第27話 【3年4ヶ月後】ホテルスコーピオンジュニアスイート






——おれはもしかしたら、取り返しのない過ちを犯してしまったんじゃないか。



荘厳かつヨーロピアンな空気が満ちるロビーの片隅で、航太は呆然と立ち尽くしていた。

いかにも上流階級な気品を纏わせた大人たちが、あちこちで高尚な会話を交わしている。


華やかな世界にほとんど触れたことのなかった航太は、群れからはぐれた子羊のように震えていた。なぜ、こんなことに。何の変哲もないパーカーとチノパンという出で立ちでその場にいること自体が受け入れがたかった。


近くを通りかかる上流階級たちが、航太を怪訝そうに一瞥していく。あまりの場違い感に、彼は今すぐ消えてしまいとすら思った。


——帰りたい。今すぐ帰りたい。


航太は途方に暮れていた。

こんなことになるなんて予想していなかった。きらきらと華やかな空気に怯えつつ、そっと出入口へ足を向けようとしたそのときだ。


「航ちゃん、お待たせ」

「つ、つかさ……」


今日に限って上質なジャケットを羽織った宰が、ブルジョワジーな風を吹かせながら駆け寄って来た。無駄に大人びた微笑みも、ここ一年ですっかり板についている。

彼こそが航太を子羊状態に追いやった張本人なのだが、紳士モードに入った宰が、その事実に気付くことはなかった。


慣れない雰囲気に青ざめる航太の手を取り、宰は誇らしげに一枚のカードキーをかざしてみせる。


「ジュニアスイートを取ったんだ」

「…………」


軽くウインクする宰に、航太は目眩を感じた。


ジュニアスイート?

こんな高級そうなホテルの?

なぜだ。なぜこんなことに。


航太は自分の軽率な行動を悔い始めていた。

三年という月日は、彼の警戒心をすっかり鈍らせていた。


航太はすっかり忘れていたのだ。

目の前の男が、自分の予想の及ばぬレベルのことを、容易にやってのけるアルファなのだということを。






◆◆◆






国家試験に受かったら告白する、という予告を受けて、航太は宰の見方を意識的に変えてみることにした。

つまり、恋愛対象になるのかどうか見極めようとしたのである。


初めて会ったときから、宰のアルファとしての香りが抜群に甘く魅力的であることは感じていた。不本意ながら、顔もかっこいいと思ってしまう。


ただ、アルファであることを差し引いて、宰のことをひとりの人間として好きになれるのか。航太は自分なりに、宰を見つめ直してみた。


接触した当初の数々の奇行は忘れることはできない。アレはアレとしてどうかと思う。というか、間違いなくストーカーだったと思う。航太は精神的に追い詰められたし、身の危険も感じた。


でも実際に会ってからは——そこそこの恐怖は感じたものの、宰はいつも誠実だった。

航太が発情期ヒートを起こしたときも、その気になればつがうことはできたのに、しなかった。


宰は航太の意思を尊重する。

それが分かるからこそ、航太は宰を嫌いにはなれなかった。


社会に出てみて、航太はオメガの生き辛さと、アルファの傲慢を改めて思い知った。

発情期ヒートのために定期的に休まなければいけないことを、すべての人が理解してくれるわけではない。

オメガであること自体がハンデである、と悪気なしに言ってくる人だっていた。

そのたびに、航太は宰を思い出した。


運命のつがいだ、などとくり返してはいたけれど、宰がバース性の優劣を振りかざすことはなかった。


僕はアルファだから。

航ちゃんはオメガだから。


そんなことを、宰は一度も口にしたことがない。生まれ持った性で物事を計らない宰の真摯さに、航太の心は動かされた。


航ちゃんは素敵なひとだ。


どんなときでも、真剣にそう言い続けてくれることが嬉しかった。たとえ変な奴でも、考え方が普通とずれていたとしても、真っ直ぐに想い続けてくれるのは、すごいことだとも思った。


話すたび、会うたびに呆れさせられるし、理解に苦しむことも多々ある。

けれど宰は絶対にうそをつかない。

逃げたりごまかすこともない。

社会に出て、それを実行し続けるのがどれほど難しいことかを実感していた航太は、ひそかに宰を尊敬していた。


顔を合わせるたび、航太は自分のなかでじわじわと熱が燻るのを実感した。

アルファとの香りの相性だけではない、穏やかな痺れを何度も感じた。


手を握られるのを嫌だと感じたことはない。

むしろ、ほかの誰かと手を繋いでほしくないと思った。宰が誰かと並んで歩くのも、つがいになるのも、見たくないと強く思った。


そのころには、航太の心は決まっていた。


宰はきっと合格する。

だからその日には、自分から連絡しよう。


宰は航太に関する出来事をおそろしいほどよく覚えている。だから、夜の大阪で交わしたあの約束も、絶対に忘れていないという確信があった。


そして航太は、宰に連絡をした。

心臓は壊れるんじゃないかと思うくらい激しく動き、スマホを操作する手も震えた。

人生で一番緊張して、声も掠れてしまったけれど、できる限りの想いは込めたつもりだった。


宰が良いと思ったから、連絡した。


航太の言葉に、宰はしばらく黙り込んだ後、「三日後に東京へ行く」と静かに告げたのだった。




そんなこんなで、航太は宰と東京で落ち合った。宰はなぜかずっと微笑みを浮かべていて、会った途端「付いてきてほしいところがある」と航太の手を握った。

あまりにも自然な繋ぎ方だった。

自信を得たスーパーアルファは無敵であった。


航太があわあわと動揺している間に、二人は電車とタクシーを乗り継ぎ、この場所——ホテルスコーピオンに行き着いたのであった。

一般庶民はおよそ宿泊しようとは思わない有名な高級ホテルである。


そしてあれよあれよと言う間に、航太は宰にジュニアスイートルームへと連れ込まれたのだった。


「…………」

「航ちゃん、お腹空いてない? 何か頼もうか」

「す、すいてないからいい……」


航太は壁に張り付きじっとしていた。

宰に会うまでは、夕食を前にある程度空腹を感じていたはずだったが、航太は今、自分が置かれた状況に混乱してそれどころではなかった。


高級ホテルというだけでも理解が追いつかないのに、ジュニアスイートとは。

そもそもスイートにジュニアがあったとは。

航太には、何がジュニアで何がノーマルなのか全く分からなかった。


ヨーロッパの邸宅を思わせる調度品に、靴を脱ぎたくなるような毛足の長いカーペット。

幾何学模様のシックな壁には、「上流階級の人間なら価値が分かりますでしょ」的な抽象絵画が掛けられている。


極めつけは、部屋の奥にそびえるツインベッドだった。

ジュニアスイートなだけあって、最高級のマットレスが据えられたベッドの上には、タオルでハートが象られている。ハートの周りに、赤いバラの花弁が散っているのがなんともロマンチックだった。


航太はひたすらその場でソワソワするしかなかった。


——「そういうこと」なんだろうか、これは。さすがに、展開が早すぎるのでは……。


いくら気持ちが固まったとはいえ、告白より先にホテルに連れ込まれるとは航太も予想していなかった。


ホテルの一室に、割と良い雰囲気のアルファとオメガがふたりきり。


これはアレだ。そういうやつだ。

そういった方面にはめっぽう弱い航太でも、何が起ころうとしているかは分かった。


宰は相変わらず余裕の笑みを浮かべ、おもむろにジャケットを脱いだ。それを見て航太はさらにソワソワし始める。掌にはじっとりと汗をかき、焦っているはずなのに嗅覚はしっかりと宰の香りをとらえていた。


「航ちゃん」

「えっ」


航太がひとりパニックに陥っている間に、目の前には宰が立っていた。

「壁の花にしておくのはもったいない」とキザなことを言いながら、宰はまたしても航太の手を握った。


——こいつ、今日めちゃくちゃ手握ってくるな……。


航太がどこか冷静に評していると、宰は余裕の笑みで「こっち」と手を引いた。


やけに大きな窓のそばまで連れて行かれ、航太は宰と向き合った。すっかり外は暗くなり、街にはあちこちにまばゆい光が撒かれている。ずっと遠くには、忙しなく色を変える観覧車が見えた。


「航ちゃん」


宰は航太の両手を取った。

その手が冷えていることに航太は気付く。

余裕そうに見えるけれど、宰だって緊張している。緩やかに空気が張っていくのが分かった。


「……合格、おめでとう」


航太は無意識にそう言っていた。

正面に立つ男の目を見つめて、ひとつ息を吐いてから、言う。


「合格してよかった」


受かるとは思っていたけれど、宰から直接合格の知らせを聞くまでは少し怖かった。

告白のタイミングなんかより、宰が気落ちするところを見たくなかったからだ。


どこまでも馬鹿真面目に表情を引き締める宰を見て、航太は小さく笑う。


——おかしな奴だし、めちゃくちゃに振り回されるけれど。


とりあえず飽きることはなさそう、と心のなかで囁いた。


航太が笑ったのを見て、宰は大袈裟に深呼吸すると、強く航太の手を握り直した。

航ちゃん、と震える声が名前を呼ぶ。


「僕は、航ちゃんが好きです」

「……うん」

「ずっと好きだったし、この先も好きです」

「うん」


——僕と付き合ってください。


真っ直ぐで、ごまかしようのない言葉だった。


宰の視線に焼かれそうだ。

航太は息を詰めて思った。


お互いの香りが混じっていくのが分かる。

やけに喉が乾いて仕方がなかった。

緊張を振り切るように、航太はゆっくりと頷いた。


「……おれも、宰がいい」


気恥ずかしくて、すきだとは言えなかった。

その分だけ、きちんと口にしてくれた宰をすごいと思った。

「ありがとう」と宰が呟いたのを聞いて、なぜか脚が震える。


「航ちゃん」

「うん」


握り合う手に力がこもる。

お互いの緊張が伝わるようだった。

宰が一歩距離を縮め、腰を屈めた。


顔が近付く気配に、航太は息を詰め目を閉じる。無意識に顎を引いてしまったけれど、宰はそれを咎めることなく、そっと唇を合わせた。


「…………っ」


触れた瞬間、航太はこれまでにないほど宰の香りを強く感じた。身体中の血が巡り、うなじが焦げつくようにじりじりと疼き始める。

抑制剤を飲んでいて良かった、と臆病な心が言う。


あまりの熱の奔流に、航太はたまらず宰の手を握り返した。鼓動が速すぎて痛いくらいだった。身体中の細胞が、宰と触れ合うことが「正しい」と言っている。


すきだ、と航太は心の中で呟いた。


宰は特別なのだ。

航太にとって特別なアルファ。

触れ合ったことで、改めてそれを感じた。


数秒間唇が重なったあと、宰は静かに顔を離した。航太は耳の先まで真っ赤に染まっている。視線が絡み、お互いの吐息が混ざり合う。


「航ちゃん」


今までで一番優しく呼ばれて、もう一度唇が触れ合った。


航太はキャパオーバーだった。

気を抜けばすぐにでも倒れ込んでしまいそうだったが、これから先に控えているであろう続きに備えて、必死にそこに立っていた。


予想より急展開だったが、宰の想いに応えたいと思った。風間も言っていた。こういうときは、勢いが大事なのだと。


再び顔が離れて、宰は静かに微笑む。

航太は覚悟を決めた。


ここで逃げたら男がすたる。

そんな気持ちで背筋を伸ばした。


しかし。


「よし!!」

「えっ」

「航ちゃん! おつかれさまでした! これからよろしくね!」

「え? は?」


ぶんぶんと両手を振り回された後、その手は呆気なく離れた。航太は口を開いたまま固まる。宰は窓の外に広がる夜景を眺めて、満足げに呟いた。


「ふふ、最高の舞台ステージになったな……」

「…………」

「僕が航ちゃんの彼氏……航ちゃんとニコイチ……ふふ……」

「…………」


航太は急速に熱が冷めていくのを感じていた。良い具合に盛り上がっていたムードは、一瞬で霧散する。


宰は小走りでベッドへ駆け寄ると「キャッホウ!」と雄叫びを上げながらダイブした。

歓喜の声を上げながらごろごろと転がる宰を、航太は死んだ魚の目で見つめる。


「ははは、さすがの僕も緊張したな……。あ! 航ちゃん! どっちのベッドにする? 僕はどっちでも」

「……おれ、帰る」

「え!?!?」


航太は一気に冷静になっていた。

自分は致命的な間違いをしたのかもしれない。そんなむなしさが胸には流れていた。


「航ちゃん、ジュニアスイートだよ!」

「おれは自分のベッドが好きだ」

「なんだって……! 僕とどっちが好き?」

「自分のベッド」

「そんな……!」


宰の悲痛な声を振り切りながら、航太は人生初のジュニアスイートを後にした。


とんでもない男の彼氏になってしまった。

やるせない感情が胸を渦巻く。


それでも航太のうなじは、まだじりじりと疼いていた。






◆◆◆







航太は社会人三年目の春を迎えた。

宰は数日後から研修医として新たな道を進み始めるという。


付き合うことになったといっても、大きく変わったことはない。けれど毎日の連絡は、相変わらず続いていた。


アパートの下の階には、昨日から新しい住人が入ったらしい。

バタバタと騒がしい物音は、今朝も続いている。


「……行こっかな」


ネクタイを締めて革靴を履き、玄関を開ける。この動作にもすっかり慣れてしまった。

暖かくなり始めた風が鼻先を撫でていく。

その風のなかに、覚えのある香りが混じっている気がして、航太は瞬きをした。


いやでも、そんなはずは。


「航ちゃん!」

「え」


階段の下から声がした。

おそるおそる覗き込めば、弾けんばかりの笑顔がこちらを向いている。


航太は何が起こっているのか分からなかった。急いで階段を駆け下りて、のんきに笑う男に詰め寄る。


「つ、宰、お前、なんで……」

「初期研修は東京の病院にしたんだ! 大学の提携先があったから」

「…………」

「航ちゃんにサプライズがしたくて……ふふ……」


頬を赤らめる宰に、航太は脱力した。

やはりとんでもない男と付き合ってしまった。仕事へ行く前からエネルギーを根こそぎ持っていかれた気がする。


「ということで、航ちゃん! よろしくね!」

「……いいけど、もう少し声抑えて」

「分かった!」

「…………」



春の日差しのなかで、駐輪場に佇むアルジャンテが呆れたように二人を見守っていた。









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