第25話 【2年2ヶ月後】トライアンドエラー



宰は、航太に会うと予定しているときは、必ず精神統一をすると決めていた。



航太の前で紳士的に振る舞うため、雑念を払い、思考をクリアな状態にしておく必要があるからだ。

彼は幼少期に父から教わった狩野田家式の瞑想を実践しようとした。


——丹田を意識し、大地の呼吸を感じて自然と一体になるべし——


しかし今日の宰には、それができなかった。

彼の頭は雑念まみれであったためだ。

ほぼ徹夜で刺激的な知識を吸収し続けた彼は、もはや煩悩の塊であった。


そしてその煩悩は、航太を目の前にすると余計にひどいものとなった。


「……なんか今日変じゃない?」

「え!」

「まあいつも変か……」


宰はできるだけ航太と目を合わせないようにしていた。ネイビーのダッフルコートに身を包み、冷気に頬を赤くした航太を相変わらずかわいいと思ったが、その姿を直視することはできなかった。


——航ちゃんが、あんな、あんな淫らな官能小説を……。


純朴な雰囲気の航太が、隠れて淫靡な本を読んでいたと考えるだけで、宰の胸は激しく高鳴った。そういうギャップは大歓迎だとすら思った。


運命の相手とつがう方法を学んでいたなんて。何を想ってあの本を購入したのか。そしてどんな気持ちで、あの扇情的な内容を読んだのか。宰の豊かな想像力は留まるところを知らなかった。 


そんな内情を知る由もない航太は、駅を出ると首をすくめて身震いする。


「大阪も結構寒いね」

「そ、そうだね……」


そのとき宰は気付いた。

航太はコートを着込んでいるものの、首元はがら空きだった。頭ひとつ分背の高い宰からは、そのうなじがよく見えた。

前に会ったときよりも襟足が1ミリ、いや、0.8ミリほど短くなっているような気がする。


——うなじの手入れは怠らないで。あなたにとって、いえ、ふたりにとって、一番セクシーな場所よ。


官能小説の一節が頭に浮かび、宰は衝撃にわなないた。航太が一番セクシーな場所を、手入れした上で自分に晒している。

あまりにもあからさまなアピールに、彼は額に手を当てた。想い人は、宰が思う以上に積極的だったのだ。


「な、なんてことだ……」

「何か言った?」

「航ちゃん!!!!」

「えっ」


宰は自分の首のマフラーをほどくと、素早く航太に巻きつけた。突然の行動に目を見開く航太に目線を合わせて、そっと囁く。


「だめじゃないか……。こんな、人の多いところで……」

「は? え? なにが?」

「これを取ったらだめだよ」


大衆の面前に運命のつがいのセクシーポイントを晒すわけにはいけない。宰はその信念のもとに厳重にマフラーをぐるぐる巻きにした。そしてあごまで埋まった仕上がりに満足し、静かに頷く。


これはこれでめちゃくちゃかわいい。

うなじも守られる。

しかし巻かれた航太は不満そうだった。


「そこまで寒くないんだけど」

「航ちゃん、大阪は恐ろしいところだ。油断したらその瞬間にやられる」

「えっ、そうなの」

「そうだ。早くここを離れよう」

「で、でもさ……」


航太は口ごもり、わずかに眉根を寄せた。

遠慮がちに向けられた視線が宰と合わさるのと同時に、航太の耳はじわじわと赤く染まった。消えそうな呟きが、冬の風に混じる。


「これさ、その」

「うん」

「宰の、匂いがする、から……」

「…………」

「落ち着かない……」

「…………クゥッ……!」


航ちゃん、君ってひとは。


宰は天を仰いだ。

百点満点中、五百満点だ。

そう心のなかで漏らしながら。


完璧な上目使いだった。

ぐうの音もでないほどにうちのめされた。


宰はこれまで、航太のことを銀河一かわいいと思っていた。

しかし、それは間違いだった。

彼から見た航太のかわいらしさは、もはや銀河系には収まらないものだった。


宰は諦めを込めてニヒルな笑みを浮かべる。

白旗を上げざるを得ない。

そんな気分だった。


「航ちゃん、僕の完敗だよ」

「え、なにが?」

「さすが僕の運命だ」

「いや、だから何の話?」


困惑の表情を浮かべる航太をよそに、宰は「ふふ」と笑いを漏らした。想い人がこれほど大胆にアプローチしてくれているのだ。応えなければ、男がすたる。


——相良先生、僕は今日、貴方の教えを破ってしまうかもしれません。


宰はそっと師へ懺悔した。

運命のつがいからの誘いの前では、心の師の教えも屈してしまう。


それらはすべて宰の思い込みだったのだが、徹夜明けのスーパーアルファの頭は、完全にハッピー&ハッピーモードに突入していた。


「航ちゃん」

「え、あ、え?」


宰は航太の手を取った。

冷えた指先を握り、航太の目を見つめる。

一年二ヶ月前、手の甲が触れ合っただけで頬を赤らめていた宰はそこにはいなかった。

ハッピーモードの彼は、根拠のない自信をもとに漢気おとこぎを見せようとしたのである。


一方で、航太は宰の極端な距離の詰め方に、慌てふためいていた。いつもより抑えられた声と表情のせいで、大人びて見えるのがまた良くない。整った顔に、マフラーを巻いてくる気遣い。そのマフラーからは甘く爽やかな香りがする。とどめに手を繋がれて、航太の頭はパンクしそうだった。


手を引かれて宰へ付いていくが、何が起こっているのかさっぱり分からない。

何か悪いものを食べたのかもしれないと思いつつ、航太は宰に声を掛けた。


「マ、マフラー外していい?」

「だめだよ、危ない」

「でも匂いが」

「航ちゃん」


宰は立ち止まり、航太に微笑む。

大人の余裕を感じさせる表情だった。


「僕の部屋まで、我慢して」

「…………」


航太は呆気に取られながらも、妙な迫力に気圧され、宰の言葉に頷いた。





◆◆◆





アパートに着いてからも、宰の様子はおかしいままだった。遠巻きに航太を眺めては、訳知り顔で「ふふ……ふふ……」と笑ってみせるのだ。


航太はその様子に薄気味悪さを感じ始めていた。宰が大人の落ち着きを持ち始めたわけではなく、ただ単にいつもよりヤバさの方向性が変わっただけだと気付く。


「きっと何か悪いものでも食べたに違いない」と結論づけ、航太はマフラーを取った。

自分好みの甘い匂いを嗅がされ続けて朦朧としかけたが、なんとか呼吸を落ち着かせる。


続いてコートを脱いだところで、宰が壁際でガタガタと物音を立て始めた。


「こ、航ちゃん!そんな……!」

「え?」

「急すぎるんじゃないかな……」

「なにが」

「僕は、その、まだ心の準備が……」

「…………」


航太はとりあえず宰を放置しておくことにした。宰が理解しがたい言動をしているときは下手に触れない方が良いということを、航太はこの二年間で学んでいた。


今回の目的物が収まっているであろう本棚に近付くと、教えられていたタイトルの背表紙がずらりと並んでいる。


「宰、これだよね」

「ふふ、航ちゃんは焦らすのがうまいな……」

「…………」


航太はこれも放置した。

そしてかなりのボリュームのシリーズに小さく息を吐く。


往年の名作「先生は運命なのにズルいッ!(通称先ズル)」完全版は全二十七巻で構成されている。

そもそも漫画を読むためだけに大阪に来るなんて、と航太は自嘲したが、くだんの「相良先生」なる者の存在を確かめてみたいと思った。


とりあえず、と第一巻を引き出すと、表紙には肩幅の広い男がこちらに向かってウインクしている絵が描かれていた。

その右肩にはソバージュをかけたヒロインらしき少女が、顔を赤らめて腰掛けている。

二人の目の中には星が散り、周囲には花が散っていた。


「ふっ……」


古いなこれ、言いかけて、航太は我慢した。

その丁寧な並べ方から、宰がこの漫画を大切にしていることが分かったからだ。

しかしまさか、少女漫画だったとは。

航太は以前「相良先生」をネット検索したときのことを思い出していた。

たしか、この肩幅のすごい男も出てきた気がする。


壁際でもそもそと蠢く宰を尻目に、航太はソファに腰掛け「先ズル」を読み始めた。










「航ちゃん、どう?」

「…………」


一時間後、どうやら航太が「その気」でコートを脱いだわけではないらしいと気付いた宰は、自身のバイブルを読みふける愛しいひとに嬉々と声を掛けた。自分が人生の指針としているものに興味を持ってもらえた事実に、宰は浮かれていた。


これに対し、なんとか第四巻まで読み進めていた航太は愕然としていた。

航太は基本的に少年漫画を読んで育ったため、少女漫画に触れる機会がなかった。

ただそれを差し引いても、「先ズル」を読み進めていくのは骨が折れた。


頻繁にポエムが入るためである。


「おっ、これはそろそろ展開が動くぞ」と思ってページをめくると、画面いっぱいに花弁が散り、相良先生とヒロイン・あけみによるポエム合戦が繰り広げられる。

それに相良先生の肩幅が、巻を進めるごとにじわじわと広くなっていくのが気になって仕方なかった。


——なぜポエムを詠むんだ? そしてなぜ肩幅が広がっていくんだ?


航太は一抹の不安を覚えた。

目の前で笑顔を浮かべる男は、この相良先生を心の師と定めているという。

今のところ全く相良先生に感銘を受けていない航太としては、宰の価値観自体を疑わざるを得なかった。


しかし航太は心根の優しい男だった。

子どものように目を輝かせ、「どう?」と尋ねてくる宰に「良さが全く理解できない」と返すほど非情にはなれなかった。


「……ちょっと休憩かな」

「コーヒーでも飲む?」

「うん」

「ちょっと待ってて」


宰はにっこりとそう言うと、上機嫌で台所へ向かった。普通の会話をしてるときは良いのに、と思いながら航太は脚を伸ばした。そこで爪先に、こつ、と何かが触れる。


覗き込めば、ローテーブルの下に一冊の本が転がっていた。嫌な予感を感じつつ、航太はそれを手に取る。


「これ……」


ピンクの表紙に散らばったハートマーク。

見覚えのある本だった。


「『ときめく、つがい方』……」

「あッ……!?」


航太の呟きに、宰は小さく悲鳴を上げ、次の瞬間にはその本を取り上げた。

真っ青になった宰に、航太は低い声を出す。


「宰、お前それ……」

「ち、違うんだ!」

「なにが」

「航ちゃんと、同じ本を読んでみたくて……」

「…………」

「…………」


頬を染める宰を見て、航太は諸々の事情を悟った。以前宰を部屋に上げたとき、偶然この本を見かけたに違いない。そしてこの内容を見て、宰は航太がつがうことに興味津々だと思い込んだのだ。それならば、今日の妙な行動にも頷けた。


航太は平坦な声で言う。


「……おれの部屋に置いてるのは、風間からもらったやつだよ」

「えっ」

「中身は読んでない」

「読んで、ない……?」

「うん」

「読んでない……」


宰はあんぐりと口を開け、それからふらふらと台所へと戻っていった。気まずい空気のなか、コーヒーを淹れる音が響く。


マグカップを二つ持って帰ってきた宰からは、浮かれた表情は消え失せていた。航太がつがい方を勉強していた、と思い込んでいたのは明らかだった。


複雑な気分になりながら、航太は「さんきゅ」とコーヒーを受け取る。

お互いソファの端に座り、湯気の立つコーヒーを啜った。


睡眠をほとんど取っていない宰は、「昼と夜は違う航ちゃん」像を打ち砕かれ、呆然としていた。そして唐突に、無防備に晒された白いうなじを思い出した。

寝不足は判断力を鈍らせる。宰は働かない頭のまま、思いついたとおりの言葉を口にした。


「航ちゃんは……その……」

「うん」

「アルファとつがうことに、興味はありますか?」

「え?」


それは考え得るなかで最悪の問いであった。

つがうという行為は、アルファとオメガにとって至極繊細な問題である。


航ちゃん! 僕とのエッチに興味がありますか?

そう尋ねるのと同義だった。

さすがの宰も、ぽかんと口を開いた航太を見て数コンマで己の過ちに気付いたが、すでに言葉は放たれた後だった。


「あっ」

「それって、どういう……?」

「あの、その、あの」


覆水盆に返らず。

宰は絶望し、心のなかで涙を流した。

彼は恋愛に関してはとことん本番に弱い男であった。

しかし航太は怒ることもなく、じっと宰を見つめ返してから、口を開く。


「宰は?」

「えっ」

「オメガとつがうこと、興味あるの」

「エッ……!?」


とてもあります、と心のなかで宰は叫んだが、すんでのところで飲み込んだ。

失態に失態を重ねる事態は避けたかった。

そしてその一方で、航太から直接的な問いを返されたことで、宰はどぎまぎもしていた。


航太はしばらく真面目な顔で黙り込んだ後、宰の方を向き、小さく、けれどはっきり言った。


「おれは、誰かとつがうとか、正直言ってまだ全然イメージできないけど」

「…………」

「……次に会ったとき、お前がほかのオメガとつがいになってたら、すごく腹立つと思う」

「……航ちゃん」


よく分かんないけど、と予防線を張ってから、航太はごまかすようにマグカップに口をつけた。


宰は動きの鈍い頭をフル回転させる。

彼の恋愛偏差値は赤子とほぼ同レベルであった。何の技術も持たない彼は、浮かんだ疑問をそのまま口にした。


「それはつまり、航ちゃんのなかで僕は結構良い線行ってるってこと?」

「……悪い線ではない」

「…………」


宰は数瞬動きを止めたあと、ふつふつと身体のうちから喜びが湧き上がるのを感じた。

悪い線ではない。

それはつまり、そういうことだ。


眉間に皺を寄せてコーヒーをちびちび飲む航太に、宰は胸がいっぱいになる。

素っ気なく、けれど真摯に言葉を返してくれる航太はやはり素敵な人だと思った。


歩み寄ってもらったぶん、こちらも行動で返さなければ。


宰はマグカップを置くと、思い切って航太のすぐ隣に座り直した。コーヒーよりもずっと頭を痺れさせる、航太の香り。驚いた丸い目が宰を見た。


航ちゃん、と宰は背筋を伸ばして言う。


「僕はまだ学生だ。だから、社会に出て、自分の力で稼いでる航ちゃんとはまだ対等になれてないと思う」


航太はマグカップを置き、黙ってそれを聞いていた。真面目に聞いてあげないとだめだ、と心の声がする。宰の緊張が伝わってくるようだった。


「来年の二月、国家試験があるんだ。それに受かったら、僕は研修医として働ける。一人前になるには、まだそれから何年かかかるけど」

「うん」

「けど、試験に受かったら、その」

「うん」


宰は手を伸ばして、航太の手を握った。

ここまでして良いものか、と珍しく冷静な自分が囁く。けれど航太が軽くそれを握り返したから、宰はそのまま言葉を続けた。


「改めて、ちゃんと航ちゃんに告白する」


宰の全身が強張っていた。

航太はそれに応えて小さく頷き、からかうような笑みを浮かべる。


「分かった」


ここで告白しないのが宰らしい、と航太は内心面白がっていた。

国家試験まであと一年ある。それが長いのか短いのかは、航太にはよく分からなかった。宰が表情を引き締めたまま続ける。


「一年間、航ちゃんにご納得いただけるまで、誠心誠意がんばりますので」

「……なんで敬語?」


一年前から告白の予告をする宰は、やっぱりおかしな奴だ。けれどそれは嫌ではない、と航太は思う。


「ちゃんとしたやつね」

「わ、分かりました!」

「だからなんで敬語なの」


航太が吹き出し、肩を震わせる。

そして無防備な笑顔を、宰は噛み締めるように見つめた。



手は、しばらく握られたままだった。










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