第29話 【3年9ヶ月後】蝶よ花よ
「今すぐ別れなさい」
やっぱりこうなった。
瞳に強い怒りを込めた父から視線を逸らし、航太はこっそりため息をつく。
夕食時のダイニングが気まずい雰囲気に満たされた。同席していた母はいつものように呆れ顔を浮かべ、兄はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべている。
航太は宰と時を同じくして、実家の長野に帰省していた。
航太はアルファの父と、オメガの母の間に生まれた次男坊だ。
父は弁護士をしているが、生来お人好しな性格のせいで安価で依頼を受けてしまうために、弁護士といえども葉竹家はごくごく一般的な経済状態の家庭だった。
航太はアルファの兄と二人兄弟だったが、分け隔てなく愛情を注ぐ母に対し、父は昔からオメガの航太に過剰な愛を向けてきた。
兄は「父さんはウザいから構われないくらいがちょうど良い」とせせら笑っていたが、航太は過保護とも言える父の干渉にほとほと苦労させられていた。
身につけるものは肌に優しいものを。
口にするものはオーガニックで。
つまずくと危ないから靴はオーダーメイドを。
アルファは色目を使ってくるから気をつけろ。
細かく独自のルールを指定する父を母はこまめに叱っていたが、航太に夢中の父には、それらのお小言は全く響いていなかった。
「こんなにかわいい子を一人で放っておいたら誘拐されてしまう」と通学のときに逐一付いて来られるのも参った。
中学までは一定距離を保つことを条件にして付いて来るのを許したが、高校ともなるとさすがにやめてもらった。
「もう来ないで」と告げた日、父は布団に包まって朝までさめざめと泣いた。
母は呆れ、兄は笑っていた。
航太は少しばかり心を痛めた。
父の真っ直ぐすぎる愛情を重荷に感じることはあったが、航太はそれを無下にすることができなかった。航太の生来の優しさは、誰とは言わないまでも世のアルファを虜にするのであった。
帰省の機会を利用して、航太は宰との交際を家族に打ち明けた。
——アルファの恋人ができた。
父が反対するであろうことは容易に想像できた。そして父の反対は秒速でなされた。
「恋人ができた」の「で」まで言ったところでカットインされた。有無を言わせぬ力強さだった。
「お父さん、いい加減子離れしなさいよ」
「お母さんは航太が心配じゃないのか!?」
「まだ何も聞いてないのに心配も何もないけど」
母は素っ気なく言い放ったが、父は聞く耳を持たずプリプリ怒りをみなぎらせている。
困った。予想していたけど、困った。
航太は眉尻を下げて、怒る父を見つめた。
とにかく話を聞いてほしかった。
「こ、航ちゃん! そんなかわいい困り顔してもお父さんは折れないぞ!」
「普通に見てるだけなんだけど」
「はー、ウケる」
兄の陽介が顔を覆って笑う。
この状況を面白がっているのが分かって、航太はテーブルの下で脚を蹴ろうとしたが、簡単に避けられた。悔しくて睨みつけると、父によく似た涼しげな顔が嫌味に口元を緩める。
すると突然陽介の手が伸びてきて、航太の襟足の髪をめくった。そのままうなじに顔を近付けられ、航太は慌てて身体を捻らせる。
「な、なんだよ」
「ちょっと確認しだけ。なんだ、まだ噛んでもらってないんだ」
「陽介!!!!」
父は絶叫しながら立ち上がった。
椅子を倒す勢いに母が「お父さん」と嗜めたが、父は顔を真っ赤にして震えていた。
「か、噛むとか、そ、そんな、みだらな話はまだ航ちゃんに早いだろう!!!!」
「絶対早くないでしょ」
「いいから離れろよバカ」
「バカって言う方がバカなんだー」
するりとうなじに指先の感触を残しながら、陽介は身体を離した。航太が絡むと激しく動揺する父は皆慣れているため、ぷるぷる震える大黒柱はスルーされたままだった。
長めの前髪をかき上げ、兄は首を傾げて聞く。
「いつから付き合ってんの」
「……今年の三月」
「五ヶ月も経ってまだつがってないわけ?」
「それはいいじゃん別に……」
「つがっ……!!」
父は今度は青ざめて椅子に座り込んだ。
「やめろ……やめてくれ……」と頭を抱える父に、母は「お茶でも飲んだら」と湯飲みを差し出す。兄弟の会話はなおも続いた。
「あれだな、航太の初恋人じゃん」
「そうだけど」
「セックス上手い?」
「なっ……」
「よよよ陽介ぇ!!!!!」
「陽介、ほどほどにしときなさい。お父さんが立ち直れなくなるから」
「はいはい」
父は静かに涙を流していた。
大切な宝物——航太がどこの馬の骨ともわからぬアルファに掠め取られてしまった。
無力感と絶望感が父を苛んだ。
そして家族は、そんな父を冷めた目で眺めていた。
陽介はつまらなそうに頭を掻いた後、脚を組み直して弟に聞く。
「それで、どういう奴?」
「え」
「航太のコイビト」
「えっと……」
航太は口ごもった。
交際を報告するとは決めていたものの、宰の生態をどう説明すべきかまでは考えていなかったからだ。
母も興味深そうに視線を寄越してくる。
父が涙に濡れた瞳で恨めしそうに見つめてくるのがちょっと怖い。
どういう奴か。
これほど困る質問はない。
当たり障りのない回答を頭のなかで選び取りながら、航太はぽつぽつと答える。
「狩野田、宰っていって……。同い年の……」
「うん」
「今年の春からは、東京の病院で、研修医やってて……それで」
「研修医? 医者?」
やったじゃん、と陽介は手を叩いた。「母さん良かったね、玉の輿だ」「やるわねぇ」と交わす兄と母に、航太はとてつもない後ろめたさを感じ始めていた。
研修医のアルファ。
たしかにそれだけなら聞こえは良い。
ただ、普通のアルファではないのだ。なぜ普通じゃないアルファと付き合っているのかと問われれば困ってしまうのだが。
「まさか医者とはなぁ」
「父さんは弁護士の方が良いと思うぞ」
「航太もちゃっかり良い奴捕まえてたんだな」
「今度連れてきてよね」
「医師免許取るのも難しいが、司法試験も難しい」
「ご実家はどちらの方なの?」
「……静岡」
父は必死に話題に入ろうとしていたが、家族はことごとくスルーしていた。皆父の仕事については尊敬していたが、彼は航太が絡むと途端にダメ人間になるためだった。
陽介が続けて航太に問う。
「同じ大学?」
「ううん、あっちはもともと大阪の大学通ってて……」
「は?」
「え?」
怪訝そうな声に航太は兄の顔を見た。
玉の輿だ、と騒いでいた明るい表情はすっかりなりを潜めている。
「……どうやって知り合ったんだよ、そいつ」
「え」
「今年の春から東京って、それまで大阪にいたんでしょ」
「あ、え、うん、そうだけど」
「東京と大阪でねぇ」
「…………」
しまった。設定の詰め方が甘すぎた。後悔してももう遅い。
陽介の目が疑い深く細められる。それはそうだ、と航太は顔を背けた。東京で生活していた航太が、当時大阪にいた人間と付き合うことになった。なぜ、と思うのが普通だ。
「えーっと」
航太は目を泳がせた。
かといって、真実を話すわけにはいかない。
通販アプリで取引したら、その商品についていた香りに宰のテンションが上がってしまって、最終的には東京まで押しかけてきた。ママチャリで。それが、おれたちの馴れ初めです。
そんなこと絶対に言えない。
航太も思い返してみて、改めて自分の判断を疑った。一般常識で考えておかしいだろ。なぜこの馴れ初めで、付き合う展開になるんだ。
黙り込む航太に、父はわなわなと震えていた。
「航、ちゃん……、まさか……」
「あ、うん、その」
「出会い系か!? マッチングアプリか!?」
「そうじゃなくて」
「今流行りの、インステとか、テックトックとかいうやつか!? かわいいダンスとか踊って見せたのか!?」
「お父さん、落ち着いて」
母が宥めるのにも耳を貸さず、父はテーブルに突っ伏しておいおいと声を上げて泣き始めた。
「うわああああ!! 航ちゃんが不良になってしまったあああ!!」
「…………」
「大事に、大事に育ててきたのに……!!」
「まじウケる」
葉竹家のダイニングの雰囲気は過去最悪となった。
これでは冷静な話し合いなどできないと母が食卓を片付け始める。やり切れない思いを胸に航太がそれを手伝い始めると、傍らに陽介が立ち、意味ありげに口角を上げた。
「……なに?」
「航太のコイビト、どんな奴か気になるなぁ」
「え」
「今度会わせてよ」
「無理」
「なんで」
「やめといた方がいい」
「なにそれ」
陽介の瞳が怪しく光る。
航太は知っていた。父ほどではないにしろ、陽介も航太のことを構いたがる傾向にある。
そして陽介が厄介なのは、航太にとって危険だと判断すれば、すかさずその対象を排除しようとするところだった。そんな陽介を宰と引き合わせたらどうなるかなんて、火を見るよりも明らかだ。
航太は後悔していた。
まだ打ち明けるのは早かったかもしれない。
せめてもう少し宰がまともになってから——いや、そんな日はおそらく永遠に来ないのだが、策を練ってから挑むべきだった。
「まあいいや。勝手に会いに行くし」
「…………」
陽介はそう呟くと、にっこり笑って航太から離れていった。極めてまずいことに、陽介は横浜で美容師をやっている。東京に住む航太のもとを訪ねようと思えば、すぐに実現できてしまう距離だ。
これまではお互いあまり干渉せずにやってきたが、弟に恋人がいると知った陽介がどんな行動に出るのか、航太には見当がつかなかった。
万が一、陽介が訪ねてきたときに、宰と出くわしてしまったら。
そして、同じアパートに住んでいることが知られてしまったら。
そこまで考えたところで頭が痛くなり始めて、航太は頭を振った。とにかく航太のカミングアウトは、失敗に終わった。脱力感に苛まれながら、航太は窓から外を見る。
宰の方も同じく、家族への報告を済ませたはずだ。
——宰は、大丈夫だったのかな。
狩野田家はアルファしかいないと聞いている。オメガの自分と付き合っていることで、宰が責められているのではないか、と航太は少しだけ不安だった。
「…………はあ」
遠く離れた静岡では、航太と宰の披露宴の計画が勝手に練られ始めていることを、彼はまだ知らなかった。
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