第23話 【2年後】非表示保存




葉竹航太は、どちらかというと思い込みの強い人間だった。




釈然としないまま一晩を過ごした航太は、宰の「意中の人」についてある結論を出した。

宰が幾度となく口にしていた、相良さがら先生なる人物が、ズバリその人なのではないだろうか、と。


これまで航太は、宰がたびたび口にする「相良先生」のことを、大学の教授か何かだろうと思っていた。おそらく宰が尊敬している高名な先生なのだろうと、その程度にしか考えていなかった。


しかし、どうも宰の言動を見てみると、宰は相良先生とは随分親しいようだった。

時折話の合間に宰が「相良先生はこう言っていた」「相良先生なら多分そうする」とぼそりと呟くことがよくあったし、冷凍庫に頭を突っ込んで「相良先生!」と連呼していた場面は恐怖とともに航太の記憶に焼き付いている。


つまり、「相良先生」は宰の行動指針になるほどの人物なのだ。


航太の見立てでは、宰は相良先生に強い憧れを抱いている。憧れから想いの種類が変わってもおかしくない。

そして相良先生が——アルファなのかオメガなのか、はたまたベータなのかは知らないが——宰を誘ったのだとしたら。


それで宰は浮かれているのではないか。

航太の推理はそこまで行き着いていた。


航太のなかでは「相良先生=宰の意中の人」の方程式が確立しつつあった。

そして航太の脳内では「相良先生」は年上のセクシーなお姉さんがイメージされていた。

年上のお姉さんに誘われる宰。

いかにもチョロそうな設定に航太はソワソワした。

このイメージは航太の勝手な考えでしかなかったが、一度思い込んだらその後頑として動かないのが航太の欠点であった。


ネットで某旧帝大に「相良先生」なる者がいないか検索してみたが、時折なぜか古い少女漫画の画像がヒットするだけで、目ぼしい情報は得られなかった。

航太はますます苛立った。


Twatterへの宰の投稿は二日前だった。

そして土曜日の今日、宰はやって来る。


——この二日間で「お誘い」に乗ったんじゃないだろうな。


航太は自覚なくカリカリしていた。

冷静な自分が「宰が誰とどうなろうと関係ないじゃないか」と囁いたが無視する。

関係ない関係ないと口にしながら、航太はとんでもなく宰の動向が気になっていた。


宰は昼頃に東京に着く新幹線でやって来る。

本来であれば迎えに行ってやるところだが、神経を尖らせた航太は時計と睨めっこしては「相良先生」の存在に想いを巡らせていた。


「……はっ!?」


ふと我にかえると、航太は窓のさんを雑巾で拭いていた。なぜこんなところまで掃除をする必要があるんだ、とゾッとする。


宰が来る日はいつもそうだ。

部屋に上げるつもりなんかないのに、気付けば無意識のうちに隅々まで磨き上げている自分が憎らしかった。


「違う……違うんだ……」


航太はぶつぶつ呟きながら雑巾を洗った。

これはあれだ、ちょっと前から気になってた窓の汚れを元々落とすつもりだったから拭いていたんだ、と無理な言い訳を自分に言い聞かせる。


そのとき、机の上に置いていたスマホが突然鳴り出した。時計を見れば宰が着くにはまだ早い時間だ。


手を拭いて鳴り続けるスマホを見ると、画面には「風間」と表示されている。

風間から土曜日に連絡が来るなんて珍しいことだった。昨夜は早めに帰らせたから、酒が抜けてないなんてことはないはず——小首を傾げながらも、航太は電話に出た。


「もしもし?かざ」

『航太』


耳元で響く風間の切羽詰まったその声に、航太は口をつぐんだ。電話越しに駅のホームのアナウンスに混じって、風間の苦しそうな息遣いが聞こえる。


その呼吸の荒さだけで、航太は風間の身に何が起こっているのかを悟った。


——風間は発情期ヒートを迎えている。


航太はスマホを耳に強く押し当てた。


「風間、彼氏は?」

『……あいつ、いま、実家帰ってて……』

「すぐ行く。どこに行けばいい?」


航太はコートを羽織りながら部屋を出た。

心臓が緊張でばくばくと鳴っている。


『××駅、の、いま、トイレ行くけど』

「分かった。電話は切らないで」


同じオメガだから分かる。

ひとりで、しかも外出先で発情期ヒートになってしまうことがどれほど恐ろしいか。

風間につがいがいてほかのアルファを誘わないとはいえ、自分の身体が突然言うことをきかなくなるというのは心細いのだ。


「抑制剤飲んだ?」

『……最近、持ち歩いてない。まだ来る時期じゃねぇんだけど……』

「そっか」


つがいを得たオメガの発情期ヒートがずれることはほとんどない。

風間は油断していたのだろう。

でも、彼が悪いわけではない。


風間は仕事が忙しいのだと言っていた。

今日だって土曜日なのに仕事だったのだろう。不安と心配で胸が締め付けられながら、航太は足早に駅へと向かった。


一瞬宰のことが頭に浮かんだが、それどころではないとスマホ越しに風間に呼びかける。


「大丈夫だから」

『……おう、ごめんな』


普段気丈な風間が明らかに弱っていることが、航太には辛かった。駅に向かう途中、何度かキャッチが入ったけれど、航太はスマホを耳から外すことができなかった。






◆◆◆






「風間」

「……航太」

「遅くなった。これ飲んで」

「……悪い」


風間は駅のトイレの個室に隠れていた。

もう冬になるというのに全身にびっしょり汗をかいていて、頬は紅潮している。

どろりと溶けた瞳は、オメガの航太から見ても艶かしい。

ただでさえ風間は容姿が良いのだ。

こんな状態で外にいたら、つがいの有無なんて関係なく不届き者に手を出されてしまう。

風間がうまく隠れられたことに安堵しながら、航太は持ってきた抑制剤を飲ませた。


ごくり、と喉が動いた後、風間は疲れ切ったように息を吐いて航太に寄りかかってきた。

航太はオメガだから、風間を襲わない。

風間が安心するその気持ちが、航太には手に取るように分かった。


「彼氏は? 連絡取れた?」

「うん……、夜には来てくれるって」


弱々しいながらも、風間の声には明るさが含まれていた。つがいさえ来てくれればひと安心だ。ただ、いつまでもここでこうしているわけにはいかない。


「風間、もう少し落ち着いたら動ける?」

「……たぶん」

「うちに来なよ」

「……そうする」


ごめん、と呟く風間は、相当参っているらしかった。抑制剤も普段飲んでいるものと違うのだろう、あまり効きが良くない。

風間を抱きかかえて行ってタクシーをうまく捕まえられれば良いが、ほぼ同じ体型の航太にはそれも難しい。なによりも、こんな状態の風間を人目に晒すことは避けたかった。


いくらオメガが社会的に認められているとはいえ、外で発情期ヒートを起こせば必ず周りからは好奇の目で見られる。

自己管理がなってないとか、あさましく欲しがってるだとか、そんな嫌な言葉を投げ付けられることだってある。


好きでこんな状態になるわけじゃない。

そう訴えたところで、本当の意味で理解してくれるのはオメガだけだ。


アルファやベータは、表面上は分かったふりをしてくれるが、オメガの疎外感は拭いきれない。


——せめて、抑制剤が効いてくれれば。


祈るような気持ちで航太がそう思ったとき、コートに突っ込んでいたスマホが震えた。


「…………」


相手が誰かはすぐ分かった。

風間を支えながら、航太は電話に出る。


『航ちゃん! 着いたよ!』


嫌になるくらい明るい声に、航太は思わず笑ってしまった。まだ呼吸の荒い風間はきつく目蓋を閉じている。


「…………」

『航ちゃん?』


航太は、張り詰めていたものが緩んでいくのを感じていた。宰と話していると、何もかもが馬鹿馬鹿しくなって肩の力が抜ける。


随分前、航太が発情期ヒートになったときも、宰は謎の忍耐力で耐えてくれた。

あれほど相性の合う香りで航太が誘ったというのに、最後まで手を出して来なかった。


無茶苦茶なアルファだ、と口のなかで笑うと、耳元で「何かあった?」と訝しむ声がした。


——こいつなら、大丈夫。


航太には確信があった。

理由はうまく言えないけれど、間違いなく大丈夫だという確信が。


「宰」

『はい!航ちゃん!』


本当、何なんだろう、こいつ。

航太は笑いながら、電話の向こうの男にそっと囁いた。


「お願いがあるんだ」





◆◆◆






駆けつけた宰は、航太の予想通り、風間の蕩け切った姿にはこれっぽっちもなびく様子がなかった。


「風間くん! 僕が来たからにはもう大丈夫だからね! なんてったって僕は医者の卵だからね!」

「……うるせえ、声でけぇよ」

「航ちゃん! 僕に任せて!」

「うん、まあ、もうちょっと静かに……」


航太に頼られた宰は絶好調だった。

なにせ航太からの初めての「お願い」だ。

音声を録音しておけば震えるような仕上がりの新曲ができたのに、と宰はこっそり落胆していた。


しかし航太に良いところを見せるチャンスだと、宰はできるだけ表情を引き締めて風間に対応した。


宰には基本的に航太しか見えていない。

そのため、一般的に見ればかなり妖艶な状態の風間を目の前にしても、彼の食指は一ミリたりとも動かなかったのである。


「風間くん、立てる?」

「……ギリギリ」

「さ! 僕に掴まって!」

「まじ声でけぇ……」


宰は着ていたコートをそっと風間の肩に掛けると、抱きかかえるようにして華奢な身体を立たせた。ふらふらと風間が身体をあずけ、宰はそれを当然のように支えてみせる。


「すぐタクシー拾うからね!」

「……おう、さんきゅ」

「ふふ、You're welcome!」

「なんで英語なんだよ気持ちわりぃな」

「…………」


寄り添う宰と風間を、航太はぼんやりと眺めていた。

見目麗しいふたりが、身体を寄せ合って立っている。やむを得ない事態だから仕方なく、という状況であることはもちろん航太も理解していた。


それなのに、あまりにもふたりの並び立つ姿がしっくり来すぎて——航太は喉の奥が焼けつくような感覚に襲われていた。

それは、生まれて初めて味わう種類のものだった。


「よし、ちょっとだけがんばろう! 風間くん!」


そう言って宰は風間の身体を引き寄せた。風間は素直にそれに従う。状況を考えれば、何の問題もない動作だった。

それなのに。


「……航ちゃん?」

「えっ」


航太はなぜか、宰の手首を掴んでいた。

風間を支える宰を邪魔するように、無意識のうちに手が伸びていたのだ。


「……あ、あれ、ごめん、間違った」

「そ、そっか!」

「…………」


よく分からない会話を交わすふたりを、風間は目を細めて眺める。諸々を察している風間にとっては、何とも言えない気分だった。


ぎくしゃくした雰囲気のなか、三人はトイレを出てタクシープールへ向かった。

明らかに不調そうな風間の様子に無遠慮な視線が飛んできたが、宰がコートを引き上げて風間の顔を隠す。

オメガを気遣った、嬉しい配慮だった。

けれど航太はふたりから視線を剥がし、うつむいたままふたりの後を追う。


発情期ヒートを迎えたときよりも、ずっと苦しい。ひっそりとそう思った。


航太は自分の感情を持て余していた。

そしてその想いの正体に、うっすらと気付き始めていた。






◆◆◆






その後、三人はなんとか航太の部屋にたどり着いた。


陽が落ち、酷く慌てた様子で風間の恋人が訪ねてきたころには発情期ヒートの症状はだいぶ収まっていたが、それでも恋人は半泣きで風間に何度も謝っていた。


一方の風間は、航太が見たこともないくらい優しい顔をしていた。風間の恋人は宰と航太にもぺこぺこと頭を下げた後、ふたりは寄り添うように帰って行った。


部屋には、宰と航太だけが残される。


「…………」

「…………」


なんとなく気まずい雰囲気が流れた。

そんななか、先に口を開いたのは航太だった。


「宰」

「はい航ちゃん!」

「ありがとう」

「……っあ」


遠慮がちな航太の微笑みに、宰はその場に倒れ込みそうになった。

ありがとう、ありがとう……と脳内で航太の声を反芻し、的確な行いをした自分を褒め称えたくなった。


喜びに痺れる宰に向かって、航太は重ねて聞く。


「相良先生って」

「え?」

「相良先生って、誰」


航太のモヤモヤは限界に達していた。

問い詰めるような自分の口調に嫌気が差したが、胸のなかに黒い澱みが溜まっていくのをこれ以上耐えられなかった。


宰は動転した。

たしかに相良先生の名前は時々口にしていたが、少女漫画を読んでいることを遠回しに航太に責められているのかと思ったからだ。


しかし宰は紳士なスーパーアルファだった。

運命のつがいに、嘘はつけない。

そう判断し、彼は正直に告白した。


「……航ちゃん」

「うん」

「……相良先生は、相良先生は……『先生は運命なのにズルいッ!』の相良先生です」

「……は?」

「僕の心の師なんだ」

「え、え?」

「……完全版、うちにあるけど航ちゃんも読む?」

「…………」


話し合いの結果、「先ズル」を読むという謎のミッションは、次回の航太の大阪行きの理由となって、その日は終わった。





後日、発情期ヒートを終えた風間から航太宛に、画像付きでメッセージが届いた。


——この前のお礼。ドクター狩野田、やるよ。


画像を開けば、以前一度だけ目にした宰の写真がこちらを見ている。風間がからかうつもりでそれを送ってきたということはすぐ分かった。あの日、妙な言動をした自覚は航太にもあったからだ。


航太は返信の内容に迷った後、息を深く吐いてから、やけくそでメッセージを送った。



——ありがとう。



そして送り付けられてきた新米医師の写真は、非表示フォルダに保存した。

他の誰にも、見られないように。




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