第36話 【4年4ヶ月後】アイディアマン
葉竹航太は苦悩していた。
社会人になってからすでに三年目となり、後輩もでき、仕事も覚えた。そこそこのスキルアップも実感し、課内の人間関係も悪くない。航太は一般的に見れば、良い社会人ライフを送っていた。
ただ、彼のプライベートはめちゃくちゃだった。原因は彼を取り巻くアルファたちだ。
「はあ……」
明かりを半分落とした事務室内で、航太はひとり、深いため息を吐く。
ここ最近、いまいち仕事に集中できていない。今日も初歩的かつ致命的なミスをしてしまったから、それを挽回するため、やむなく残業となっている。
スマホに浮かぶ「終わったら迎えに行くよ!(^^)v」という能天気なメッセージを一瞥して、航太は再びため息をついた。
——お前はもう少し悩め。
心のなかで悪態をつく。
「葉竹、まだがんばる?」
「……あと少しなんです、あと少し……」
「それ、さっきも言ってたな」
そう笑いながら、神田が隣の空いたデスクに腰を下ろす。「差し入れ」と言われて缶コーヒーを渡され、航太はそれを恭しく受け取った。相変わらず面倒見がいい。
「最近気が抜けてんなぁ」
「……すみません」
「俺にはダメージないから別にいいけど」
神田は軽く言うと、頬杖をついて航太を見つめる。細められた目に、気遣うような色が浮かんでいる気がして、航太はキーボードを叩く手を止めた。
少し休憩した方がいいかもしれない。そう思い、「いただきます」と軽く会釈をしてコーヒーを手に取り、口をつける。神田はその様子に、にっこりと笑ってみせた。
「それで、原因はプライベート?」
「……まあ、そうですね」
「なにかと葉竹を困らせるアルファだな」
「…………」
恋人が原因だなんて言ってません、と返せたらどれほど良かったか。航太は空いた手で顔を覆うと、横目でちらりと神田を見る。
話なら聞くけど。頼りがいのある先輩社員の顔にはそう書いてある。
「会社でこういう話するの、自分でもどうかと思うんですけど」
「時間外だから何話しても自由だろ」
「…………」
航太は少しだけ考えてから、弱々しく呟いた。
「ちょっと、家族と揉めてまして……」
◆◆◆
明彦と陽介が押し掛けてきた、翌朝のこと。
航太が出勤のために部屋を出ようとドアを開けると、そこには青ざめた二人が立ち尽くしていた。
「うわっ!? な、なに……!?」
「航太……」
「航ちゃんんんん!!」
「え、え!? なに!?どうしたの!?」
明彦はその場に座り込み、航太の脚にすがりついておいおいと泣き出した。慌てる航太に、一晩ですっかりやつれた陽介が「航太」と声を掛ける。
「お前、あいつに何か弱味でも握られてるのか……?」
「え?」
「そうじゃなきゃあり得ないだろ……。オメガの匂いを嗅いだだけで押し掛けてくるような奴と、付き合うだなんて……」
「え……!?!?」
航太は動揺した。
なぜそれを知ってるんだ。
絶対に知られたくなかった出来事を。
しかしどう考えても、情報の発信源はひとりしかいなかった。固まった航太の足元で、明彦が咽び泣く。
「ウッ、航ちゃん! パパが悪かった! こんな、こんな辛い目にあっていたなんて……!!」
「と、父さん……俺仕事行くから鼻水つけないで……」
「もしかして、み、みだらな写真を撮られてるのか!? おへそのチラ見せ画像とか……それで脅されてるんだろう!?」
「そんなんじゃないんだって……」
「よしわかった! パパに任せなさい! あんなケダモノ、すぐに豚箱にぶち込んでやるからね!」
「…………」
明彦と陽介は恐慌状態に陥っていた。
航太が四年以上かけてじわじわと慣らされてきた
記憶力抜群の宰は、航太との出会いから今までの
「別れろ、航太。あいつは正気じゃない」
「航ちゃん! こんなところに住んでたらダメだ! 引っ越そう!」
「そうだよ、俺が新しい部屋探してやるから」
「こ、このままだと、航ちゃんの、純潔が……!」
ふたりは必死に詰め寄ってきた。
徹夜で宰と航太のラブストーリーを語られたふたりの目は、血走っている。
本気で心配されているのは、航太も分かった。航太も逆の立場だったら絶対に同じことを言う。ただ、別れろと言われると、それは。
「……別れない」
「えっ」
「は?」
「別れないし、引っ越さない」
明彦と陽介は絶句した。蝶よ花よと大切に育ててきた愛し子が、今まさに道を踏み外し、茨の道へ進まんとしている。彼らは絶望し、階下に住む狂気のアルファへ激しい怒りを燃やした。
「おれももう、大人だし」
「航太」
「こうちゃ……」
「自分の相手くらい、自分で選ぶよ」
「…………」
「……こう、ちゃ……」
「宰はバカだけど、良い奴だよ」
航太はできるだけ真剣に、自分の想いを伝えたつもりだった。そしてその真剣さは、ふたりのアルファにしっかりと伝わった。
伝わったからこそ、事態は悪化した。
ふたりは、宰と航太を見張るようになったのである。
◆◆◆
——恋人との交際を反対され、反発したら家族からの監視が強くなった。
航太は詳細を伏せ、神田にそれだけを説明した。神田は怪訝そうに眉をひそめた後、小首を傾げて尋ねる。
「監視? 家族が?」
「監視っていうか……うん、監視ですね」
「はあ、家族がねぇ」
航太の決意は堅いと判断した明彦と陽介は、愛し子を守るべく交代制で姿を見せるようになった。
特に宰とふたりでいるとき、どこからともなく葉竹家の男たちは現れる。
宰と待ち合わせをして帰れば、電柱の陰から明彦がこちらをじっと見つめている。宰の部屋へ行こうとすれば、図ったように陽介が訪ねてくる。航太の記憶では、父と兄はさほど仲が良くなかったという印象だったが、ふたりのチームワークは抜群だった。
すべては航太を見守るため。
宰という脅威から航太を引き離すため。
そして毎日のように、スマホには「あいつから離れろ」「正気に戻れ」というメッセージが送られてくる。航太の精神はすり減っていった。
一番肝が冷えたのは、宰との交際一周年記念日だ。
せっかくだから、と思いつき、航太は宰とふたりで焼肉屋へ行った。少し奮発して高級な店に入り、ふたりでテーブル席に着いたところまでは良かった。そこで航太は、隣のテーブルから視線を感じた。そして何の気なしに、首を横に向けた。
そこに、明彦と陽介が座っていた。
じゅうじゅうと上ハラミを焼きながら、じっと宰と航太を見つめていたのである。
航太はその場で悲鳴をあげ、宰は笑顔で「おや、奇遇ですね! こんばんは!」と挨拶をしてみせた。
葉竹家のアルファたちは宰の挨拶をガン無視し、終始刺すような視線をこちらへ向けながら、黙々と肉を喰らっていた。
地獄のような記念日となった。
うっかりそのときの恐怖を思い出してしまった航太は、頭を抱える。家族を疑いたくはないが、盗聴器やGPSをつけられているのではないかという考えが頭をよぎってしまう。それほどまでに、明彦と陽介の出現率は高かった。
「なんか、おれの周りには、癖の強いアルファが集まってるような気がして……」
「ふうん」
神田が楽しそうに鼻を鳴らす。
一瞬目があって、薄い唇が弧を描いた。
「俺は安全だよ」
「……そうですね」
なぜ自分の周囲だけこんなにも濃いのか。
そしてなぜ話が通じにくい奴らばかりなのか。
父と兄の圧に引いているのは事実だが、ふたりを切り捨てるわけにもいかない。
航太から見れば大事な家族だ。
ちょっと、いや、かなり厄介だけれど。
苦悩して顔をしかめる航太に、神田はからかうような声色で尋ねた。
「そんなに反対される恋人なのに、葉竹は好きなんだ?」
「え」
「どこが好き?」
「なんですか、そのかゆい質問……」
「いいじゃん。教えてよ」
完全にからかわれている。
面白くない気持ちもあったが、神田がわざわざ残業に付き合ってくれていることを考えれば、無視もできなかった。
どこが、好き。どこが良いのか。
航太は宰のことを思い浮かべ、真剣に考えた。明彦や陽介だけではなく、風間や工藤からも何度も聞かれた、その問い。
自分は宰のどこが好きなのだろうか。
今までで一番真面目に考えて、航太は神田を見据え、答えた。
「顔、ですかね……」
「あとは?」
「あとは……」
航太は顎に手をやり、再び考え込んだ。
宰の良いところ。空気が読めず、常識もなく、叱ってもまったく響かないあの男。航太はしばらく黙った後、答えた。
「顔ですかね」
「…………」
神田の顔から一瞬にして薄笑いが消えた。
代わりに、心底同情するような視線を向けられる。
「……なんか、葉竹、本当に大丈夫か?」
「一応大丈夫です」
顔は良い。そこは間違いない。それ以外に胸を張っておすすめできるところが、特に思い浮かばなかった。
迷いのない声で言い切った航太に、神田は小さく笑う。
「でもあれだな」
「なんですか」
もう少しがんばって答えたほうが良かったのだろうか、と航太が首をひねらせる。
あとはあれだ。勉強はできる。医者の卵だし。背も高い。それは長所かもしれない。
神田がくすくすと微笑みながら言う。
「どこが好きか分かんないけど好き、ってすごいな」
「……馬鹿にしてます?」
「いや」
航太の顔を覗き込みながら、神田は続けた。
「本物って気がするから」
「…………」
「周りからは崩しようがない感じ」
「はあ、そうですか」
「それを崩すのが好き、っていう悪趣味な人間もいるかもしれないけど」
航太はその言葉に、ゆっくりと瞬きをした。
人好きのする整った笑顔が、目の前にある。
頼りになる、面倒見の良い先輩。もう三年目の付き合いになるが、航太は時折、神田の言葉の真意をいまいち捉えきれないことがあった。
「神田さんって」
「ん?」
「思わせぶりなこと言うの、好きですよね」
「……失礼だな、お前」
軽く笑って返した後、航太はまた残業に取り掛かった。
仕事が終わるのを、恋人が首を長くして待っている。
◆◆◆
一方の宰は、航太の会社近くのカフェで風間と落ち合っていた。
「ほら、今回の報酬」
隣り合うカウンターに座り、風間はバッグから一枚の色紙を取り出し、宰の前に置いた。
宰はそれをおそるおそる手に取ると、感激し切った声をあげる。
「よ、吉川先生のサイン……!」
「ちゃんとつっくんって入れといたぞ」
「ありがとう風間くん! 家宝にするよ!」
「当たり前だろ。専用のケースを買え」
宰は、風間のつがいである少女漫画家吉川の熱烈なファンとなっていた。風間の指示に従い、空いた時間を見つけては、こまめにファンレターを送っている。
「連載は好調だ。今後もしっかりやれよ」
「分かったよ風間くん!」
「同一人物だとバレないようにな。筆跡と便箋は変えろ。あと消印から足がつかねぇように投函する場所も気をつけろ」
「もちろん、抜かりないよ」
自身ありげに親指を立てた宰に「キモ」と返した後、風間は腕を組み、呆れたように言った。
「航太から聞いたけど、お前、あいつの家族怒らせたんだって?」
「怒らせたわけじゃない。行き違いがあったんだ」
「まあ俺もあいつの家族なら反対するな。お前と親戚になるの死んでも嫌だし」
「ははは、風間くんはジョークがきついな!」
「そういうとこだよ」
宰が手を叩いて笑ったのを無視して、風間はオメガの友人を思い出し、心から同情していた。先月会ったときに、航太から事の経緯はあらかた聞いている。
宰は交際を反対されているという事実は理解しているものの、「いつか分かってくれるさ!」と言って、あまり重く受け止めていないということも。
航太の死んだ魚のような目を思い出し、風間はため息を吐いた。
「航太、胃に穴開くんじゃねぇの」
「え!? 航ちゃん、何か胃に不調を抱えて…!?」
「だからお前のせいだよ」
こんなアホな奴が恋人だったら気が休まらないだろう。そう思いつつも、風間はふたりが置かれた状況を面白がっていた。宰は風間の胸のうちも知らず、引き締めた表情で訥々と話す。
「僕が本気だとお二人に分かってもらうために、航ちゃんの好きなところを百個書いた手紙を二人に渡そうと思ったんだが……」
「…………」
「百じゃ全然足りなかったんだ」
「キッショ」
風間は本気で引いていた。
どこの誰がそんな気味のわるいものを受け取るものか。
航太に再び同情しかけたところで、風間はあることを思いついた。おそらく航太を愛する者だけに通用する、交際を認めさせるためのとっておきの方法。きれいな形の唇がいびつに歪んだ。
「航太の親父と兄貴は、あいつのこと溺愛してるんだよな?」
「そうだ。僕も気持ちは分かる。なんたって航ちゃんは銀河一」
「そういうのはいらねぇ」
ぴしゃりと宰の戯言を制して、風間は妖しく目を光らせた。
「俺に良いアイディアがある」
「え!」
「航太のためなら教えてやってもいい」
「お願いします!」
そして風間は、ある考えを宰に伝えた。
宰は初めのうちこそ姿勢良く聞いていたものの、徐々に表情を暗くする。
彼の清らかなこゝろは、罪悪感でじくじくと疼き始めていた。
「そ、それはさすがに……卑怯じゃないか……?」
「うるせぇな。自分のプライドと航太、どっちが大事なんだよ」
「航ちゃんです!」
「そうだろ」
それなら決まりだ、と宰の肩を強く叩く。
宰はもごもごと不満を口にしたが、「しっかりやれよ」と凄まれると素直に頷いた。
曇った宰の表情を楽しそうに眺め、風間はそっと囁く。
「航太には何も言うなよ」
美しいオメガは、そのときばかりは悪人の顔をしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます