第40話 【5年1ヶ月後】つがい



戦友ともの背中にまたがり、宰は電話越しに告げられたアパートへ向かった。道中、アルジャンテは一言も発しなかった。珍しく、宰が怒りを身体にみなぎらせていることに、戸惑っていたからかもしれない。


雪のちらつく道を、銀の車輪が残像を置いて駆けていく。宰は焦り、苛立っていた。以前航太の部屋から、陽介が出てきたときと同じように、心が澱むのを感じる。


しかし宰は、そのとき以上の不快感を覚えていた。神田と名乗った男からは、声だけでも、宰に敵意を向けていることが分かったからだ。


「連れてきました」と告げたときの、馬鹿にするような口調が耳についた。さらに神田は、わざと宰に聞こえるように、誰かと話していた。

誰か。それはきっと。

考えなくても分かってしまう。


胸を掻きむしりたくなるような切迫感が、宰を襲う。もし、最悪のことが起こっていたら。それを思えば寒さなど感じなかった。


教えられたアパートの前に着き、宰は戦友ともの背を降りた。駐輪場の端に、ガシャン、と乱暴に立て掛けられても、アルジャンテは口をつぐんだままだ。宰の顔に、表情は無かった。







「……随分早いね」


開いたドアの先には、端正な顔立ちの男がいた。宰とそう変わらない体躯に、涼しげな目元。声を聞いてすぐに、宰はそれが「神田」なのだと分かる。目が合った瞬間、神田は薄く笑ってみせた。本当に来たのか、とでも言うように。


「迎えに来ました」

「そんなに怖い顔するなよ」

「どこですか」


淡々と尋ねる宰に目を細め、神田は「奥に寝てるよ」と告げた。招かれるよりも早く、宰は神田の傍をすり抜け部屋のなかへ押し入る。その余裕のなさに、また神田が小さく笑った。


小綺麗に整えられたリビングには、宰がよく知る香りが漂っていた。普段嗅ぐよりもずっと濃密な匂いに、宰は余計に神経を尖らせる。発情期ヒートを迎えた恋人の匂いだった。


「つかさ……?」


航太は寝室のベッドに横たわっていた。

浅い呼吸とぼんやりと火照った表情に、宰の胸はまた不穏に震える。宰を認めた航太は緩慢に上体を起こしたが、その表情はぼんやりと頼りなかった。


「航ちゃん」


名前を呼び腕を軽く引けば、航太は素直に身体を預けてきた。肩口に熱い吐息を感じながら、宰はこわごわと航太のうなじに手を伸ばし、触れた。腕に抱いた身体がかすかに跳ねる。普段とは様子の違う宰に、戸惑っているようにも見えた。


そっと襟足に触れ、宰はその感触をたどる。


「つかさ」

「…………」


うなじは、まっさらなままだった。

噛み跡も、傷も、何一つついていない。

宰はその手触りをたしかめると、腕に力を込め直し、深く安堵の息を吐いた。


よかった、と漏らす宰に、航太が身じろぎする。そのとき、背後から冷たく笑う声がした。


「何もしてないよ。すぐに抑制剤飲ませたし」


宰が視線を向ければ、神田は壁にもたれて、呆れたようにこちらを眺めている。

温度のない声が部屋に響く。


「そんなに不安なら、さっさと噛んでやればいいのに」

「…………」

「次があったらやばいかもね」

「神田さん」


顔を上げた航太が、咎めるように名前を呼ぶ。神田は意味ありげに微笑み、航太を支える宰を見下していた。宰に向けられた視線には、露骨な軽蔑の念が込められている。


心が波立つ感覚を覚えて、宰は神田から目を逸らす。


「航ちゃん、立てる?」

「うん、でも……」


これ以上ここにいる必要はない。

宰は静かに航太に声を掛けると、その身体を引き寄せる。宰もまた、神田に理由のない苛立ちを覚え始めていた。


「行こう、航ちゃん」

「宰」

「タクシーを拾おう」

「つかさ」


宰の憤りを感じて、航太は名前を呼びなだめるが耳を貸す気配はなかった。珍しく冷静さを失っている恋人に戸惑いながらも、航太は宰の胸を軽く叩く。それでも視線は、こちらへ向かない。


「航ちゃん、いいから」


航太が初めて聞く種類の声だった。

腕を引く仕草にも余裕がない。


宰は、誤解している。苛立ちに任せて、この場を去ろうとしている。


航太は直感し、恋人の意識を強制的に引き戻すべく、禁じ手を使うことにした。

身体を離して一瞬ためらってから、航太は意を決して口を開いた。


「……つっくん!」

「は……ッ!?」


効果はばつぐんだった。

宰は瞬時に固まり、動きを止める。

そして唇をわななかせて航太に目を向けた。


信じられない。まさか、そんなことが。


宰の顔にはそう書いてあった。


「……航ちゃん、いま、なんて……?」

「…………」


航太は苦虫を噛み潰したような顔をする。

彼にとっては、最も避けたかった苦肉の策だった。


しかしその一方で、宰は震えるような感動を覚えていた。苦節五年、念願だった航太による「つっくん」呼びが、ついに発動したからだ。さっきまでの怒りや焦りそっちのけで、宰は目の前を喜びを噛み締めることにした。


「なんてことだっ、まさか今日がつっくん記念日になるなんて……っ!」

「…………」

「くっ、僕としたことがスケジュール帳を家に置いてきてしまった……っ!」

「……記念日はもう増やさなくていいから、ちゃんと話聞いて」

「はい! わかりました!」


朗々と良い返事をして、宰はきらめく笑顔を浮かべた。普段の間抜けなテンションが戻ってきたことに航太は内心ほっと息をつき、神田に目をやる。


謎の喜びを見せた宰に、なおも馬鹿にするような視線を送っている。航太は痛む頭を押さえながら、ため息まじりに宰に告げた。


「宰、誤解してるよ」

「……誤解?」

「神田さんは、純粋におれを助けてくれただけだ」


航太の言葉の指すところが汲み取れず、宰が首をひねると、その先を神田が引き継いだ。


「俺はベータだよ」 

「えっ」

「本当におめでたい彼氏だな」


アルファ同士なら会ったらすぐ分かるものなんだろ、と神田は吐き捨てるように言った。宰を睨みつける瞳には、憎しみにも似た感情が含まれている。一度息を吐き視線を和らげたあと、神田は静かに続けた。


「優秀なベータだっているんだよ。君たちと違って、努力は必要だけどな」


宰は神田を見返す。

たしかに、アルファ同士で威嚇し合ったときに感じる威圧感はなかった。ただ、自信に満ちたその雰囲気が、神田をアルファらしく見せているだけで。 


「俺の恋人もさ、オメガなんだよ」


無機質な声が宰に届く。

深い諦念を感じさせる声だった。


「俺はベータだから、あいつとはつがいになれない。噛み跡をつけるふりならできるけど」


真似事に意味なんてないからな、と神田は自嘲する。宰は黙ってそれを聞いていた。この人の話は、聞かなければいけない。直感でそう思った。


神田は、宰を見据えたまま言う。


「だから君みたいなアルファを見てると腹が立つ。つがいになったら、恋人が危ない目に遭うリスクを減らせるのに、それをしないなんて傲慢で無責任だと思ってる」

「…………」

「俺がアルファだったら、君たちの関係は今日で終わってたよ」


ベータでよかったな、と力なく笑う神田を、宰は静かな気持ちで見つめ返していた。


宰にはベータの神田の本当の気持ちは分からない。宰はアルファで、アルファであることを誇りに思って生きてきた。ベータを下に見たことはないが、ベータにはなれない。


けれど、恋人とつがいになりたくても叶わない事実が、神田を苦しめているということは分かった。


つがいになるということ。

宰は改めてその意味を考えた。


愛する人を守る手段を、自分は理由をつけて先延ばしにしている。それで良いのだと思っていた。でもそれは、本当に正しいのだろうか。


神田は壁にもたれたまま、ゆるりと腕を組む。視線は床に落とされていた。


「君たちの関係の在り方に口出しするなんて、野暮だと思ってるよ」


宰と航太は、何も答えなかった。神田が悪意だけで話しているわけではないことが、ふたりには分かったからだ。


「葉竹は俺にとってかわいい後輩だ。がんばってるから、応援したいし、オメガであることにハンデを感じないようにしてやりたい」

「神田さん」

「航ちゃん、神田さん良い人だね……」

「……宰、ちょっと黙って」


航太は小声で囁く宰の腕をつねり、神田の言葉を待った。つねられた宰はちょっと嬉しそうにしていたが、無視した。


航太も、神田の複雑な優しさは日々感じていた。さりげなく恋人とつがいになるよう圧をかけてくるのは、彼が航太を自らの恋人と重ねてしまうからなのだろう。


「神田さん」


黙って、という指示を無視して、宰は口を開いた。 航太が焦って止める前に、宰は神田に向かって深く頭を下げる。


「ありがとうございました。航ちゃんを助けていただいて」

「……宰」

「無礼な態度をとりました。すみませんでした」


神田は何も答えなかった。

彼のなかで、アルファに対するさまざまな感情が渦巻いているのが見て取れる。航太が続けて頭を下げようとしたとき、宰はハキハキと続けた。


「僕はてっきり、神田さんが航ちゃんのことを狙っているのかと思いました」

「ちょっ、つかさ」

「航ちゃんはとてつもなく可愛いので……」

「…………」

「恐縮です」


——この場から消えたい。


会社の先輩の面前でナチュラルに惚気られた航太は、心を震わせながら思った。神田も突然の航太への賛辞に、怪訝そうに眉をひそめている。


「と、いうわけで航ちゃんを連れて帰ります! ありがとうございました!」

「…………」

「…………」


神田の同情に満ちた視線に耐えきれず、航太は呻き、俯いた。






帰り際の玄関で、神田は宰を見据え、「葉竹から君の話はたまに聞くけど」と前置きしてから、静かに言った。


「大切にした方がいい」

「…………」

「離れるなら、なおさら」

「……はい」


諭すような口調に、宰は素直に頷いた。

あと少しで、宰と航太は離れる。


恋人とつがいになれない事実を抱えた男の言葉を、宰はゆっくりと飲み込んだ。腕のなかでじっと俯く航太の存在を、より強く感じる。


しばしの静寂のあと、宰は真摯な眼差しで神田を見た。


「神田さん」

「…………」

「……ひとつだけ、お願いしてもよろしいでしょうか」

「……内容による」


その素っ気なさに対して、宰はきっぱりと告げた。


「僕たちは今日タクシーで帰りますので、アルジャンテを預かっていただいてもよろしいでしょうか」

「アル……? なんだって?」

「僕の戦友ともです」

「……外国人の友だちに送ってきてもらったのか?」


神田は困惑し、航太はさっと青ざめた。空気の読めないスーパーアルファは、「やれやれ」と言わんばかりに小さく笑って続ける。


「ふふ、失敬。友だちではなく……、戦友ともです」

「とも……?」

「神田さん、すみません、あそこに停めてあるチャリのことです。本当にすみません」


なおも戸惑う神田に、航太は泣きそうな気分でぺこぺこと頭を下げた。

その場をあとにしようとしたとき、神田から「葉竹の恋人はまともな奴なのか」と小声で尋ねられた航太は、曖昧な笑みを浮かべて立ち去った。


——宰がまともだったことなんて、一度もないです。


いくら信頼する先輩相手であろうと、さすがにそれは言えなかった。








◆◆◆







「航ちゃん、大丈夫?」

「……あんまり」


部屋にたどり着いた途端、気の抜けた航太は玄関にへたり込んでしまった。宰に抱えられ、なんとかベッドまでたどり着いたが、熱を持ったままの身体は少しも落ち着かない。


抑制剤は効いている。効いてはいるが、発情期ヒートを完全に抑え切れるわけではない。この時期特有の、甘ったるい香りが部屋に満ちていく。航太の視界はまだぐらぐらと揺れていた。


「水、持ってくるね」


コートを脱ぎながら宰が言う。宰にもこの香りは届いているはずだ。けれど毎回、宰は耐え切ってしまう。まだ、つがいにはならない。そう言って、できるだけ航太には触れないようにする。


爽やかな香りが航太の鼻先をくすぐる。何度嗅いでも飽きない、心から安心する匂い。航太はたまらなくなって、恋人を呼んだ。


「つかさ」


手を伸ばして、台所へ向かおうとしていた宰を引き止めた。わずかに早い脈を指先に感じながら、航太は宰の顔をじっと見つめる。


あと少しで遠くへ行ってしまう、恋人の顔。


「航ちゃん?」


航太は喉が渇いていた。

発情期ヒートの熱のせいだけではなく、緊張から来る渇きだった。


水はいらない。

それよりも。


「噛まなくても、いいから」


航太の瞳は、色を含んで濡れていた。

それは語るよりも雄弁に、宰を誘う。


掠れたあまい声が、そっと囁いた。

 

「……ちょっとだけ、しよう」






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