第32話 【4年1ヶ月後】説明責任
神田の言葉は、航太の胸にしこりを残した。
宰が無責任だと言われて腹が立ったが、同時にどこか納得しそうになった自分がいたからだ。正直言って、宰がそこまで航太の関係性を深刻に考えているとは思えない。というより、おそらく宰は現状に満足しているのだ。
同じアパートに住んで、ほぼ毎日顔を合わせて、良い雰囲気になったら手を繋いでキスをする。それだけで宰の幸福度は満タンになっている。
誠実なのが宰の良いところだとは航太も分かっていたが、外野からあれこれ難癖をつけられただけに、気持ちの余裕は無くなっていた。
そして航太は、予定通りに
「航ちゃん! うどんと雑炊、どっちがいい?」
「……雑炊」
「ふふ、そんな気がしたよ」
「……じゃあ聞くなよ」
「答え合わせをしたかったんだ。待っててね!」
「…………」
ベッドで布団に包まりながら、航太は宰がせかせかと動くのを眺めていた。
「病気じゃないから看病は要らない」と言ったにも関わらず、宰は航太の部屋に上がり込んできた。症状を軽くするために抑制剤は飲んでいるものの、発情を迎えた航太にとって宰の存在は毒にしかならなかった。
劣情を煽り立てる甘い香りが、宰が動くたび漂ってくるのだ。航太が思わず息を詰めても、相性の良すぎる香りは容赦なく纏わりついてくる。宰は宣言通り、強靭な精神力でとろけた瞳を向けてくる恋人の魅力を跳ね除けていた。
——この状況、何なの。
航太はずきずきと痛む頭を押さえながら、上体を起こした。全身が火照り、身体の芯が疼いてたまらない。自分がまともな思考をできていないことを、航太はよく分かっていた。
しかし
——おかしい。絶対におかしい。こんな甘ったるい匂いのなか、出汁取ってる場合じゃないだろ。
今まで「宰だから仕方がない」とスルーしてきたが、航太は置かれた状況に怒りを感じ始めていた。航太はベッドから降りると、ふらふらと宰へと近寄る。足の裏で感じる床の固さすら頼りない。
味見をして「tasty……」と悦に入る恋人の腕に手を伸ばし、航太はその袖を引いた。
「ふぁ!?」
「…………」
「こ、航ちゃん、どうしたの?」
不意打ちを食らった宰は、手にしていた小皿を取り落としそうになったが、スーパーアルファの反射神経で押し留めた。
航太は黙り込んだまま、宰を見つめていた。
涙で潤んだ瞳にぐらっと来るものを感じて、宰はすぐさま天を仰いだが、航太はなおも袖を強く引いた。
「ねぇ」
「こ、航ちゃん……『袖を引く』コマンドを使うのはNG……」
「なんで噛まないの」
「へっ」
航太は勢いのままに言った。
「おれのうなじ、なんで噛まないの」
「え、え……」
「説明して」
航太は納得がいかなかった。宰を無責任だとは思っているわけではない。大事に、というか大事にされすぎている実感もある。
けれどこれほど互いの香りに煽られながら、一線を超えようとしない宰に、航太は激しい不満を抱き始めていた。
「こ、航ちゃん……」
「おれとしたいと思わないの」
「ふぉっ!?」
恋人からの突然の猛攻に、宰は完全に腰が引けていた。航ちゃんがまたお色気モードになってしまった……と慌てふためく宰に、航太は咎めるように袖を握り直し、詰め寄った。
「おかしいじゃん。おれたちもう付き合って一年になるのに」
「あと二ヶ月と十九日あるよ!」
「そんな細かいことどうでもいい!!」
「ひぇっ」
必要以上に記憶力の良い恋人に、航太は声を荒げた。自分の大声が余計に頭痛を加速させたが、口から出る言葉は止まらない。
「なんで? 普通さ、付き合ってたらそういう関係になるもんじゃないの?」
「そ、それは……僕らはまだお互いの家族への挨拶も済んでないわけだし」
「うちはいいよ、どうせ反対されてるし」
「えっ!? そうなの!?」
宰は初めて聞く事実に素っ頓狂な声を上げた。そういえば夏休みが終わった後、航太からは「家族に報告はした」とは聞いたが、祝福されたとは聞いていない。
混乱のまま、宰はぼそぼそと答える。
「それに、やっぱり僕としては、つがいになるのは、きちんと、その、け、結婚とか、してから……」
「先ズルにそう書いてるから?」
「え?」
「ああもう!」
煮えきらない態度の宰に、航太は両手で胸ぐらを掴んで怒鳴った。
「おれとあの肩幅しかない男と、どっちが大事なんだよ!」
「肩幅……?」
「相良先生だよ!」
「航ちゃん! 相良先生は肩幅だけの男じゃないよ!」
「肩幅だけだよ! 最後の方なんてコマからはみ出てたじゃないか!」
おれは何を言ってるんだ。なぜ漫画のキャラと、しかもヒーローキャラと張り合ってるんだ。航太の頭のなかで冷静な自分が呆れて囁いていたが、一度火がついた苛立ちを止めることはできなかった。
喉の奥で呻いてから、航太は声を低くして言った。
「宰はいいよね、アルファだから」
「え?」
宰が驚いたように目を見開く。
こんなこと言うべきじゃない。
アルファだから、オメガだからなんて、そんな分け方を宰は一度もしてこなかったのに。
そう思うのに、口は勝手に言葉を吐き出していく。
「
航太の頭のなかはぐらぐらと揺れていた。つがいのいないオメガは、誰かれ構わず相手を誘う。そんな偏見に満ちた視線を向けられたことは一度や二度ではない。
航太は腹が立っていた。表面上は伏せられた好奇の目に気付かないよう、そして気にしないように日々を送ってきた。怒りの対象は宰だけではない。けれど航太は、宰の前だからこそ、気が緩んで本音を漏らしてしまった。
「アルファだからさ、楽なんだよ。宰は楽して生きてる」
宰の瞳に映る自分を、航太は忌々しい気分で見つめた。目をぎらぎらと光らせて、みっともない自分がそこにいる。それを見たくなくて、航太は両腕に力を込めた。
「航ちゃ……っ、ん」
宰を引き寄せると、衝動のままに唇を合わせた。ぞくぞくと身体の内側が焼かれるような感覚が走り、互いの香りが混ざり合う。
航太の目の前で、宰の瞳は驚きで見開かれたままだ。舌先で唇をなぞれば、明らかに宰の呼吸が乱れたのが分かった。
「っ、こ、航ちゃん!」
しかし宰は、すぐさま航太を引き剥がしてしまう。まだ熱いままの唇がむなしくて、航太は宰を睨みつけた。
「……なんでやめんの?」
「航ちゃん、ここは話し合いを……」
「しない!」
航太は宰の胸を突き放して距離を取り、子どものように床を蹴りながら「意味わかんない」と吐き出した。
「
「でも」
「このばか! あほ! むっつり童貞!」
「うっ……」
突然のわがままに、宰が困っているのが分かる。けれど一度芽生えてしまった、焦燥にも似た煩わさしさは消えず、航太は苛々と言葉を続けた。
「お前なんか、きら……」
「…………」
「きら、い、ではないけど……」
一瞬絶望的な表情になりかけた宰を見て、航太は口ごもった。少しずつ頭が冷えていく。自分がひどく取り乱してしまったことが、航太の気持ちを落ち込ませた。
気まずい沈黙が流れた後、航太はぽつりと「帰って」と告げる。
「航ちゃん、でも」
「とにかく今は顔見たくないから」
航太はふらつきながらベッドへ戻ると、すぐに布団のなかに潜り込んだ。その後ろを宰が追ってきたけれど、無視した。頭まで布団を被っても宰の香りが付いてくることに胸がざわめいて、航太はそれすらもいやだと思った。
「航ちゃん……」
「帰って。本当に」
「でも」
「ひどいこと言いそうだから」
布団から聞こえるくぐもった声に、宰は固まった。
「……これ以上、宰に、ひどいこと言いたくないから」
「…………」
宰は何も言わなかった。
航太は宰が何か言いたそうにしている気配は感じたが、しばらくその場でためらった後、台所へ戻り片付けを始めた。
カチャカチャと食器の擦れる音がした後、宰は「おじゃましました」と小声で言って、部屋から出て行った。しん、と静まり返った空気だけが、その場に残る。
「…………」
布団のなかで、航太は声を出さずに「最悪」と唇を動かした。宰に八つ当たりしてしまった。自己嫌悪でうんざりした。
手を伸ばしてベッドの脇に置いていたスマホを掴む。引き寄せて画面を点ければ、見慣れた名前からメッセージが届いていた。 宰とは違うアルファの名前が、布団の暗闇のなかで浮き上がっている。
「…………」
航太は少し考えた後、画面に指をすべらせた。
◆◆◆
宰はしょげていた。
航太が本気で怒っていたからだ。あんな苛立ち方は見たことがなかった。グッズの密造を摘発したときよりも、怒りの度合いはずっと高かった。
相良先生の教えでいけば「帰れと言われて帰るなんて漢じゃない」なのだが、あれほど切実に航太から訴えられては、いくら無神経な宰でも居座ることはできなかった。
ひどいことを言いたくない、と力なく呟いた航太の声が忘れられない。航太からキスされたのに、驚いて拒否してしまった。
悲しませたのは間違いなく自分だと思うと、宰は己が不甲斐なかった。戒めのため、彼は普段ジョギングで毎朝10キロ走るところを、20キロまで距離を伸ばしていた。
あまりの落ち込み具合に、
自分がリフレッシュする前に、航太に謝らなければ。そしてふたりの今後について、きちんと話し合わなければ。
「よし!」
航太に追い出されて数日後の土曜の朝、宰は気合を入れて部屋を出た。そろそろ航太の
ひとりで過ごさせてしまったことが心苦しかった。それを含めて、今日は航ちゃんに謝ろう。宰はそう思っていた。
外階段へ近付き、いざ恋人の住む二階を目指そうとしたそのときだった。
「あんまり無理するなよ」
「……うん、ありがとう」
二階から、ふたりの男の声が降ってきた。
ふたつの声のうち、安心し切ったやわらかな声は、間違いなく航太のものだった。言葉の落ち着き具合から、
「何日もごめん。仕事大丈夫?」
「余裕」
「ほんとに?」
「嘘ついてどうするんだよ。じゃあまた」
「うん、またね。本当にありがとう」
ドアが閉まる音が響く。
それに続いて、カンカンと音を立てて一人の男が外階段を降りてきた。
宰より歳上の——おそらく三十歳手前くらいの男は、上等な黒のロングコートに身を包んでいた。男が階段を降り、長めの前髪を顔から払う。そして階段の脇で呆然と立ち尽くす宰に気付くと、穏やかに微笑んでみせた。
涼しげな目元の端正な顔立ちの男だ。
初めて見る顔だった。
「こんにちは」
「…………」
男はよく通る声で言った。
挨拶をされたのだから、返さなければ。
そう思いながらも、宰は口をぽかんと開けたまま何も返せなかった。
この男はアルファだ。
纏う雰囲気でそれが分かった。
アルファに対して何か感じたことはそれまでなかったのに、男と目が合った瞬間、宰は自分の表皮がじりじりと炙られるような感覚に襲われた。不自然なくらいに視線が絡み合う。
男は口の端を持ち上げたまま、宰の脇をすり抜けた。ふわり、と嗅ぎ慣れた香りが宰の鼻先をくすぐる。
穏やかで心安らぐ、甘い香り。
その香りが男のものではないことを、宰は知っていた。
何度も嗅いだ香りだ。
間違えるはずがない。
男はそのまま、駅の方向へと歩き去って行く。宰はその場に固まり、しばらく動くことができなかった。
宰とすれ違ったその一瞬、男が小さく笑っていたような気がした。
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