たわっていると、宰がいそいそと水の入ったペットボトルを持ってくる。
一度出したあと、ふたりは妙に冷静になり、結局それ以上へは進まなかった。抑制剤は本来の働きをみせ、宰は強靭な精神力でばっちり理性を取り戻していた。「ちょっとだけ」は、宣言通り「ちょっとだけ」で終了したのである。
航太は、ベッドの脇に腰掛けた宰を見つめた。やけにさっぱりした顔で、にこにことこちらを見ているのが腹立たしい。それと同時に、胸の奥がひりついた。
宰は、あと少しでいなくなる。
別れるわけじゃないけど、物理的に遠くなる。
こうして簡単には会えなくなる。
そう思った途端、航太の口は勝手に動いていた。
「……三年は、あっという間じゃないよ」
言うつもりのない不満だった。宰の顔からは笑みが消えたが、航太は自分を止めることができなかった。寝返りを打ち、枕に顔を埋めながら、ぽつぽつと言葉をこぼす。
「長いよ。めちゃくちゃ長い……」
「航ちゃん」
宰の掌が背中に当てられる。
慈しむような温度が、余計に言葉を後押しした。
「……あっという間とか、言われたらさぁ」
「…………」
「さみしいじゃん……。明るく言うなよ。 おればっかり、さみしいみたいで、いやだ」
「……ごめん」
航太の背中を擦りながら、宰は張りのない声で呟いた。
「あと三年で、航ちゃんと一緒になれるって思って、浮かれてた」
「……浮かれるの、はやいし」
「ごめんね、航ちゃん」
「言うの遅いし……。もう、あとちょっとしかないし……」
「うん」
航太の肩は震えていた。ずっと言いたくて、けれど言えなかった本音が溢れていく。
「宰と離れるの、さみしいよ」
「うん」
「お前、バカでうるさいけど、会いたいときにすぐに会えないの、さみしい」
「そうだね」
宰の答えが優しくて、航太は耐えきれず嗚咽を漏らした。バカで奇天烈で自分勝手でも、航太は間違いなく宰のことが好きだった。
「仕方ないの分かってるけど、おれも面倒くさいこと言いたくないけど……でも、やだよ」
「航ちゃん」
——あとはできるだけ、ふたりで過ごそう。
宰がそう答えると、航太は枕に顔を埋めたまま小さく唸り、みじろぎした。そしてそのまま、すうすうと寝息を立て始める。
宰は布団を航太の肩まで引き上げた。
航太の横顔にかかる髪を払ってやり、ひとつ深い息を吐く。
彼の瞳には、ある決意が宿っていた。
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