第35話 【4年1ヶ月後】原チャで来た!
葉竹陽介は隠れブラコンであった。
まだ幼いころ、生まれてほやほやの天使のような弟——航太をひと目見た瞬間から、彼の強烈なブラザーコンプレックスは発動した。アルファとして、オメガの弟を庇護しなければならない。陽介は表面上は飄々とした兄を演じつつ、心のなかでは弟への熱い愛情を燃やしていた。
本音を言えば、思う存分航太を可愛がりたい気持ちもあった。しかし、極端な愛情を向けてうざがられている父の姿に学び、陽介はあくまでも「ちょっと意地悪だけどいざとなったら頼りになるお兄ちゃん」の座に甘んじていたのである。
今年の夏休み、陽介は愛する弟から衝撃の事実を告げられた。
——アルファの恋人ができた。
膝から崩れ落ちそうなショックだった。実際に膝はガクガクと震えていたが、陽介は耐えた。そして「ちょっと意地悪なお兄ちゃん」モードを起動させつつ、航太をからかってみることで、動揺を隠す。平静を装って弟のうなじを確認し、噛み跡がないことに彼は心底安堵した。
まだ間に合う。
陽介は、弟の恋路を全力で邪魔しようと心に決めた。
やわらかな綿菓子のごとく繊細な航太を、どこの馬の骨とも知らぬアルファに渡してたまるものか。
航太に恋人なんてまだ早い。
まだ孵りたての雛に等しい子だというのに。
彼の胸は、太陽のフレアのごとくメラメラに燃えた。
そしてつい数日前、恋人に会ってやろうと航太に連絡を取ってみたところ、「今は
思い返せば、航太はアルファの恋人がいると言っていたにも関わらず、随分とうぶな反応を見せていた。つがっていないところからも見ると、おそらく航太の恋人が極度のヘタレであることは予想がついた。
——
実際に恋人が航太の身体を慰めているとしたら、それはそれで陽介は怒り狂うところだったのだが、とにかく彼は急いで航太の部屋を訪ねた。幸い陽介にはつがいがいるため、航太の香りには反応しない。
いつもは明るい航太が、ひどく消沈しているのを認めて、陽介の心は悲しみでしくしくと痛んだ。
「いいからお前は寝とけ。薬は飲んだんだろ」
「……うん、ごめん。ありがと」
「暇だからいいけど。ていうか、恋人は?」
ずばり尋ねると、ベッドに横たわっていた航太は一瞬息を詰め、それから頭まで布団を被った。
「……帰ってもらった」
「は?」
「おれ、苛々して八つ当たりしちゃって、それで……なんかひどいこと言いそうだから、帰ってもらった」
「…………」
泣きそうな声色で呟く航太に、陽介の心は打ち震えた。
——俺の弟は、なんて健気でいい子なんだ……。
陽介は、航太が見ていないのを良いことにひっそりと涙した。そしてまだ見ぬ航太の恋人への殺意をメラメラと燃やした。彼は「航太を泣かす奴は絶対に許さない」マンであった。
航太の部屋にいる間、陽介はここぞとばかりに甲斐甲斐しく弟の世話をした。航太は少し不審がっていたが、絶えず熱を身に宿しているせいでうまく頭が回らないようだった。
そして階段を降りた先で、妙なアルファに出会ったのだ。
いかにもお坊ちゃん育ちのその男が、ぽかんと口を開けてこちらを見ていた。陽介は即座に理解した。これがきっと、航太の「恋人」だ。その証拠に、男は無意識ながらも、陽介に対してあからさまに威嚇するような匂いを発していた。
「こんにちは」
挑発的に言ってやると、男はますます間抜けな顔をした。
恋人を放置していた馬鹿なアルファ。
きっと何か勘違いをしているであろうその男に、陽介はすれ違いざま嘲笑を浴びせてやった。
そして陽介は立ち去り——と見せかけ、男の様子を遠くから窺っていた。
男はしばらくその場で立ち尽くしていたが、突然「ああああああ!!!!」と奇声を発すると、駐輪場に停まっていたママチャリにまたがり、とんでもない速さで走り出した。
陽介はその動揺っぷりにひとりほくそ笑んだが、同時にある可能性に思い至り、戦慄した。
男は、アパートの駐輪場に停めてあったチャリに乗っていた。それはつまり——あのアホみたいなアルファが、航太と同じアパートに住んでいる、ということだ。
航太が、恋人と、ひとつ屋根の下で。
途端に陽介は青ざめた。
陽介はふらふらと横浜の自室に戻り「いやだあああ!!!!」と喚いたが、つがいの恋人からは「早めに弟離れしなよ」と冷たくあしらわれただけだった。
そして今日、陽介は再び航太のもとへ訪れた。
あの男について問い詰めねばならない。
奇声を上げてママチャリで爆走する男が、まともな人間であるはずがない。
航太の部屋のドアはわずかに開いていた。
嫌な予感がして中を覗くと——そこには、純真無垢な弟を押し倒す、あのアルファの姿があった。
陽介は一瞬にして頭に血が上った。
去勢してやる。この腐れ野獣め。
歯を剥き出しに乗り込む寸前で、陽介ははたと気が付いた。
このまま感情的に乗り込んで、長年築き上げてきた「頼れるお兄ちゃん」像を崩すのはまずい。航太にうざがられたら自分は死んでしまう。
助力が必要だ。力があって、なかなか引き下がらなくて、航太を愛しつつも、邪険にされることに慣れている人間。ふたりに声をかけながら、陽介はスマホを手に取った。
「あー、もしもし。父さん?」
こうして彼は、最強の仲間を召喚することに成功したのである。
◆◆◆
「し、し信じられない……ッ!! 婚約前に、親の断りもなく、どど同棲、するなど……!!」
「父さん、同じアパートなだけで、同棲はしてなくて」
「同じ建物のなかにいたら!! それは!! 同棲です!!」
「ええ……」
話のまるで通じない父に、航太は困り果てていた。
航太の横では、なぜかキリッと表情を引き締めた宰が正座している。明らかに事の重大さを理解していない顔だった。
陽介からの電話からきっちり三時間後、航太の父——
何時までかかるか分からん、と愛車の原チャ——明彦は「Mrs.ラヴィ」と呼んでいる——を飛ばし、愛する息子のもとへ駆けつけたのである。
到着後、「航太、部屋で押し倒されてたよ」という陽介の報告を重ねて受け、ただでさえ血管の切れそうな明彦だったが、それに加えて宰が「よろしかったら僕の部屋でお茶でもいかがですか? この斜め下の部屋なんです」と爆弾を落としたものだから、事態は最悪になった。
今は宰の部屋で、航太と宰、明彦と陽介が膝を突き合わせて座っている。息荒く怒り狂う明彦と、にやにやと楽しそうな陽介。早くこの場を収めて部屋に戻りたい、と航太は肩を落とした。
しかし航太の望みとは裏腹に、スーパーアルファは朗々と口を開く。
「ところで、お父さん」
「お父さんと呼ぶな!!」
「ご挨拶が遅れました。わたくし、狩野田宰と申します。航太さんとお付き合いさせていただいております」
「つ、宰……それ今じゃない方が……」
「狩人の狩に野原の野、田んぼの田に、宰相の宰。これで、狩野田宰です!」
「つかさ……」
「ちなみに、研修医です」
晴れやかに言い切った宰とは対照的に、明彦の顔は見る見る赤く染まった。
逃げたい。
このふたりは相性が悪すぎる。
航太は強くそう思ったが、さすがに「おれ、部屋に戻ってるね〜」とは言い出せない雰囲気だった。楽しそうにしている兄を睨みつけるが、意味深に笑みを浮かべられて終わる。
明彦が地を這うような声を出した。
「君は、何を考えているんだ……。航ちゃんを、お、押し倒すだなんて……なんて破廉恥な……」
「申し訳ありません。ふふ、ちょっと良い雰囲気になってしまいまして……」
「宰、ちょっと黙ってて」
照れながら頭を掻く恋人の服の袖を、航太は半泣きで引いた。まじでやめてほしい、と願いを込めて目を見つめてみたが、「航ちゃん、僕も同じ気持ちだよ……」と見当違いな答えを返される。航太は激しい諦念に襲われた。
案の定、明彦はますます顔を赤くしていく。
「良い雰囲気、だと……?」
「はい。僕たちの愛はまたひとつ大きくなり」
「あのままヤるつもりだったんでしょ」
切り込んできたのは陽介だった。明彦は泡でも吹きそうな表情を浮かべたが、それに気付くはずもない宰は、長いまつ毛を伏せて微笑んだ。
「どこまで進むつもりだったのかは、今となっては分かりません」
「……宰、まじでいいからそういうの」
「ただ、あのまま行けば、僕たちはキスのその先へ進んでいたでしょう……」
その言葉に、明彦は身を乗り出した。
航太は思わず「最悪」と漏らし、額を押さえる。
「キ、キッスのその先だと!?!?」
「はい、お父さん」
「君たちは……っ、キキキッスをもう済ませているというのか……!?!?」
悲鳴にも近い問いに、宰はにかみながら「恐縮です」と答え、大きく頷いた。
明彦の喉から
航太の心は死にかけていた。
なぜ家族に恋人との進度を報告しなければならないのか。
航太が虚空を見つめていると、陽介が口を開き、歌うように言った。
「航太はもう部屋に戻っていいよ」
「えっ」
「アルファ同士、腹割って話したいからさぁ」
「いや、でも……」
横目で宰をちらりと見ると「航ちゃんは明日も仕事だからね!」と微笑みかけられる。航太には、この男をひとりで残しておく勇気はなかったが、重ねて父が「航ちゃんと呼ぶな!!」と怒るものだからさらに途方に暮れた。
「航太ぁ、ちょっと話すだけだからさ」
「ほら、航ちゃ……航太さん! お兄さんもああやっておっしゃってるし」
「航ちゃんは戻ってもよろしい」
「…………」
三人のアルファにせっつかれ、航太は力なくうなだれた。絶対に絶対に、ろくなことにならない、と航太は確信していた。しかし航太がいたところで事態が改善するわけでもない。宰の暴走を止められる自信が、彼にはなかった。
時計を見ればもう日付は変わっていた。短時間でたくさんの出来事が起こり、事実、航太は疲れ果てていた。そして航太は、アルファたちの圧力に屈した。
「……じゃあ、戻るけど」
「うん! おやすみ!」
「……宰、まじで、本当に頼むからね。一般的な常識の範囲で話してくれれば、それでいいから。ごく一般的なやつね」
「もちろんだよ、航ちゃ……おっと、航太さん」
「本当の本当だからね、これフリとかじゃないから」
「ははは、航太さんは心配性だなぁ」
——お前が何言い出すか分からないからだよ。
その言葉を飲み込んで、航太は駄目押しにじっと宰の瞳を見つめる。
余計なことは言うな。
そう念じたつもりだった。
すると宰は何を勘違いしたのか、ウインクで返してくる。航太は絶望感と無力感を味わった。しかしここは、宰を信じるしかない。
「さあ、航ちゃんは寝なさい」
「……分かったよ」
「おやすみ航太」
「……おやすみ」
父と兄の追撃に負けて、航太は立ち上がった。またもや無意味に宰がウインクを投げかけてくる。航太はそれを死んだ魚の目で一瞥し「あんまりいじめないでね」と肉親ふたりに言い残し、部屋を出て行った。
しん、と冷たい沈黙が下りる。
「……狩野田くん、と言ったな」
「はい! 狩野田宰です! 狩人の狩に野原の野、田んぼの」
「それはさっき聞いたからもういい!!」
アルファしかいない部屋に、明彦の怒号が飛んだ。ぴりぴりと緊迫した空気が張り詰めるなか、宰は「失敬」と照れ笑いをする。
スーパーアルファはやはり空気が読めなかった。それがふたりのアルファをさらに苛立たせた。
明彦は怒りのあまり言葉が出ないようだった。それを引き取り、陽介が鷹揚に腕を組みながら「それで、カノダくん」と宰に声をかける。
「ふたりがどこで出会ったのか聞きたいなあ」
「僕たちの出会い、ですか?」
「そう。東京と大阪に住んでた君たちが、どうやったら付き合えるのか、ずっと不思議だったんだよねぇ」
「…………」
挑発的な視線が宰を刺す。
宰の頭には、ついさっき航太に言われたばかりの言葉が浮かんでいた。
一般的な常識の範囲で話してくれれば、それでいい。
航太の表情はどこか必死だった。
ふたりの仲を反対されたくない、という気持ちがひしひしと伝わるようだった。
宰は改めて姿勢を正すと、目の前のふたりのアルファを見つめる。
——きっと誠実と真摯の態度が、ふたりの心を掴む。
そう確信して柔らかに微笑むと、宰は凛とした声を響かせ、言った。
「——おふたりは、キャルメリというアプリをご存知ですか?」
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