第38話 【5年後】タイムリミット




五周年記念をしたい。


 

宰からそう言われて、航太は小首を傾げた。

五周年。一体何の。

そう聞き返すと宰は「はい出ました、航ちゃんジョーク」と苛つく発言をしたあと、頬を染めて告げた。


「……僕と航ちゃんが出会ってから、五年目じゃないか」

「出会ってから?」

「そう、キャルメリで愛を交わした、あの日から……」

「…………」


メッセージは交わしたが、愛は交わしてない。しかしそれを指摘するのもばかばかしい。もはや宰の記憶は、修正できないほど美化されていた。

宰がちらちらとこちらを見ながら「イケズだな、航ちゃん」と呟くのを聞いて、航太はどっと肩が重くなるのを感じていた。


——おれはこんな奴と、五年間も。


すっかり宰のあしらいに慣れた航太は、素っ気なく「いいよ」と返してやった。視界の隅では恋人が小躍りを始める。自分が悪趣味であるという事実は、もう否定のしようがなかった。





◆◆◆





宰が卑劣な手を使って葉竹家のアルファたちを籠絡してから、半年と少し。


明彦と陽介は表面上は航太たちの交際を認め、ふたりに付き纏うことをやめた。いや、厳密に言えば、いまも時折「おっ、偶然だな」などと言って代わる代わる姿を見せるのだが、頻度がかなり減った。横浜に住む兄はまだしも、長野に居を構える父が幾度も「偶然」を装うのを、航太はしらけた目で眺めていた。 


アルファによる三者会談を終えたあと、航太は得意げな宰から「ふたりが納得してくれた」という報告を受けた。そしてどんな手段を使ったのか、つぶさに説明を受けてしまった。


航太はドン引きした。

そして次の瞬間には冷酷な鬼となった。


航太は、金色夜叉の一場面のごとく、泣いてすがる宰を無視しながら淡々とゴミ処理を行い、その後三ヶ月ほど三人のアルファには冷たく当たったのだった。


ついでに参謀役を務めた風間にも苦情を、と呼び出したところで、航太は面食らうこととなった。風間の左手の薬指に、真新しい指輪が輝いていたからだ。


「か、風間……」

「ん?」

「風間は、風間じゃなくなったの……?」

「いや、風間のままだけど」

「えっ」

「婿入りさせたから」


聞けば風間は、つがいである吉川さんの連載が二巻発売を決めたのと同時に、「これはいけるな」と結婚を決めたらしい。そして仕事帰りに結婚指輪を即決購入し、婚姻届とともに吉川さんに叩きつけたという。


「二巻発売祝いだって言ったら、泣いて喜んでた」

「……なんか、すごいね」

「お前らが展開遅すぎるんだよ。早くつがえ。大人しく狩野田航太になれ」

「え、でも宰、まだ研修医だし」

「知らねぇよ。あ、そうだ。あのボロチャリ溶かして指輪にしたらいいんじゃねぇの。節約できるじゃん。ウケる」


宰が聞いたら絶対泣く。

そう思いながらも、航太は親友を祝福した。

よかったね、おめでとう。風間のことだから「おう」と得意げに笑うのかと思ったけれど、親友は珍しく本気で照れていた。だから航太も、諸々の文句を言うのをすっかり忘れてしまった。



そんなこんなで、宰と航太は安寧の日々を過ごしていた。出かける約束をしていた土曜日、宰は約束の時刻ぴったりに航太の部屋を訪ねてきた。嬉しそうな微笑みを向けられながら、マフラーでぐるぐる巻きにされる。

うなじを晒さないよう、念入りに。

航太は毎回、それがこそばゆかった。


——ここは、僕が噛みたい。


以前喧嘩して仲直りしたとき、真剣な声で囁かれたことを思い出す。今日もうっかり脳内で思い返してしまって、航太はマフラーに顎を埋めた。「あぁっ、それかわいい!」とはしゃぐ恋人の声はもちろん聞き流す。


「航ちゃん」

「ん」


宰から手を差し伸べられたら、握る。それも当たり前になってしまった。指と指を絡めた繋ぎ方をするのも、いつのまにか慣れた。はじめのうちは手汗を気にしてたっけ、と航太はぼんやりと思い出す。寒いから仕方なく手を繋ぐんだという言い訳は、いつからしなくなったのだろう。


以前工藤に会ったとき「お前らってさりげなく手ぇ繋ぐよな……」と指摘されたときは、羞恥のあまり顔から火が出そうになった。宰が「航ちゃんは恋人繋ぎが好きなんだ」と追い討ちをかけるものだから、余計に。


それでも、手を差し出されたら握ってしまう。習慣とは恐ろしい。


五周年記念と言いつつ、いつもと変わらずふたりで街をぶらぶらと歩いた。十一月に入ってからぐっと気温は下がり、街行く人たちも皆肩をすくめている。

足元では乾いた木の葉が通り過ぎていく。どこに行くわけでもなく、ふたりはあれこれ他愛もない話をした。宰が妙な発言をして、航太が呆れる。それを飽きることなくくり返す。


宰の方が脚が長いけれど、歩調は決して乱れない。その理由に、航太はまたこそばゆい気分になる。時折肩が触れるたび、宰の甘い香りが漂った。もう嗅ぎ慣れて、飽きてもいいはずなのに、まだこの匂いを心地良いと感じる。すれ違う人を避けるふりをして、航太はわざと宰の肩に身体を寄せた。


「風間くんは、式、挙げないんだって?」

「うん。金がもったいないって」

「さすが風間くん! 倹約家だ」

「結婚祝いもいらないから単行本百冊買えって言われた」

「なるほど! 分かった」

「いや、買わなくていいって」


宰なら本気で買いそう、と笑う途端、なぜかじっと見つめられた。熱のこもった視線に、航太は戸惑う。


「なに」

「航ちゃんが笑ったから」

「は?」

「やっぱりかわいいなと思って」

「……なに言ってんの」


街中でそんなことを真顔で言うな。航太は思い切り宰の背中を叩いてやった。恥ずかしくて顔を逸らしたけれど、視線は付いてくる。顔が熱くて死にそうだ。

反射的に周囲を見渡すが、父も兄もいなかったのでほっと胸を撫で下ろした。こんな情けない顔を、身内に見られたらたまらない。少し汗ばんだ手を、航太はやんわりと握り直す。


結局、夕食はよく行く定食屋で取った。一週間ほど前から宰はそわそわしていたけれど、「また高いホテルとか取ったら怒るから」と釘をさしておいたから、妙な行動は起こさなかった。


宰は金の使いどころがおかしい。

航太をプリントアウトした数多の密造グッズの制作費を聞いたときは、卒倒しかけた。このまま放っておいたら破産する。そこで航太がまた叱ると、宰は一応は反省する姿勢は見せた。というか、さめざめと泣いていた。


しかし宰のことだ。

また航太の目を盗んで何かを作るに違いない。その点に関しては、航太は宰を信用していなかった。


「航ちゃん!」

「ん?」

「ここはひとつ、夜景でもどうかな!」

「……いいけど」


そろそろ帰ろうかという時間に差し掛かったとき、突然宰がそんなことを言い出した。宰の視線の先には、期間限定の展望台のポスターがあった。


めちゃくちゃベタなやつだ。

そう思いつつも、航太は手を引かれるがまま付いていく。ベタかつロマンチック好きの宰の顔が、生き生きとしていることが嬉しかった。


エレベーターを上がった先の展望台は、土曜日にしてはずいぶん空いていて、人もまばらだった。今日の気温が一段と低いからかもしれない。


「航ちゃん」


宰に促されて、手すりの方へ近寄り、並んで夜景を眺める。眼下でちかちかと光がまたたくのを見て、航太は「そういえばあの高級ホテルでも夜景見せられたな」とぼんやり思い出していた。


こっそり宰の横顔に目を遣ると、寒さでわずかに赤くなった頬が緩んでいた。やっぱりこいつはベタなやつが好きなんだ。航太もつられてにやける。


吐く息は白く、寒さは肌を刺す。宰が繋いだままの手をコートに入れた。こんなさり気ない仕草も、すっかり板に付いてしまった。


「……宰」


内側から押し出されるように、航太は宰を呼んだ。端正な顔立ちがこちらを見る。黙ってさえいれば、普通にかっこいいのに。残念イケメン、という単語が頭に浮かぶ。


今日、街中で店を回ったとき、宰の視線がペアリングに向かっているのを見た。 風間の薬指が脳裏を過って、けれど航太はそれに気付かないふりをした。宰が不思議そうにまばたきをする。


葉竹家のアルファたちには、交際を認めてもらった。それはいい。そこまではよかった。


しかし「先ズル」の相良先生の魂を宿す父と宰は、航太の知らぬ間に意気投合し、妙な誓いを立てていた。そしてそれは、明彦が航太たちの交際を認める条件でもあった。


——結婚するまで、つがいにはならないこと。


なぜそうなる。おかしいだろ。

その報告を受けた航太は頭を抱えた。なぜ、と問えば「相良先生の教え」がどうとかいう話が延々と出てきてしまう。二次元から離れてほしい、と後から航太が訴えても無駄だった。


——航ちゃん、男に二言はない。


なんともむなしい言葉だった。

航太は抵抗をやめた。


しかし、と航太は思う。大事な確認が抜けている。それを確かめるため、航太は口を開いた。


「……なんかさ」

「うん?」

「気付いたら、結婚したあとつがいになるとか、そういう話になってるけど」

「うん、そうだね!」

「結婚とか」

「ん?」

「なんか、そういう前提になってるけど」

「…………」


航太の言わんとするところが分かったのだろう、宰は口をつぐんだ。みるみるうちに、寒さが原因ではない赤みが宰の顔に広がっていく。当然のごとく話が進みすぎて、今の今までその事実に気づかなかったらしい。


航太はすかさず追い討ちをかけた。


「そういう予定でいいの?」

「え、あ……」

「どっち」

「……はい、そういう予定で、前向きに考えておりました」

「ふうん」


分かった、と呟いて、航太は夜景に視線を向け、マフラーに顔を埋めた。宰はまだこちらを見ている。


自分で言っておいて、恥ずかしい。このまま顔を全部埋めたい、と思ったところで、今度は宰から「航ちゃん」と呼ばれた。


宰の方を見て「なに」と返そうとしたけれど、できなかった。


唇に、冷えた柔らかさが重なる。触れ合った部分だけが、じんわりと温まる気がした。下唇をやさしく吸われて、何やってんだ、と突き飛ばす前に、宰の顔が離れていった。


自ら仕掛けてきたくせに、なぜか宰も驚いた顔をしていた。航太は羞恥やら怒りやらで、わなわなと震える。


「お、おま、おまえ、人前、で」

「ついうっかり」

「うっかりじゃない!」


航太はすかさず手をほどくと、拳を作って宰の肩をぶん殴った。へなちょこの打撃を受けて宰はわずかによろめいたが、次の瞬間には大人びた微笑みを浮かべてみせる。


「なに笑ってんの」

「銀河一かわいいな、と……」

「…………」


うっとりと言われて、航太は力が抜けた。

そんな航太の心中を、空気の読む能力を有していないスーパーアルファが察してくれるはずもない。


「航ちゃん!」

「はいはい」


またもや手を掴まれて、航太は適当に返事をした。それでも宰は目をきらきらとさせている。


「そういう予定だけど、プロポーズはロマンチックな感じで、ちゃんとやるからね!」

「……いいよ別に」

「大丈夫、僕に任せて! 今から計画を練っておくね!」

「いらないし、声でかいし……」


やっぱりおれは選択を誤ったのかもしれない。内心そうぼやきながらも、航太は自分の気持ちがもはやよそに移ることがないことを知っていた。


こんなバカ、ほかの誰かが引き取ってくれるはずない。口元を少し緩めて、航太が「だからいいって」と笑いかけようとした、そのときだった。


「来年の四月には、一旦東京を離れることになるけど」

「ん?」

「それまでは、毎日航ちゃんと過ごして、そして愛を」

「ちょっと待って」


朗々と語り出した宰を遮り、航太は手を離した。


一旦東京を離れる、とは。

航太の心臓はいやな音を立て始めていた。

聞き間違い……いや、そんなことはなかった。

確かに今、そう言った。


意味が分からず宰の顔を見つめると、ゆるい微笑みで返される。


「研修医の初期研修は二年で終わりだから、残り三年の後期研修は、大阪に戻るんだ」

「もどる……?」

「そう」

「大阪に?」

「うん」


航太は唖然とした。

そんなこと、全然聞いてない。

そもそも研修医のシステム自体、説明されてもよく分からなかったから受け流していたのだが、たぶん具体的に「大阪に戻る」なんて話は耳にしていなかったはずだ。


「……その、後期研修って、東京じゃできないわけ?」

「できなくはないけど、原則として、あっちの附属病院でやることになってるんだ」


初期研修を東京にしちゃったから、尚更。


宰は明るくそう続けた。

なぜ、そんなに明るいのか。

航太は混乱したまま尋ねる。


「え、え。じゃあ、東京にいるのって」


宰はきょとんとした表情を浮かべたあと、一瞬視線をさまよわせ、爽やかに言い放った。



「あと、三ヶ月ちょっとだね!」

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