第24話 【2年2ヶ月後】禁断の書
狩野田宰は勉強熱心かつ好奇心旺盛なスーパーアルファだった。
彼は医学実習中の身ではあったが、実習に打ち込む一方で、その熱意と好奇心は運命のつがい——彼はそう信じてやまなかった——葉竹航太へ向かっていた。
宰はIQ250のスーパーアルファだ。
記憶力は抜群に良い。子どものころから、神経衰弱で彼に勝てる者はいなかった。
その記憶力が災いし、宰は、一度航太の部屋で見かけた本、『ときめく
航太が何を思い、あの本を本棚に並べていたのか。
そして、あの中身には何が記されているのか。
そこまで自制の効くタイプではない宰は、実習の帰りにアルジャンテを飛ばし、街一番の大きな本屋で例の本を購入した。
ポップを見ると、どうやらオメガを中心に売れている本らしい。
普段堅めの文芸書や専門書——彼は医学書はドイツ語原本で読むことを好んだ——にしか目を通さない宰には新鮮なものだった。
表紙にはピンクのハートが散っていて、宰は「航ちゃんがこれを手に持ってたらきっとかわいいな」とほくほくした気分になった。
アルジャンテと語り合いながら帰路につき、宰は深呼吸をしてからその本を手に取った。
航太と同じ知識を共有するという高揚感に胸が高鳴り、ページをめくる指はわずかに震える。
——第1章〜つがいに甘えてみちゃうゾ!〜
その章題に、宰のスズランの心は揺れた。
つがいに甘える。
宰は一瞬、
あのときの航ちゃんはえっちだった、と噛み締めるように思いながら、宰はページを進めた。
彼はそれまでの人生で、恋愛指南書のたぐいを読んだことがなかった。そのため、その内容が基本的にお花畑脳で読み進めるべきものであることも知らなかった。
——手を繋ぐときは、自分から指を絡めて。指の側面同士を擦り合わせて誘ったら、あなたのつがいはすぐに燃え上がるわ。
——おねだりは積極的に。できるだけ弱々しい声と上目づかいで「お願い」とただ一言。つがいの庇護欲を刺激するの。何をお願いするかは、あなたのセンス次第よ。
「…………」
宰は息を詰めて、語りかけるようなその文章を読み進めた。彼の眼球は今にも飛び出さんばかりであった。そして額に手を当てると、吐き出すように呟く。
「な、なんだこれは……」
こんなものを航太が読んだのかと思うと目眩がした。しかもまだ本は序盤だ。その後には、まだ数百ページが控えている。
宰は掠れた声で吐き出した。
「官能小説じゃないか……!」
だが、宰の熱意は本物だった。
愛しい航太がこれを読んだのだと思えば、その全てを吸収したいと思ったからだ。
ページをめくるごとに性的な記述は増え、そのたびに宰は意味もなく立ち上がって部屋を歩き回ったり、窓を開けて頭を冷やした。
それでも冷静になれないときは、外へ出てアルジャンテにその苦しみを聞いてもらった。
やっと最終章まで来たときには、宰は疲労困憊していた。外は白み始め、新しい朝が彼を照らし出す。
——さあ、つがいの前にあなたのうなじをさし出して。
——うなじの手入れは怠らないで。あなたにとって、いえ、ふたりにとって、一番セクシーな場所よ。
「おお、お、お……」
宰は頭を抱えて床を転がった。
彼の目蓋の裏には、何度か見た航太のうなじが浮かんでいた。
アルファにとって、オメガのうなじというのは特別な箇所だ。
ひと昔前までは首輪を着けるのが主流だったらしいが、今は世の中の価値観が変わり、ほとんどのオメガが特別な措置をせずに生きている。
航太と一緒にいるとき、宰の視線は無意識のうちにその箇所へ引き寄せられることがあった。アルファの本能がそうさせるのか、運命のつがいと感じている相手のうなじがまっさらであることに、宰は安堵を覚えていた。
傷ひとつない、柔らかそうな白いうなじ。
もし航太が、「その日」を待ち望んでそこを入念に手入れしてくれるのだとしたら。
宰が考えているよりも早く、航太が本当の意味でつがいになることを望んでいるのだとしたら。
妄想のなかの航太が、照れながら宰にうなじを晒す。
——
「あああああッ!」
あらぬ妄想に、宰は床の上を転げ回って身悶えた。血圧が上昇しすぎて血管が切れそうだった。もし航太がそんなことを言う事態になったら、と考えるだけで脳みそが焼けてしまう、と彼は悶える。
「落ち着け……Calm downだ……宰……」
不整脈を起こしそうな心臓を強く押さえながら、宰は掠れた声で呟いた。カーテンの隙間からは眩い光が差し込んでいる。
今日も太陽は昇った。
航太の眠る、東の空から。
航太と運命的に出会ってから二年。
初めは照れてばかりだった航太も、今ではだいぶ心を開いてくれているように思う。
特にここ最近は、電話越しによく笑ってくれるようになった。「宰」と呼ぶ声も、心なしか柔らかい。
航太の笑い声は、天上の歌声のごとく宰を癒した。航太との会話に飢えた宰は、歌唱音声合成ソフトを使い航太に近い声を作り出そうと試みたこともあったが、
——もっと航ちゃんの声が聞きたい。もっと近くに行きたい。
宰の恋心は大きく膨れ上がっていた。
東京と大阪という距離がもどかしかった。
もし時間が巻き戻せるのなら、東京の旧帝大に入りたい(彼の頭脳であればそれも容易だった)、そして航太の隣の部屋に引っ越したいと強く願った。
小鳥がさえずりを始めたころ、宰はふとあることに気が付いた。今読んだばかりの官能小説、もとい恋の指南書の内容を思い出す。
——手を繋ぐときは、自分から指を絡めて。
——おねだりは積極的に。できるだけ弱々しい声と上目づかいで「お願い」とただ一言。
「……まさか」
以前大阪に航太が来たとき、笑いながら指を擦り合わせてきたのは航太の方ではなかったか。つい二ヶ月前、航太は風間の
「そうか、そうだったのか……」
彼の脳は優秀だったが、寝不足と生来の本人の性格もあり、このときばかりは適切な仕事をしなかった。
「繋がった……!」
実際のところ何ひとつ繋がってはいないのだが、童貞の
テンションがアゲアゲになった宰は思った。
恋の指南書を本棚に置いたのも、航太なりのさりげないアピールだったのかもしれない、と。
宰は確信した。
航太も宰のことを、運命のつがいだと思ってくれている。そして将来のことを、宰が思うよりもずっと真剣に考えてくれている。
宰は低く唸りながら我が身を掻き抱いた。
航太への想いで張り裂けそうだった。
「航ちゃん、かわいい上に、勉強熱心だなんて……」
航太への好感度は留まることを知らなかった。素晴らしいつがいに出会えた喜びに、宰はまなじりに涙を浮かべる。
薄く明るくなった部屋のなかで、宰は自身の本棚に目をやった。完璧に並べた「先ズル」完全版全巻が、宰をじっと見返している。
「相良先生……、僕は……」
宰は眉根を寄せ、うつむいた。
心の師は、本当の愛は結婚後に交わすものだと言っていた。
けれど宰には自信がなかった。
愛するひとに本気で望まれたとき、果たして自分は拒否することができるのか。
理性を保ち続けることができるのか——。
その日は、航太が大阪へやって来る日だった。
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