第26話 【3年4ヶ月後】報連相
「ついに虚言癖まで発症したのか」
「僕はうそをついてない」
医学部卒業を目前に控えた三月、実習後のレポート提出を終えた宰と工藤は、学食の隅にいた。
春休みに入り、学生の姿はぐっと減った。
臨床実習を終えた六回生の学生たちが、所在なくうろうろしているのが目立つ。
二年間の実習で工藤は大分やつれたが、宰は入学当時とさほど変わらぬ肌ツヤを保っていた。工藤の素っ気ない態度に抗議するように、宰は再度ハキハキと言ってみせる。
「だから、航ちゃんと付き合えるかもしれない」
「付きまとうの間違いだろ」
「ちがう。交際するという意味だ」
「だからなんでそうなるんだよ」
工藤には理解ができなかった。
そもそも宰を理解できたことなど一度もないが、なぜここに来て航太との交際の話が突然出てくるのか分からない。
工藤の問いに、宰は胸を張って答えた。
「試験が受かったら、僕から改めて告白することになってるんだ」
「…………は?」
「なんだ」
「お前、もう三年も経ってんのに告白してなかったのか」
「ふふ、野暮だな君は。愛とは時間をかけて育てるものなんだ」
「…………」
工藤は唖然とした。
彼らはすでに二十四歳である。
宰の一方的なストーカー期間が長かったとはいえ、成人した男子が三年間かけて、まだ告白をするしないの段階にいたとは。
その相手をしている航太もなかなか強者だ。
宰は得意げに笑みを浮かべて続ける。
「それにあたって、特別なプランを考えてる」
「聞かないぞ」
「工藤も驚くと思う」
「俺にサプライズをするな」
放っておくと「僕の考えた最高の告白方法」のプレゼンテーションを始めそうな宰を手で制し、工藤はため息をついた。
結局宰とは六年もの付き合いになってしまった。チャリを奪われ、宰の想い人との大阪ツアーに付き合わされ、法に触れそうで触れない宰の言動のあれこれを、その身ひとつで受け止めてきた。
最後まで翻弄されている自分をよくやったと褒めてやりたいくらいだ。ただ、お互い喜ぶのはまだ早い。工藤と宰には、まだ大きなイベントが控えている。
「浮かれるのは良いけど、明日の結果しだいだろ」
そう、医師国家試験の合格発表は、明日に迫っていた。これの合否で、医学部生は明暗が別れる。晴れて研修医となるのか、それとも絶望の底であがくのか。
しかし宰は、曇りなき
「僕は受かってる」
「まだ分かんないだろ」
「航ちゃんのために人生で一番努力した。分からない問題はひとつもなかった。僕はパーフェクト合格だと思う」
「…………」
工藤は再び深いため息をついた。
悔しいことに、宰は学力は高い。
それをさらに本人が努力したと豪語するのだから、冗談抜きで自信があるのだろう。
きらきらと光る瞳から目をそらして、工藤はうなだれた。
スーパーアルファの宰と違って、ベータの工藤は特別優秀というわけではない。
医学部に入るのも必死に勉強したからだ。
入学後六年間、試験に追われていっぱいいっぱいだった。
そして運命の国家試験。工藤は正直言って不安だった。100%手応えがあるかと問われれば答えはノーだ。
嫌な想像ばかりが浮かんで、工藤の精神はかなりナーバスになっていた。そして、ナーバスな精神状態に、スーパーアルファの快活ぶりは悪い意味でよく染みた。
宰は余裕の表情で工藤の肩を叩く。
「工藤、君も受かってる。僕には分かる」
「……適当なこと言うなよ」
「適当じゃないさ。六年も一緒にいたんだ。君の誠実さと努力が良い結果に結びつかないはずがない」
「……狩野田」
ご機嫌の宰は、これまでで一番優しい言葉を工藤にかけた。
実際のところ彼の頭のなかは「早く航ちゃんに合格の知らせをしたいな〜!」だったのだが、
心が弱っていた工藤はうっすらと感激の涙を浮かべていた。宰は気にせず続ける。
「それでだな、工藤、僕のプランなんだが」
「いやだから聞かねぇって」
「薄情な奴だな」
隙あらばプレゼンを始めようとする宰に、工藤の涙は引っ込んだ。
好きな相手の使ったダンボールを使ったり、部屋の空気を収集するような男のサプライズが、ろくでもない内容だとは察しがついた。
工藤はそれに巻き込まれたくなかった。
それにしても、宰は試験どころか、航太への告白の成功も確信しているようだった。
工藤が航太に会ってから一年以上が経っているが、その間に二人はこそこそ会っていたのだろう。少し考えてから、工藤は宰に尋ねる。
「それで、狩野田は航ちゃんとヤッたの」
「ヤッ………!?!?」
「あ、いいや。分かった」
一瞬で真っ赤になった宰に、工藤はすべてを悟った。宰と航太の関係は、引くほどに清らかなのだ。
このご時世に、ハタチを越えたアルファとオメガのふたりが、身体の関係もなしに逢瀬を重ねている。ある意味天然記念物だ、と工藤はひとり感心していた。宰が負け惜しみのように「毎日連絡は取り合ってるし手も何度も繋いでる」とこぼすのに同情すら感じる。
「……まあ、あれだ」
工藤は頭を掻きながら宰を一瞥した。
「がんばってくれ」
「工藤……!」
「そして俺を巻き込むな」
絶対だぞ、と念押しして、工藤は六年間をともに過ごした友人を遠回しに励ましたのだった。
◆◆◆
宰が航太に「試験が受かったら告白する」宣言をして一年と少し。
宰は、それまで以上に心を込めて航太に接した。東京と大阪の距離がもどかしかったが、それでも月に一度は必ず時間を作って航太に会いに行った。
街をぶらぶらと歩いて、食事を取って、話すだけ。健全なふたりの逢瀬は細々と続いた。
しかし、告白する、と予告されて以降、航太は明らかに宰を意識するようになっていた。
宰をじっと見つめることが増え、ふとした瞬間に身体が触れると慌てて離れようとする。
人混みを歩くとき、宰がおずおずと手を伸ばせば、航太は顔を赤くしながら素直に指を組んでくれた。
——これはもう、蜜月と呼んでいいのではないか?
宰はそのたびに人生の春を感じていた。
航太への想いを留めておけなくなった宰は、日本最大級の某文章投稿サイトで「Kちゃんと僕」というエッセイを連載するようになった。
——Kちゃんはまばゆい
評判は上々だったが、Twatter上の宣伝メッセージからその投稿を知った航太から「今すぐ消せ」とこっぴどく叱られる結果になった。
それをきっかけに、航太がTwatterをこっそり見ていたことが宰の知るところとなったが、慌てふためく航太をよそに、宰は大喜びだった。「僕もその気持ちは分かるよ」と言うと、航太は複雑そうな顔をした。
連絡はほぼ毎日交わされた。
社会人はやはりストレスが溜まるようで、航太は時折張りのない声で電話に出た。
宰はその都度航太に明るく話しかけた。
その内容はいつもトンチンカンな近況報告だったが、中身の無さがかえって航太を慰めた。
宰が自信を失いそうなとき、航太は電話越しで静かに「がんばろう」と声を掛けた。
「がんばれ」ではなく、「がんばろう」と寄り添った言い方をする航ちゃんの優しさが好きだ。宰は震えるようにそう思った。
宰は航太に見合う男になるべく努力をした。
実習では相変わらず空回ることが多かったが、決して手を抜かなかった。
試験勉強も、これまでにないほど入念に取り組んだ。
元々能力は高かったが、それに甘んじてはいけないと思った。
早く試験を受けたいと気が急いて仕方なかったが、スーパーアルファの力を持ってしても試験日を前倒しすることは不可能だった。
しかし、満を持してその日はやって来た。
医師国家試験合格発表の日である。
宰は体調を万全にしてその瞬間を待った。
ネット社会の現代において、合格発表はネットでも閲覧することができた。
工藤からは絶えず「緊張する」「死んでしまう」とLIMEメッセージが届いていたが、宰はすべてスルーした。
今この瞬間、宰にとって工藤との友情は、ハムより薄かった。
そして、その瞬間は来た。
宰には合格する自信があったが、それでも身体は強張る。
サイトを開き、表示された数字のなかから自分のものを探す。
「あ……」
1026番。
その数字が間違いなく書かれていた。
宰の自信の理由はここにもあった。
受験番号がちょっと「先ズル」の語呂合わせっぽかったのである。
「受かった……」
呆然と宰は呟いた。
スマホをテーブルに置くと、喜びのあまり天へ向かって拳を突き上げた。彼は、医師としてスタートラインに立ったのである。
「受かった、受かったぞ……!」
徐々に表情を緩ませながら、宰は自身のベッドへ近付き、かがんでベッド下へ手を伸ばした。
分厚く堅いたしかな感触が、そこにはある。
宰はそれを取り出して深呼吸をした。
「遂にこれを使うときが……」
三十万円が貯まる本。
鈍器のようなそれは、五百円玉貯金をするための往年のおもしろブックであった。
裕福な家庭に育ちながらも堅実だった宰は、少年期からせっせとこの本に五百円玉を貯め続けていたのだった。
いつか大事なときが来たら使おう。
幼気な少年はいつしか幼気な青年になり、今このとき、その「大事なとき」を迎えようとしていた。
宰は貯金本を開く。
最後のページに、一枚分の空白があった。
宰はポケットから一枚の五百円玉を取り出し、そっとその空白を埋め、囁く。
「Checkmate……」
そこに、三十万円の価値を持った本が誕生したのである。
口のなかで、宰は笑った。彼はこれを、航太のために使おうと考えていた。航太の、いや、航太に告白する最高の
「はっ!?」
そのとき、テーブルの上のスマホが鳴り出した。
慌てて手に取ると、発信元の名前に息が止まりそうだった。
動揺したまま、宰はスマホを耳にあてた。
誰よりも愛おしい声が響く。
『宰?』
「航ちゃん、受かったよ!」
今日は人生最良の日だ、と打ち震えながら、宰は航太に告げた。
この日をずっと待っていたのだ。
会うたびに溢れそうになる想いを押し留めて、ずっと待っていた。
『そっか、おめでとう』
がんばってたもんな、と安心したように航太が笑う。宰は言葉に詰まった。あれこれ考えたプランをすっ飛ばして、すぐにでも「好きだ」と言ってしまいたかった。
しかし、それより先に、航太が口を開いた。
『……おれも、連絡したよ』
「え?」
『もうかなり前だから、宰は覚えてないかもしれないけど』
それを聞いて即座に、宰の鋭敏な頭脳は「かなり前」がいつかを突き止めていた。
航太が初めて大阪を訪れた日。
風間と工藤とともに、お好み焼き屋で飲んだ後、冷たい風に頬を拭かれながら交わした会話を思い出す。
わずかに絡んだ指先と、隣から香る甘い空気。あのとき宰は、航太に告げた。
——もし航ちゃんが、僕のことをちょっとでも良いと思うことがあったら。
まさか、覚えていたなんて。
驚いて目を見張る宰の耳元で、航太は小さく息を吐いてから、言った。
『宰が良いと思ったから、連絡した』
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