第33話 【4年1ヶ月後】闇堕ち





狩野田宰は、人に対して負の感情を抱くことがほとんどない男だった。


スーパーアルファの彼の能力は常人を遥かに超越していたし、彼は人からの悪意に鈍感であったため、誰かを憎んだり恨んだりする必要がなかったのである。

しかし宰は、生まれて初めてそのこゝろに悪の華を咲かせることとなった。


嫉妬ジェラシーである。


愛する航太の部屋から出てきた名も知らぬ男に、宰は激しく嫉妬していた。

それは彼がこれまで感じたことがないほどの強い負の感情だった。


発情期ヒート中のオメガの恋人の部屋から、アルファが出てきたという事実。

あの男は笑っていた。嘲笑していた、と言った方が正しいかもしれない。無意識のうちに威嚇の気配を出していた宰の浅はかさに、あの男は勝ち誇った笑みで応えたのだ。宰はそれに気付いた。


航太は男に対して「何日もごめん」と言っていた。そう、「何日も」と。

あの男と、発情期ヒート中の航太が、何日も一緒にいたということだ。宰が20キロのランニングに勤しんでいる間に、あの男と、銀河一かわいい恋人が。

何日も、同じ空間に。


——一体、何を。


そこまで考えたとき、宰の精神は闇に染まった。


「ああああああああ!!!!」


その日が土曜日だったことを良いことに、宰はたまらず戦友アルジャンテの背に飛び乗り、東京の街を駆け巡った。アルジャンテは何も言わない。時として慰めの言葉すら痛みに変わることを、日本製軽快車の彼は知っていた。宰とアルジャンテは一筋の風となった。


宰はひたすらペダルを漕ぎ続けた。

漕いで漕いで、夕陽が沈みかけたころ、力尽きて河川敷にアルジャンテごと倒れ込んだ。


アルジャンテのタイヤからは、数年ぶりに白煙が上っていた。周囲を歩いていた人々は、あまりの勢いに宰たちへと駆け寄る。


「大丈夫ですか!?」

「う、うあ……あ……」

「きゅ、救急車とか……」

「うわああああああああ!!!!」

「ヒッ!」


宰は咆哮した後、再びアルジャンテに跨り駆け出した。宰のこゝろは崩壊寸前だった。頭に浮かぶのは航太の笑顔ばかりだ。


——宰。


いつもそう呼んでくれた柔らかな声。

宰がこの世で一番好きな声だ。


今朝のことは何かの聞き間違いだったのかもしれないとも考えた。しかし、そんなはずはなかった。あの声は間違いなく航太のもので、そして宰が聞いたことのないくらい安心し切ったものだった。


発情期ヒートに入った航太のお色気っぷりを思い出す。かわいさと妖艶さをまとった航太は、宰がこれまで見てきたどんなセクシー女優よりもセクシーであった。


あんな航太に迫られて、断る者がいるだろうか。答えはノーである。発情状態の航太に「しよっか」と誘われた人類は皆屈してしまう。航太はそういった魔力を秘めている。


宰だからこそ耐えられたのだ。

なぜなら彼はスーパーアルファであり——航太のことを、深く愛していたためだ。きちんと段階を踏んで、お互い納得の上で進んでいきたい。宰はそう思っていた。


それなのに、あのいけすかないアルファの男は航太の部屋に数日間も居座ったという。

銀河一かわいい発情期ヒートのオメガと、若いアルファ——それもスーパーアルファではない——が密室に二人きりでいたら。

いくら純粋な宰といえど、その答えは自ずと分かってしまった。


——もしかしたら、航ちゃんのうなじには、もう……。


宰の胸は張り裂ける寸前だった。アンジャンテはなおも無言のまま、その悲しみをサドルで受け止めた。


二人の戦友ともは夜の街を疾走した。

彼らが通った後には涙の粒だけが残り、そのはやさに道行く誰もが戦慄した。


「ちょっと君、止まって」

「……何でしょうか」


街の喧騒を通り抜けた先の住宅地で、宰は制服姿の警官二人に止められた。宰のこゝろはささくれ立ち、普段は敬意を示している彼らにもぶっきらぼうな態度で接した。


「あのね、すごいスピードでチャリで走っている人がいるって通報が来てね」

「……僕はただ、悲しみを振り切っているだけです」

「え? なに?」


宰はアルジャンテに跨ったまま空を見上げた。東京の空は明るくて、星がよく見えない。まるで宰のこゝろを映しているかのようだった。


——悲しみの雲が厚すぎて、大切な星(こうちゃん)が見えなくなりそうだ。


ひとり自嘲する宰を、警官たちは気味悪そうに見つめていた。


「うん、まあね、とりあえずスピード出しすぎるのは危ないから……」

「分からないんですか、お巡りさん」

「ん?」


宰は据わった両眼を光らせて彼らを見た。

もはや彼は生温いスズランなどではなく、触れればたちまち怪我をしてしまう、剥き身のナイフであった。


「僕はね、走らずにはいられないんですよ……!」

「えっ」

「止まってしまったら、僕は、僕はもう……!」

「君、大丈夫か?」


突然頭を抱えぶるぶる震え始めた宰に、警官たちは恐れ慄いていた。

この男からは事件の匂いがする。

警官たちの嗅覚がそう告げていた。


「あ、あいつが……!あいつが、航ちゃんの純潔を……!」

「き、君……」

「うわああああああああ!!!!」

「先輩!応援呼びましょう!」


宰は再び叫び声を上げると、警官たちを振り切りすぐさまアルジャンテを走らせた。

引き留める声は聞こえていたが、もはや彼は正常な判断ができなくなっていた。

その夜、閑静な住宅地に騒がしいサイレンがこだましたが、終ぞ宰の姿を見つけることはできなかったという。





宰がアパートに戻ったときには、冬の頼りない朝日があたりを照らしていた。彼はアルジャンテの手入れを済ませると、航太の住む部屋を一瞬見上げた後、よろよろと自分の部屋へ戻った。


深く眠りたい。

宰はベッドに倒れ込んそう願ったが、なぜか目が冴えて眠れなかった。航太への純粋な想いと、アルファの男への嫉妬がない混ぜになっていた。


彼はスマホを手に取った。航太からは「今忙しい?」とメッセージが届いていたが、宰はそれに返信する勇気がなかった。会話を始めてしまったら、終わりを告げられるのではないか。宰のこゝろを、臆病さが苛んだ。


誰かに相談をしたい。

宰はそう思い、航太と共通の友人に連絡しかけたが、すぐにやめた。航太のいないところで、彼を責めるような話題を出すべきではない。ぼろぼろになりながらも、宰の最優先事項は変わらず航太のままだった。


それならばTwatterを、とも思ったが、宰は手を止めた。航太は宰のTwatterアカウントを知っている。デリケートな話題を持ち出したら、航太が傷付いてしまう。考えた末に、宰はある方法に手を出した。


裏アカウントである。


彼が考えていたよりもずっと簡単に、まっさらなアカウントは手に入った。彼は少しだけ考えて、おそるおそる投稿をした。






◆◆◆







TKS@bottom_of_theWorld666

とても落ち込んでいます。



TKS@bottom_of_theWorld666

恋人の部屋から、見知らぬ男が出てきました。数日間一緒に過ごしたそうです。



TKS@bottom_of_theWorld666

信じたい……疑うなんて間違ってる……



TKS@bottom_of_theWorld666

ちなみに恋人はめちゃくちゃかわいいです(^^)v



TKS@bottom_of_theWorld666

とても辛い



TKS@bottom_of_theWorld666

僕の勘違いじゃないのかな。

そう思い始めています。










いや〜、それはクロでしょ! 真っ黒!


浮気ですね。


元気出して!次行こう!


TKSさんがキープだという可能性は?


残念ながら冬なのに熱い夜過ごしましたね。


若い二人が一緒にいたらやることはひとつ!


あー、ドンマイですね。


かわいいのか……。


私も同じ経験があります。本当にお辛いですよね。時間が解決してくれます。負けないで。


浮気を許すな!


すごい、リアルNTR……。


TKSさんにはもっとふさわしい人がいるよ。


お前の恋人、今俺の隣で寝てるよw






◆◆◆






「…………」


宰は画面の電源を落とすと、静かに布団に入った。彼は本物の絶望を知った。今までの人生がいかに鮮やかだったかを思い、そっと涙をこぼした。


思い返すのは航太のことばかりだ。出会ってから四年。宰の人生は常に航太とともにあった。


楽しかった。

それしかなかった。


数日前に航太と言い争ったことが悔やみきれない。航太は「なぜうなじを噛まないのか」と怒っていた。航太は噛んで欲しかったのだ。恋人だからこそ、宰につがってほしかった。それなのに、宰はそれを拒絶してしまった。自分の不甲斐なさに、宰は呆然としていた。


考えれば考えるほど、自分のこゝろが倦んでいくのを、彼は感じていた。突然泥のような疲労と眠気が襲ってくる。もう彼は起きていられなかった。


再びスマホが光った気がしたが、宰は無理やりまぶたを閉じて、見ないふりをした。










週明けに病院で勤務に就いた宰を見た者たちは、その変わりように驚きを隠せなかった。

宰の頬はやつれ、目はよどみ、高すぎたテンションは常人よりもやや下方に修正されていた。普段は宰のズレた性格に苦労させられていた看護師たちも、彼の鋭い眼差しに戸惑っていた。


昼休み、宰は廊下の突き当たりにあるガラス窓の前で、外を眺めてぼんやりと立ち尽くしていた。彼からは魂が抜けたようだった。


見かねたひとりの看護師が近付くと、宰は胸元からネックレス——ペンダントトップに写真がはめ込まれたもの——を取り出し、小さく切り取られた写真を見つめていた。

憂いを帯びた宰の表情に、看護師の彼女はおそるおそる声をかける。


「狩野田先生……?」

「……ああ、すみません。ぼんやりしてしまって」


そう謝りながらも、宰はまた掌のなかの写真に視線を落とし、寂しげに小さく笑った。


「先生、それは……?」

「ああ、これですか」


宰は肩をすくめると、意味ありげに窓の外に目を遣りながら答えた。


「僕の大事なひと……いや、大事なひと『だった』と言うべきなのかもしれません」

「え……?」

「……失ってしまいました」


宰はペンダントトップごと掌を握り込むと、悔しさに歯噛みしながら続けた。


「気付いたときにはもう手遅れでした。もっとよく話を聞いてあげるべきだった。それなのに、僕は……」

「先生、すみません……私、無神経なことを……!」

「いいんです。すべては僕の責任です」


宰の眦は赤く染まっていた。看護士ははっとしたように口元を覆う。束の間の静けさの後、宰はふっと笑って笑顔を見せた。


「これからは、今まで以上に仕事に打ち込もうと思っています。……それが僕にできる、唯一の償いですから」

「狩野田先生……!」


その後、院内で宰は密かに悲劇のヒーローとして丁重に扱われたが、傷心の彼はその誤解に気付くことなく、黙々と仕事に取り組むこととなった。










しかし宰の悲劇のヒーローごっこも長くは続かなかった。


彼は航太からのメッセージへの返信を数日間怠っていた。明確な別れを告げられることが怖かったからである。


そして当然のことながら、同じアパートに住む航太は、宰の部屋を訪ねた。宰は条件反射でドアを開けたが、航太は中に入ろうとはしなかった。


外は雪がちらついている。

寒さで航太の頬は赤くなっていた。


「航ちゃん」

「……なんで返信くれないの」


仕事帰りの航太は、マフラーを厳重に巻き、じっと宰を見つめる。十月の航太の誕生日に、宰が贈ったマフラーだった。


不安と、ほんの少しの怒りが混じった瞳を向け、航太はため息まじりに告げた。


「話がしたいんだけど」



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