第31話 【4年1ヶ月後】同じ穴の貉
葉竹航太は悩んでいた。
間近に迫った稟議書提出の期限、家族による交際反対、風間からのファンレターの催促。
そして何よりも、恋人との進展具合について。
航ちゃん、と名前を呼ばれて、航太は自分がうたた寝をしていたことを知った。
ゆっくりと浮上した意識のままぼんやりとまぶたを開けば、宰が心配そうに顔を覗き込んでいる。
瞬きをして広がった視界の先には、もう見慣れてしまった宰の部屋の風景が広がっていた。
今日は金曜日。
仕事終わりに宰の部屋へ来て、なんだか聞いたことのない小洒落た名前の手料理を食べて、そのままソファに座ってテレビを見ていたはずだった。
「……ごめん、寝てた」
「大丈夫? きっと疲れてるんだ。よぉし!僕の特製オリジナル栄養ドリンクを」
「怖いからいらない」
「そんな……!」
寝起きに宰のテンションは疲弊した身体に染みた。小さくあくびをすると「かわ!」という声とともに、すぐ横でスマホを構えられた気配がしたため、航太はすかさず顔を背ける。
「ああっ、ちっちゃいあくびが……!」
「…………」
航太はその悲鳴を黙殺してリモコンを手に取り、点いたままのテレビへ向けた。
宰にいちいち反応していたら身がもたない。
宰は隙あらば航太の写真を撮りたがるのだ。
ふと気付けば、宰がついさっきまで持っていなかったはずのスマホを構えている。
スーパーアルファは動きが速い。
航太は宰の奇行を半ば諦めつつあった。
ぼんやりとテレビを眺める航太の隣に、いそいそと宰が座る。肩と肩が触れ合って、爽やかな香りが鼻先をくすぐった。
「仕事忙しい?」
「まあまあかな。宰は?」
「僕の辞書に疲れという言葉はないんだ」
「……リミッター壊れてるもんね」
言葉を交わしながらも、航太は隣の恋人から漂う甘さに心地良さを感じていた。もうその香りにはだいぶ慣れて、いちいち動揺することはない。けれど疲れて気の抜けた状態で嗅ぐと、頭の凝り固まった部分がはらはらとほどけていく感覚がある。
「航ちゃん」
「ん?」
宰が航太の右手を取った。ぬるく湿った掌が重なり、宰の親指が手の甲を擦る。
視線を上げれば、すぐ目の前に宰の瞳があった。濁りのないそれに自分が映っている、と航太が思うのと同時に、唇に柔らかな感触が押し当てられる。
その瞬間、ぶわ、と鳥肌が立つような震えを航太は感じた。それは嫌悪ではなく、湧き上がる衝動のようなもの。目の前がちかちかと閃いて、航太は目を瞑った。腹の奥が疼くような熱に翻弄されそうになりながら、すがるように手を握り直す。
肌の表面がぴりぴりと柔らかに痺れた。宰の睫毛が震えているのが分かる。頭に濃いもやがかかって、まともな考えができなくなっていく。
——宰とキスすると、いつもこうだ。
アルファとオメガだからこうなるのか、それともバース性関係なく世の中の恋人たちがこんな思いをするのかの区別は、恋愛経験の乏しい航太には分からなかった。とにかく、触れ合うと心地が良い。離れがたいと思うほどに。
何度か角度を変えて唇を合わせた後、宰が空いている方の手で航太の肩に手を置いた。触れられた箇所がじわじわと熱い。宰の体温が上がっているのも肌で感じる。航太は無意識に身体を強張らせた。
——今日は、もしかして。
期待とも不安ともつかない感情が航太の胸に押し寄せる。まっさらなうなじが、じくじくと熱を帯びている。
航太の肩を掴む宰の手に力がこもり、そして。
「……ふう、航ちゃん! 以上です!」
「え?」
「ふふ、やっぱりキッスというものは何度しても照れちゃうな……」
「…………」
頬を染めた宰は、晴れやかな笑顔で額の汗を拭った。身も心も清廉すぎる彼に、ムードという概念は存在しない。航太は上がり始めていた体温が急速に冷えていくのを感じていた。
「さ、航ちゃん!今日は疲れてるみたいだから早めに寝たほうがいいよ!」
「……ほんと疲れた」
「金曜日だもんね、疲れるよね!」
お前のせいだよ、と口のなかで呟いて、航太はソファから立ち上がった。航太の目下の悩みは、これであった。
宰と付き合い始めて九ヶ月が経つというのに、彼らはまだ幼いキスしか済ませていなかった。航太は二人きりになるたびソワソワしていたのだが、宰は一向にそれより先に進もうとしない。そのくせ頻繁にキスはしたがる。温厚な航太といえど苛々し始めていた。
そして交際を始めて三ヶ月目、航太はその元凶の正体を突き止めた。
「先ズル」である。
宰の考えが「先ズル」のヒーロー相良先生の教えに根ざしていることに気付いた航太は、一ヶ月かけて「先ズル」全巻を読破し、そして学んだ。航太にとっては苦行でしかない時間だったが、その結果、彼は宰が相良先生の
誠実さを重んじる相良先生は、婚前交渉を認めない。せいぜいキッス止まりである。
航太は愕然とした。この現代において、そんな清らかな考えでお付き合いをする馬鹿がどこにいるのか。しかしその馬鹿は、悲劇的なことに己の恋人であった。航太は自分の判断力を改めて疑った。
「航ちゃん、お鞄お持ちします!」
「いいよ別に……」
「まあまあ遠慮しないで」
「…………」
玄関へお見送りしようと、宰はビジネスバッグを手にスキップでもしそうな勢いで航太へ付いてきた。航太には分からなかった。こいつ、俺のことを好きなんじゃないのか。恋人なら、金曜の夜のこの時間に送り出すべきじゃないだろう。
はいどうぞ! 元気に言いながら、宰は航太にビジネスバッグを手渡した。不満を込めて睨みつけたが、宰は完璧な笑みで応えてみせる。おそらく「わお、熱い眼差しで見つめる航ちゃん!」くらいにしか思っていないであろうことは容易に想像がついた。
「……宰さぁ」
「ん?」
「……おれと、その、い、」
「い?」
「い……」
一線を超えたいとか、思わないの。
航太は今日こそはそう言ってやろうと決めていた。しかしいざ本人を目の前にすると、気恥ずかしくて言い出せなかった。
宰は純潔無垢のスーパーアルファであったが、航太も負けず劣らずの純朴なオメガだった。自分からそういう行為に誘うなど、不可能に近い。しかし宰に任せていたらいつまでも関係が進展しない。航太の苦悩は深かった。
「……なんでもない」
「そう? 航ちゃん、悩みがあるならいつでも聞くからね!」
「…………」
悩みの種はいつもお前だよ。
そう内心ぼやいて靴を履きかけたとき、航太は「あ」と声を上げて宰を見た。
「来週は会えないよ」
「え!」
「……
「ああ、そっか。その時期だね」
ここまで言ったらどうなんだ、と航太は試すような気持ちだった。普通、オメガの恋人が
「大丈夫! 僕がまた看病しに行くからね!」
「…………」
そうじゃない。
そうじゃないだろ。
航太はカリカリしていた。付き合う前も後も、宰は航太が
確かに航太は抑制剤で体調を崩すから、あれこれ世話を焼いてくれるのは助かる。助かるが、そうじゃない。もっとこう、根本的に解決する方法があるだろう。
航太は意を決して告げた。
「宰が来るとかえってきついんだけど」
「え!?」
「いやだって、お前」
「うん」
「ああいう状態のときに、お前が近くにいると、その、おれ、あれじゃん」
「あれ?」
「……抑えが、きかないっていうか」
航太は自らの発言にじわじわと顔が熱くなるのを感じていた。彼としては精一杯頑張った方だった。
しかし実際、
宰はしばし黙った後、「なるほど」と深く頷く。
「分かった、航ちゃん」
「え……」
宰は珍しく真剣な顔をしていた。
使命感を帯びた、良い面構えであった。
航太は嫌な予感がした。
「でも安心してほしい。航ちゃんが抑えきれなくても、僕が鋼の精神力で耐えてみせる」
「…………」
「航ちゃん、
「帰る。おやすみ」
「え!」
予感は当たった。
宰は航太の発言の真意をまったく理解していなかった。
本当に困った、とドアを開けようとして、航太ははたと止まった。振り返って、悲しげな表情を浮かべる宰を見つめる。
「…………」
「航ちゃん?」
「いや……」
航太には、宰に言えない秘密があった。
◆◆◆
部屋に帰った航太は、誰もいないとは知りつつもきょろきょろと辺りを見渡し、それからビジネスバッグを開けた。内ポケットの中に密かに入れていた「それ」を取り出し、航太は呻く。彼は絶望の淵にいた。
「またやっちゃった……」
航太の震える手に握られていたのは、宰のハンカチだった。律儀に折り目のつけられた、ケルバンクレインのディープブルーのものだ。宰のハンカチのなかでも、あまり使用頻度の高くないものを選んだつもりだった。そして航太は、そのハンカチを宰には無断で持ち出していた。
しかし不幸なことに、普段の航太は宰に対してツンツンであった。頑として関係を進めようとしない宰に対する意地もある。
そのため「持ち物がほしい」とは言い出せず、こうして宰の目を盗んでは、無くなってもさほど影響のない持ち物を掠め取るという行動を繰り返していた。
「こ、これじゃ宰と一緒じゃないか……」
航太の脳裏に、恋人の数々の奇行が過ぎる。
宰が航太の持ち物を盗むことはなかったが、この前は缶バッチを量産している現場を押さえてしまった。何度やめるよう諭しても、宰は航太グッズを作ることをやめない。自分がその恋人と同程度の変人であるとは、航太は認められなかった。
だめだとは分かっていながらも、航太はそのコソドロ行為をやめられない。素直に宰に「服を貸してほしい」と言えば済む話なのだが、それを受けた宰のテンションを考えただけで頭が痛むからだ。がっくりと肩を落とし、航太はハンカチに視線を落とす。
「…………」
宰が肌身離さず持っていたというわけではないから、香りは薄い。でもそれには、ほのかに宰の部屋の香りが染み付いている。
——よく嗅いでみれば、宰の匂いが、ここに。
「……はっ!?」
航太は慌ててハンカチから顔を離した。
盗んできたハンカチの匂いを嗅ぐなんて正気じゃない。おれは変態になってしまったのか、と自分の行動に怯えながら、航太はよろよろと台所へ向かった。
そしてジップ付きビニール袋を一枚取り出すと、ハンカチを中に入れる。
「そのうち、ちゃんと返すし……」
ぶつぶつと呟きながら、航太はハンカチを封入した。
航太は知らなかった。
彼の恋人が、四年前にまったく同じ行動をしていたということを。
航太はそのまま押し入れに向かい、使い慣れた戸を引いた。中にはこれまで航太がくすねてきた宰の持ち物が、すべて密閉された状態で隠されている。ボールペン等の筆記用具類、ハンカチやポケットティッシュ、宰が一度袖を通したという航太の写真入りTシャツ。
「ちゃんと返す……後で返すから……」
コレクションの傍らには、分厚い封筒が密閉された状態でひっそりと置かれていた。
◆◆◆
「……どういうことですか」
——葉竹くんは、そろそろ身を固めたりとか、考えてないのかな。
航太は純粋に驚いていた。オメガの航太にその言葉を投げかける意味——つまりは、つがいを作らないのか、と尋ねられているのだ。
航太の働く会社は、オメガも多く、待遇も悪くない。だからこそ、上司の言葉は意外だった。中年の上司は「いや本当ごめんね」と頭を下げて続ける。
「ちょっとね、ほかの支社の方でトラブルがあったらしくて」
「トラブル、ですか」
「まだつがってないオメガの子を巡って、ちょっとね、その、分かるでしょ」
「はあ……」
どこか媚びるような目が、航太は不快だった。おそらくその「トラブル」を材料に、上部では古臭い話し合いが行われているのだ。前時代的な考えの幹部たちが、つがいのいないオメガはトラブルを起こしやすいとか、そんな話をしている。そしてそれが今、下まで降りてきているのだ。
つがいのいないオメガを働かせるのはいかがなものか、と。
実際、社内のオメガの大半はすでにつがいを持っている。
航太はできるだけ苛立ちが表れないよう、静かに答える。
「おれはちゃんと働きますけど」
「うん、ごめん。本当デリケートな問題だから、あんまり口出しはしたくないんだけど」
「つがってないとだめなんて、そんなのは」
「うんうんうん、分かるよ。分かるんだけど」
——やっぱり、つがってる子の方が働かせる側としては安心なんだよね。
ベータの上司は、申し訳なさそうに、けれど悪気なくそう言った。
航太は何も言い返せなかった。
言い返せないことが、悔しかった。
「それは仕方ないなあ」
「神田さんまで……」
「葉竹が悪いとかじゃなくてさ、働いてるとそういう仕方ないことたくさんあるんだって」
元気出せ、と先輩社員の神田が航太の肩を小突いた。いつも飄々として掴みどころのない神田だったが、航太が仏頂面で事務室へ戻ってきたのを見かねて連れ出してくれたのだ。
自販機に寄りかかりながら、神田は尋ねる。
「葉竹、アルファの恋人いるんだろ?」
「……います」
「じゃあ問題解決だ」
「…………」
そうもいかないんです。
航太は心のなかで呟いた。
しかし現状を赤裸々に説明するわけにもいかず、航太は黙り込む。それを見て神田は小さく笑うと、缶コーヒーの蓋を開けながら吐き捨てるように言った。
「俺さ、オメガと付き合ってるのにつがわないアルファって無責任だと思うんだよなぁ」
「……どうしてですか」
ぼそりと聞くと、神田は航太を見て目を細める。そこにはどこか憐れむような色があって、航太の胸はわずかにざわめいた。
「つがいにさえならなかったら、責任取らなくてもいいもんな」
「……なんですか、それ」
「怒った?」
「少し」
「葉竹は素直だな」
くすくすと小さく笑いながら、神田は缶をあおり、それからゴミ箱に放る。
整った顔が航太に近付き、囁いた。
「そういう無責任なアルファってさぁ、恋人が誰かとつがっちゃったらどうするんだろうね」
柔らかく笑う神田からは、ひどく甘い香りがした。
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