第39話 【5年1ヶ月後】手遅れ







葉竹航太の恋人は、極めて能天気な男であった。


四月には大阪に戻るのだ、と言う宰に、航太はしばし呆然とした。そして次の瞬間には責め立てていた。


なぜへらへらしているのか。

なぜそんな大事なことを言わなかったのか。


それまでのちょっと良い感じの雰囲気は見事に霧散していた。一方の宰は、航太がどうして取り乱しているのか、理解できていないようだった。


「研修医はそういうものなんだ、航ちゃん」

「おれは医者じゃないんだから、そんなカリキュラム的なの知らないんだよ!」

「まあまあ、しかしですよ、航ちゃん。後期研修が終われば僕は一人前の医者になるわけで。そしたら僕たちも正式に」

「それまで三年あるんでしょ? 三年だよ、三年!」


恋人と三年間離れるという重さが分からないのか、と航太は念じてみたが、宰にはまるで通じなかった。それどころか、晴れやかな声でこう言ってのけた。

 

「大丈夫! 三年なんてあっという間だよ!」






◆◆◆






「いや! 三年は! どう考えても! あっという間ではないと思うんだけど!!」

「……それを俺に言われても」

「だって宰に言っても響かないし」

「俺に言っても狩野田には響かないだろ」

「いいじゃん。愚痴ってそういうもんでしょ」

「……お前らは、ほんとに……」


珍しく航太から呼び出された好青年工藤は、居酒屋のカウンターで一方的に愚痴を浴びせられていた。「俺はお前らカップルの面倒見役じゃない」とぼそりと言うと、酒で顔を染め始めた航太に思い切り睨み付けられる。


「……工藤くんも、教えてくれなかった」

「は?」

「東京にいるのが二年だけだって。ひどい。薄情者だ。血も涙もない」

「いやいやいや、普通狩野田から教えてもらってると思うだろ! 付き合ってんだから!」

「あいつがそこまで気がきくわけないじゃん」

「ええ……」


航太は珍しく酔っ払っていた。

いつの間にか、ビールから麦焼酎にグラスが変わっている。


普段は自分でセーブしているものの、航太は絡み酒をするタイプだった。穏やかに見える人間ほど、溜め込んだものを吐き出し始めると長い。


工藤は自らの運命を呪った。面倒なカップルに目をつけられてしまった。彼は心のなかで、おそらく数百回目の涙を流した。


航太の頼みの綱である風間は、新婚旅行中だという。そんなわけで、暇そうな工藤に白羽の矢が立った。工藤は人の良い青年だった。良く言えば頼られやすく、悪く言えば利用されやすい人間だった。


削った岩塩をちびちび舐めながら、航太は呪いの言葉を吐くかのごとく続ける。

 

「三年って、三年だけって」

「うん……」

「中学とか高校だったら、入学から卒業までいくわけじゃん。超長いじゃん。青春が始まって終わるわけじゃん」

「そっすね」

「付き合うまでの遠距離とさ、付き合ってからの遠距離ってさ、全然意味がちがうわけでしょ。お互い仕事もあるしさぁ」

「おっしゃる通りです」


面倒な絡み方をしつつも、航太の声は徐々に沈みつつあった。工藤が横顔を見れば、その瞳はどんよりと澱んでいる。完全に酔っ払いの目だった。


「普通にひどい」

「ひどいですね」

「なんであんなにヘラヘラしてんの」

「本当ですね。狩野田は最低の人間だと思います」

「そこまで言ってない。工藤くんひどい」

「…………」


航ちゃん、結構面倒くせぇな。

工藤は正直な男だった。あからさまに煩わしそうな表情した工藤に、航太はますます瞳を曇らせる。工藤は深く息を吐いたあと、航太から酒を取り上げた。これ以上飲ませたら悲劇しか起きない、という冷静な判断からだった。


「つまり航ちゃんは、あのアホと離れるのが寂しく悲しい、と」

「…………」

「狩野田にそうはっきり言ったらいいのに」

「……調子に乗るじゃん」

「調子に乗ってないときがないから別にいいだろ」

「う」


ごもっとも、と航太の顔には書いていた。航太は前髪をわしゃわしゃ掻き乱したあと、呻きながらカウンターに突っ伏す。工藤の目から見ても、航太は相当参っていた。酒でしわがれた声が細く響く。


「……三年も離れるのに、あんなにペカーッと明るく言われたら」

「うん」

「かなりへこむ」

「だって狩野田だし」

「まあそうなんだけど」


航太は勢いよく顔を上げ、何かを悟ったかのように虚空を見つめ始めた。やっぱり参っている。さすがに可哀想に思えてきて、工藤はしたくもないフォローを始めた。


「狩野田的には、あと三年で航ちゃんと一緒になれる〜やった〜みたいなノリなんだろ」

「たぶんそう」

「それにあいつバカだから、何も考えてないと思う」

「……うっ、なぜおれはあんな奴と……」

「俺は何回も止めたからな」

「うぅ、う」


航太はか細く声を漏らし、再び突っ伏した。そしてなんと、そのままぐうぐうと眠り始めてしまった。工藤は呆れ、すぐさま引き取り手に電話を掛け、迎えを要請した。


迎えは嬉々としてやってきた。「航ちゃんと飲めて良かったな、工藤」という言葉を手土産にして。


アルファとオメガの……というか宰と航太の関係性は、工藤にはどうにも分かりかねた。





◆◆◆





その後も航太の憂鬱は続いた。


相変わらず頭から花の散っている恋人は、あと三年経ったらどうのこうのばかりを語っている。宰はいわば、夢見る乙女モードに入っていた。


そうじゃないだろ。

そこに行き着くまでの三年間が問題なんだろ。


航太はそのたびに心のなかで突っ込んだが、宰はまるで分かっていないようだった。ふたりの絆を確信しているのか、その目はまっすぐに三年後を見つめている。


宰は将来的に、東京で勤務医をするつもりだという。「航ちゃん、I'll be back……」とキメ顔で言われるたび、航太はその顔面をぶん殴りたくなった。


そして結局、ぶん殴ることすら叶わぬまま、一ヶ月が経った。


余計なことを考えないよう、航太は仕事に打ち込んだ。年度末への準備をするのはまだ早かったが、自ら進んで仕事を引き受け、夜遅くまで残るようになった。


手を動かしている間は、余計なことを考えずに済む。宰はそんな航太を心配して、毎晩帰りを待っていた。


ふたりで過ごせる残り時間は確実に減っていくのに、航太は宰と一緒にいることを意識的に避けていた。


今から、宰のいない状態に慣れておきたい。


そう考えて、航太は毎日わき目もふらず働いた。


そしてそれは悪い方向に作用した。

航太本人が気付かぬうちに、疲労は彼の心身のバランスを確実に崩していった。




いやな気配が襲ってきたのは、航太がひとりで残業をしていたときのことだった。航太はその感覚を知っていた。本来ならば、二週間後に訪れるはずの、それ。


やりすぎた、と今更すぎる反省をしながら、航太は両手で顔を覆う。周りに人がいないことが救いだった。


頭が割れるように痛い。無防備なうなじが、刺激を求めてちりちりとうずいた。早くアルファを探せ、と本能が告げているのだ。


——毎度毎度、いやになる。


小さく舌打ちしたあと、航太は抑制剤を取り出そうと足元に置いていたバッグをデスクまで引き上げた。うまく動かない手を突っ込み、バッグの中をあさるが、視界がぶれて、うまく目的の物を探し出せない。


どこに入れたっけ。

早くしないと、はやく。


焦れば焦るほど、指先は震える。下腹からじわじわと、身を焼くような熱が這い上がってきて、航太は息を詰めた。呼吸が乱れて苦しい。うまく身体を支えきれず、航太はデスクに突っ伏した。


抑制剤はまだ見つからない。こめかみで脈打つ痛みに目をつむりながら、航太は手探りで、目的の感触を探した。


そのとき、指先でカサ、と微かな音がして、航太はほっと息をつく。


これさえ飲めば、とりあえずは。






「葉竹?」


名前を呼ばれて、航太の肩はびくりと跳ねた。缶コーヒーを二本持った神田が、驚いた顔をして航太を見つめている。航太はそれをぼんやりと見返した。


どうして、神田さんがいるんだろう。そういえば、別室で資料を探すとか、そんなことを言っていた気がする。


思考にもやがかかっていく。

固い感触は、指先から離れていった。

身体中、力が入らなくて熱い。


早くアルファを探せ。

本能がまたそう告げた。


「お前……」


神田がゆっくりと近付いてくる。航太は動けなかった。もう動く気力なんてない。だらしなく半開きになった唇を、閉じることすらできない。ただ、自分の呼吸がやけにうるさくて、耳障りなことだけは分かった。


掠れた声が、航太の耳に届く。


「……発情期ヒートか?」


筋張った手を肩に置かれた瞬間、ぶわりと体温が上がった。






◆◆◆






壁掛け時計に目をやって、宰はもう一度手元のスマホを見た。何度見ても、通知は届いていない。


最近、航太の帰りが遅い。

そして今日は特に遅かった。


メッセージを送っても既読がつかず、さすがにおかしいと感じた宰は、意気揚々とコートを羽織った。会社に迎えに行こう。恋人を夜遅くひとりで歩かせるべきじゃない。彼はどこまでも能天気だった。


その前に最後の確認を、と宰は航太に電話をかけた。数回コール音が鳴ったあと、回線が繋がった気配がした。


「あ、航ちゃ」

『……葉竹の彼氏さん?』


聞こえてきた声に、宰はぱちくりと目を瞬かせた。初めて聞く声だ。はじめまして、と甘やかな声が名乗る。


『神田といいます。葉竹と同じ会社の』


神田。

そういえば、航太が以前そんな名前を言っていた気がする。面倒見がよくて、仕事のデキる先輩社員がいる。神田さんっていうんだけど、と航太はそんな話をしていた。


僕と一文字違いだ、と宰が返すと、航太はなぜか楽しそうに笑った。

一文字違うだけで全然ちがう。

からかうような航太の表情に胸が高鳴ったことを思い出しながら、宰は明るく返した。


「神田さん、こんばんは。これはどうも……」


そこまで言って、宰ははたと気付く。

なぜ、航太のスマホに、神田が出るのか。


神田の背後は静かだった。外にいるわけではない。おそらく、会社でもない。だとしたら、どこに。

宰は口をつぐむ。


数瞬の静けさのあと、神田は淡々と続けた。


『葉竹、残業中に発情期ヒートを起こしたので』

「えっ」

『連れてきました』

「……連れて……?」

『会社に置いて行けないでしょう』


宰はまた瞬きをひとつした。

彼は、今告げられた内容を、いまいち飲み込めないでいた。


航太の発情期ヒート

「連れてきた」のことば。

そして、神田が航太のスマホを使っている意味。


宰の優秀な頭脳も、このときばかりはそれらが導き出す答えを出そうとはしなかった。

喉の奥がひりつくような感覚があった。


『それで……、ああ、いいからお前は寝とけって』

「…………」


電話の向こうで、密やかに会話が交わされている。宰は胸が激しくざわめくのを感じていた。耳を澄ましても、会話の内容はうまく聴き取れない。


神田は「誰か」をなだめていた。

聞いているほうがいやになるくらい、優しく。


しばらく待たされた後、再び声が戻ってくる。


『すみません、話の途中で』

「……いえ」


自分の声が低くなっているのを、宰は気付いていなかった。一方で神田は、宰の様子が変わったことを察したらしい。口のなかで小さく笑った後、落ち着いた響きが、試すように言った。


『どうします、迎えに来ます?』

「当たり前でしょう」

『……そう』


神田は冷めた口調でそう応じ、「俺の部屋です」とある住所を伝えてきた。宰はそれを瞬時に脳裏に刻み付ける。電話の向こうの男は、何も言わず電話を切った。



電話の向こうで、聞き慣れた声が、何かを言った気がした。





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