第22話 【2年後】ブロマイド



「……宰がまともになってしまった気がする」

「良いことじゃん」

「そうなんだけど、困る」

「なんで?」

「分かんないけどとても困ってる」


葉竹航太は苦悩していた。


これまでの人生を割とのんびりと過ごしてきた彼にとっては、かつてないほどの苦悩だった。いつものごとく居酒屋で風間と飲んでいた航太は、信頼できるオメガ仲間に、その胸の内を打ち明けていた。


風間は軟骨の唐揚げをバリバリと噛み砕きながら、呆れたように言う。


「何がいやなんだよ。元ストーカーだったけど心を入れ替えたんだろ? おめでとう早く付き合え」

「風間ぁ……」


その元ストーカーという肩書きが重すぎるのだ、と航太はため息を吐いた。


そう、宰はまともな人間になりつつあった。

LIMEのメッセージの長さはかつての三分の一まで縮まったし、会話のキャッチボールも成り立つようになったし——明らかにかつてよりも奇行が減っている。


少なくとも航太はそう思っていた。


その影で宰が航太の部屋の空気を持ち帰っていたことや、航太の部屋の1/16スケールのレプリカを製作していることを知らないがゆえの考えであった。

ついでに言えば、宰が風間から秘密裏に入手した航太の写真でオリジナルミュージックビデオを作り上げたことや、それを自室の天井に投射して毎晩楽しんでいることも、航太は知らなかった。

知らぬが仏とはまさにこのことである。


とにかく航太から見た宰は「まともなα」になりつつあった。

航太の心は激しく波立っていた。

なによりもあの夏の日——宰に突然抱き締められてからというもの、航太は自分の感情の波に翻弄されるようになってしまった。


なぜあの日、抱き締められたのか。

それを考えれば考えるほど、航太の挙動はおかしくなった。先輩社員の神田が目ざとく航太の異変に気付き、「何か良いことでもあった?」などと尋ねてきたから余計に不審な動きをするようになってしまった。


難しい顔をする航太を見て、風間は楽しげに笑う。


「いいじゃんいいじゃん。医者のイケメンアルファ」

「だからそういうのじゃ……」

「面倒くせぇなあ〜、一発ヤッてみればいいだろ」

「ヤ……ッ!?!?」


航太は声を裏返らせた後、自分の口を塞いだ。辺りを窺いながら、露骨な発言の風間に囁く。


「……お、お前そういうのは、ふ、ふしだらだろ……」

「昭和かお前は」

「風間が変なこと言うから」

「どんだけ箱入りなんだよ」


赤面した航太を諭すように、風間は言った。


「航太、お前も二十三だろ。自分のためにもそろそろ誰かとつがうこと考えた方いいって」

「それは……」

「全然知らない奴に噛まれたらどうすんの」

「…………」


それはつがいを持たないオメガには、延々と付き纏う問題であった。

いくら抑制剤でコントロールしたとしても、体調を崩せば発情期ヒートはいつでも起こり得る。つがいを持たないオメガは不安定なのだ。


もしそれが外出先で、近くにアルファがいたとしたら。見ず知らずの相手と本能のままにつがってしまうという事故も、絶対ないとは言い切れない。


「変な奴とつがうよりは……うん、まあ狩野田は変な奴だけど、性格が悪くない変な奴だったらまだマシだろ」

「そんな消去法で仕方なくみたいな……」

「ほかに相手なんていないくせに贅沢言うな」

「うっ」


風間の言うとおりだった。これまで誰とも航太は「お付き合い」というイベントを経験したことがない。正直言って、何がどうなれば交際関係が始まるのかすら分からなかった。


宰はたしかに悪い奴ではないが、かと言って「お付き合い」ができるかと問われれば航太にはどうにも結論が出ないのだ。


風間に言い返そうとして視線をやると、いつもより酒の進みが遅いことに航太は気が付いた。表情にも色濃く疲労の色が見て取れる。


「……風間、疲れてる? 大丈夫?」

「大丈夫だから飲みに来てんだろ」

「今日は早く帰りなよ」

「それは俺が決める」


深酒されると俺が大変なんだけど、という言葉を航太は飲み込んだ。疲れていても誰かと飲みたい気分のときはある。


今日こそはほどほどで切り上げよう、と航太が考えていると、風間は悪戯っぽい微笑みを浮かべながら言った。


「ていうかさ、航太。俺があげたあの本読んだ?」

「……読んでない。何だよあれ」

「恋愛部門のベストセラーだぞ。あれで恋愛が何たるかを勉強しろ」

「どこ開いてもかゆすぎて読めない」


風間が航太へ渡したのは『ときめくつがい方〜運命の番を見つけたあなたへ〜』というタイトルのオメガ向け恋愛指南書だった。

ハートとピンクが飛び交う表紙に慄きながらも、一度はページをめくってみた航太だったが、「第1章〜つがいに甘えてみちゃうゾ!〜」の章題を見た瞬間具合が悪くなった。

あまりにも中身がスウィーツで、航太が読むにはカロリーが重すぎた。風間が航太をからかうためだけに渡してきたことは明らかだ。


その本は、読まれることなく航太の部屋の本棚に立ててある。おそらく、この先二度と開くことはないであろう。


「わがまま言うんじゃないわよ航太くん」とふざけながら、風間はけらけらと笑った。

そしてふと思いついたように、アーモンド形の目を瞬かせる。


「じゃあ航太。お前の真意を試してやる」

「は?」

「もし、俺が次の発情期ヒートで狩野田と寝るって言ったらどうする?」


航太は一瞬固まった。

宰と、風間が。

耳に入った言葉がうまく処理できず、しばらく言葉が出ない。なんとか意味を噛み砕いたころには、耳の奥にはじんと痺れるような不快な違和感があった。


「……風間はつがいがいるから、ほかのアルファとは、その、できないだろ」

「どうかな〜。拒否反応は出るだろうけど、やろうと思えばできないこともない」

「不誠実だよ。そんな、彼氏がいるのに」

「はは、だから『もし』だって」


怒るなよ、とたしなめられて初めて、航太は自分の眉間に皺が寄っていることに気が付いた。その理由がよく分からないまま、航太は知らず力が入っていた肩をすくめる。


「……怒ってないし」

「ふーん」

「なんだよ」

「なんでもないけど?」


にやにやと笑いながら、風間はスマホを取り出していじり始めた。ある一点で指を止めると、航太を見つめて試すような口調で言う。


「ドクター狩野田、見せてやろうか?」

「……ん?」

「実習中の狩野田の写真。寄越せっていったら送ってきた」

「え」


航太が再び固まっている間に、風間は「じゃじゃーん」とスマホの画面を見せつけてきた。

そこにはネイビーのスクラブを身に着け、こちらへ向かって爽やかに笑いかける宰が映っている。


航太は動揺した。

そして動揺する自分に重ねて動揺した。


スクラブを着た宰は、実習中とはいえきちんと医者に見えた。穏やかで優しそうな、まともな医者に。


画面に釘付けになった航太に満足げな顔をして、風間はすぐにスマホを引っ込めてしまう。


「あっ」

「この写真やろっか?」

「え……」

「欲しいならやるけど」

「い、いらない!」


反射的に航太は首を横に振った。

欲しいわけがない。

ちょっと物珍しくてじっくり見てしまっただけだ。


航太が平静を装っておしぼりを丁寧に畳み始めたのを見て、風間は笑いを噛み殺した。

そして分かりやすすぎる友人に忠告する。


「何が引っかかってんのか知らねぇけど、狩野田の気持ちが変わらないなんて保証は無いんだからな」


航太は口の中でもごもご言った後、黙りこんだ。保証があるなんて思ってない。別にそんな期待はしていない。


その後の飲みは、いつもよりかなり早く切り上げられたのだった。





◆◆◆





自宅に帰った航太は、ひたすらモヤモヤしていた。あれこれ言われたせいで考えがまとまらない。


そしてよりによってこのタイミングで、明日宰がまた東京へやって来るのだ。

ここ最近は月イチペースで会っている。

会って何をするというわけでもない。

飯を食って、宰のズレた話を聞いて、それに呆れて終わりだ。


「…………」


航太は机に向かうと、おもむろにノートパソコンを開いた。とにかく状況を整理しなければ、とある意味混乱した考えのもと、彼は覚えたての表計算ソフトでこれまでの時系列を作成し始める。モヤモヤの理由を突き止めたかった。





キャルメリに妙なレビューを書かれる。

すべての商品を一瞬で買い占められる。

妙なメッセージが送りつけられてくる。

和歌を詠まれる。

妙な荷物(今思えばうなぎパイ)を送りつけてくる。

突然電話をかけてくる。

なぜかチャリで押しかけてくる。


そこまで作ったあたりで航太の頭は痛み始めた。あのころ味わった恐怖を、まざまざと思い出してしまったからだ。宰の奇行を書き出せば書き出すほど、最近上がりつつあった好感度は急速に冷えていった。


——おれはなぜこんな奴と会ってるんだ?


航太には分からなかった。

でも宰は、発情期ヒートになった航太に手を出さないどころか面倒を診てくれたり、就活のときにさりげなく励ましてくれたりもした。


大阪の夜に交わした会話。

夏にアルジャンテを探したあの日のこと。


「おお、おご……」


うっかりそのときのことを思い出してしまって、航太は額を机にごんごんとぶつけた。

羞恥やら何やらが入り乱れていたたまれない気持ちになる。


もうやめて寝よう、とスマホを手に取ったところで、航太はふと風間に見せられたドクター狩野田の写真を思い出した。


「…………」


別にもう少し見たかったとかそういうわけでは絶対ない。ただ、数秒しか見ていないから。よく見えなかったから。


自分自身によく分からない言い訳をしながら、航太の指はTwatterを開いていた。

ドクター狩野田の写真が投稿されているとは限らなかったが、ただなんとなく、あくまで近況の確認のためという名目で指を滑らせる。


久しぶりに見た宰のアカウントには、ここ数日、連続で投稿がされていた。






◆◆◆






ツカサ@top_of_theWorld411

最近少し、悩んでいます。



ツカサ@top_of_theWorld411

みんなはこういうとき、どうするのかな。



ツカサ@top_of_theWorld411

直感に耳を澄ましてみる。

でも時々、僕の直感は沈黙してしまう。



ツカサ@top_of_theWorld411

胸が苦しい。

でも、この苦しみもまた、愛の証。



ツカサ@top_of_theWorld411

え〜い! 思い切って質問です(^^)v



ツカサ@top_of_theWorld411

皆さんは意中の人からお誘いを受けたらどうしますか…?

おっと!ちなみに「お誘い」というのは大人な意味ですのであしからず…(^^)

照れますね笑



ツカサ@top_of_theWorld411

うーん、こういう質問は落ち着きませんね笑

Calm down…TSUKASA…(^^)






◆◆◆






「……は?」


航太は人生で一番低い声を出した。


意中の人からのお誘い。

大人な意味でのお誘い。


なんだこれは。

一体どういう意味だ。


もちろん航太が大人なお誘いをした覚えなど無い。今回会うのだって、食事をして終わる予定だ。それなのに、この問いはなんだ。


「意中の人……」


宰は自分に好意を寄せているものだと、航太は思っていた。運命のつがいだの銀河一かわいいだの、そんな言葉を投げつけられていたのだから。


投稿したメッセージには「もちろんお誘いは受けるでしょ」や「据え膳食わぬは恥」といった宰を後押しする返信が付いていた。

航太は胸のなかが澱んでいく感覚を覚えて画面を閉じる。


——狩野田の気持ちが変わらないなんて保証は無いんだからな。


風間の言葉がふとよぎった。


出会ってから二年。

普段は東京と大阪で離れている。

そんなオメガに、アルファはいつまでもこだわるだろうか。


こだわるのをやめたとしたら。

宰に新しく「意中の人」ができて、その相手から誘いを受けているのだとしたら。


「……別に、関係ないし」


なんだか酷くムカムカして、航太はスマホを机の上に放ってベッドに入った。


——関係ない。おれには全然関係ない。


いつもならすぐに眠りにつけるのになぜか目が冴えてしまい、航太は腹いせに、枕を何度もぼすぼすと殴りつけたのだった。




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