第21話 【2年後】マウンティング






狩野田宰は調子に乗りやすい男だった。



あの初夏の日、勢いで航太を抱き締めてからというもの、彼の調子はうなぎ上りであった。愛しいひとを抱き寄せた感触を何度も思い返しながら、彼は夜な夜なだらしない笑みを浮かべた。


あの日、航太は赤くなりながらも、宰を拒絶しなかったという事実が彼の自信となった。

抱き締めた後に照れて口数が少なくなった航太の姿は、宰のキュンキュンポインツを的確に突いたのである。


しょぼくれる前よりも更にパワーアップした宰は、航太に余裕を見せつけるようになった。以前のような長文でグイグイ大作戦を改め、航太との会話をゆったりと楽しむ、大人な雰囲気を身に付けたのである。


この言動はもちろん、往年の名作「先生は運命なのにズルいッ!(通称先ズル)」の相良先生を真似たものだった。


これが航太に効果抜群だった。


そもそも航太から見た宰の好感度は、ド底辺からスタートしている。

これは宰にとって幸運だった。

ド底辺の好感度ということは後は下がりようがない、つまり上がるしかないのである。

多少イレギュラーな減点があったとしても、好感度は基本的に加点式だった。


宰は手応えを感じていた。

LIMEの回数制限などすでにあって無いようなものだ。航太と出会ってから目覚めた宰の第六感「航ちゃんがそろそろ帰ってくる時間かもセンサー」はそれまで以上に鋭敏になった。電話をかけるたび、航太が言葉少なに照れるのが可愛らしかった。


実際のところ、徐々に精度の上がる宰の電話のタイミングに航太は怯えていたのだが、恋するスーパーアルファにそれを察する繊細さはなかった。


とにかく、宰は調子に乗っていた。

友人に自身の恋模様を吹聴するほどにノリノリだった。


「航ちゃん、脈ありだと思うんだ」

「まあ、生きてるから脈はあるわな」


「バイタルサイン正常」と呟きながら、工藤は鉄板の上の肉をひっくり返す。


実習にだいぶ慣れた宰と工藤は、大学近くの焼肉屋にいた。

工藤はやつれていた。いや、彼だけではなくすべての学生にとって、実習は過酷なものだった。同年の学部生で元気満点なのは、恋に浮かれてノリノリの宰くらいのものだった。


「どうしたんだ工藤、ノリが悪い」

「……俺は結構根に持ってるんだからな」

「それはすまなかった。だからこそのお詫びの焼肉じゃないか」

「…………」


工藤は恨めしそうな視線を宰に投げかけながら、肉を自分の皿へ取る。


航太との愛の語らいに夢中になっていた宰は、実習中にメンタルを破壊されていた工藤からのメッセージを、しばらくないがしろにしていたのだった。

粗末な扱いを受けた工藤は憤慨していた。


不本意とはいえど、あれほど航太との仲を取り持ってやったというのにこの仕打ち。

愚痴のひとつくらい聞いてくれ、と送っても「never give up!(^^)v」としか返してこない宰を、工藤は激しく憎んだ。

工藤の心はかつての穏やかさを失っていた。


そして工藤の怒りが頂点に達しかけたころ、宰はやっとメッセージに応じたのである。

工藤からあれこれ恨み言を叩きつけられた宰は、大人の余裕で以って焼肉をおごることにしたのだった。


「さあ、遠慮なくどんどん食べてくれ」

「食べ放題だからな」


工藤が黙々と肉を頬張っていると、宰が突然指を一本立ててみせる。

これ見よがしなドヤ顔に冷たい視線を返したが、宰は構わずしゃべり出した。


「月イチペースだ」

「……なにが」

「航ちゃんと僕の逢瀬だ。今はもう月イチで会ってる」

「へー」


工藤はまったく気のない返事をした。

タブレットで追加注文をした後、また鉄板に集中し始める。その間にもスーパーアルファの自慢は続いた。


「航ちゃんは徐々に僕を意識しているんじゃないかな。やはり相良先生の振る舞いをリスペクトしているのが良いんだと思う」

「へー」

「この前なんて、ふふ、久しぶりに航ちゃんの部屋に上げてもらってね……」

「へー」

「航ちゃんの淹れてくれたホットココア……あの味が忘れられないんだ……。ふふ、愛がこもっていたからかな……?」

「へー」


工藤は鉄板の上の肉をすべて自分の方へ寄せた。こいつに食わせる肉はない。そんな冷えた心で、彼は黙々と食べ進める。


宰は頭の周りに花を飛ばしていた。恋は視界を狭くする。宰に悪気はなく、あくまでも工藤に「幸せをお裾分け」くらいの親切気分だった。


宰は食べることも忘れて一方的にしゃべり続けた。

航太とご飯を一緒に食べたこと。

航太が駅まで迎えに来てくれるようになったこと。

そっと微笑みかけると、愛おしいひとの頬は紅色に染まること……。


うっとりと語る宰を無視しながら、工藤は一人で焼肉を楽しんでいた。そしてふと宰の座る傍らに目をやると、普段使いにしては大きなボストンバッグが置かれていることに気付く。


「……お前、そんなバッグ持ってたっけ」

「おっと! 気付いてしまったかな?」


待ってましたと言わんばかりの宰のテンションに、工藤は苦々しい気分になった。

久々に話すとこいつめちゃくちゃウザいな、と思いつつ顔を伏せようとしたが、宰は「やれやれ」とため息をつきながらバッグを掲げてみせる。


「工藤、中に何が入ってるか知りたいか?」

「いや別に」

「これだ」


工藤の意思はあっけなく無視された。

宰は口で「ドゥルルルル……」とドラムロールを奏でながら、バッグのなかから透明な密閉袋を取り出してみせる。

ぱんぱんに空気の詰められたそれを一瞥して、工藤は礼儀としてとりあえずの問いを投げかけてみた。


「……何それ」

「ふふふ、聞いて驚くなよ」

「あっ、やっぱりいらない」

「航ちゃんの部屋の空気だ」

「…………」


工藤の胃が痛むのは肉の脂のせいではなかった。彼の脳裏には、以前出会った航太の顔が浮かんでいた。

少し幼い顔立ちの、純粋そうな男だった。

それこそ、優しい言葉をかけたら簡単に信じてしまいそうな。


宰は見目の良い顔を綻ばせつつ、誇らしげに言う。


「航ちゃんの部屋に行ったときに、ちょっとだけいただいてきたんだ」

「…………」

「本当は二つあったんだけど、一つは道端で楽しんでるときにお巡りさんに声をかけられて没収されてしまってね。もったいないけれど、彼らは仕事熱心ですばらしいと思う」

「…………」


工藤は手で顔を覆った。

ただの空気をどう楽しんだのかは聞きたくなかった。そして自分がこんな男に弱音を吐こうとした事実が恥ずかしかった。


しばしの熟考のあと、工藤は顔を上げた。

その瞳に迷いはなかった。


「……狩野田、それちょっと貸して」

「ふふ、羨ましいのか工藤」

「いいからちょっと貸して」

「仕方ないな、丁重に扱ってくれ」


宰は泡沫シャボンをすくうかのような丁重さで、愛おしさの詰まった密閉袋を工藤へ手渡した。工藤ならば、この儚い重みの尊さを理解してくれるという信頼に裏打ちされた行為だった。


工藤は無表情でそれを受け取った。

そして肉切りバサミを手に取るやいなや、「よいしょ」との掛け声とともに密閉袋に突き立てたのだ。ぷしゅう、という気の抜けた音が二人の間を通り抜けた。


「ああああああああああっ!?」

「お前は医者になる前に入院しろ」

「何をしてるんだ工藤!!」


宰は取り乱しながら密閉袋——もはやそれは袋ではなかった——をそのかいなにかき抱いたが、そこに含まれていた儚い空気は、肉の焼ける香ばしい香りと混ざり合い、消えていった。


「き、君は鬼なのか……ッ!?」

「一般常識に照らして当然のことをした」

「信じられない……! 人間不信になりそうだ……!」


宰はそう呟くと、単なるビニールと成り果てたそれを再び抱き締める。


工藤はハサミを元の場所におさめると、冷たい態度のまま口を開いた。


「狩野田さぁ、いつまで航ちゃんと清いお友だちやってんの。ていうか友達かどうかも怪しいけど」

「……どういうことだ」

「航ちゃんと付き合いたいならこんなアホなことやってないで白黒つければいいだろ」

「つ、付き合うって……」


純粋ピュアなスーパーアルファは頬を赤らめた。

たしかに航太とともに行き着きたいのはその関係だが、宰はこのどっちつかずな関係を楽しんでもいた。

どぎまぎする二人だけの逢瀬は、宰にとっては少女漫画で学んだ以上にロマンティックかつ刺激的だった。


その反応を見て、工藤は呆れたように続ける。


「そんなんでつがいになれんの」

「なれる! 僕と航ちゃんは運命のつがいだぞ!」

「この調子じゃセックスとか絶対無理そう」

「セッ……!?!?」


宰はわなわなと唇を震わせると、顔を真っ赤にして「しょ、食事中だぞ」と工藤に囁いた。およそ二十三歳の見せる反応ではなかった。


宰は純粋培養のスーパーアルファだ。

彼がバイブルとする「先ズル」は全年齢対象であるため、キスシーンがMAXの性描写であった。


もちろん狩野田少年も年相応にそういったことには興味があった。

しかし彼は律儀な男であった。

十八の歳になるその瞬間まで、彼はアダルトな画像および動画を避け続けたのである。

ネットに氾濫するそれらを誤って目にしてしまったときは、素早く目を逸らし青空を見る——彼はそんな不器用な硬派であった。


十八の誕生日を迎えたその日、宰は高鳴る胸を抑え、真っ先にレンタルビデオ店の暖簾をくぐった。その先には肌色が氾濫していた。あまりの刺激の強さに、彼はめまいを覚えて何も借りずに帰ったほどである。


宰ももちろん、「つがいになる」という行為が何を指すのかは知っていた。しかし彼は、あけすけな猥談を好まなかった。十八まで自らを律した彼は、俗に言うむっつりになっていたのである。


工藤は宰のその態度を見ると、眉根をひそめて尋ねた。


「……狩野田さぁ、好きな子だと逆に抜けないタイプ?」

「抜け……っ!? ななななんということを聞くんだ君は!!」

「あー、やっぱりそういう感じか……」

「変なことを聞かないでくれ……。ぼ、僕は航ちゃんを……ちゃんと純粋な目で見ているんだから……」


これは真っ赤な嘘であった。


甘く馴染む香りはもちろんのこと、航太は何から何まで宰のドタイプである。

健全な男である宰は、航太には気付かれぬよう細心の注意を払いつつ、よこしまな想いを抱いていた。


なによりも航太の部屋で起こった発情期ヒート事件が、宰としては激アツだった。

発情してオメガとしての本能を剥き出しにした航太の姿を、宰の脳はしっかりと記憶していた。

そして宰は、その姿を何度も反芻しては噛み締めていた。彼の脳内では、日々航太とのめくるめく展開が巻き起こっているのである。


宰はその胸の内を工藤に悟られぬよう、必死に余裕の笑みを浮かべた。


「ま、まあいずれにせよ、工藤にはまだ早い話だな……」

「は?」

「つがう、とか、そういう話は……まだ早い……」


しどろもどろな宰に、工藤は口をつぐんだ後、素っ気なく真実を告げる。


「俺、童貞じゃないけど」

「……なに?」

「二回生のとき彼女いたし」

「工藤、なぜ嘘をつくんだ」

「いやまじで」


宰の頭は真っ白になった。医学部に入って以降、工藤に女の影はなかった。いや、ないと思っていた。


しかし鬼の所業をする工藤のことだ。

友人に隠れてこそこそと女性と乳繰り合っていたという可能性も十分考えられた。


宰は激しく動揺した。

この短時間で二度までも工藤に裏切られるとは予想していなかったからだ。


「ふしだらだぞ!! 工藤!!」

「いやなんでだよ」

「そ、そんな、君、それは、こ、婚前交渉じゃないか……!!」

「みんなしてるし」

「みんな!? どこのみんなだ!! ここに連れてきなさい!!」

「面倒くせぇなぁ……」

「ああッ!! 世の中の風紀はいつからこんな乱れてしまったんだ!!」


大袈裟に嘆いてみせる宰を無視して、工藤は引き続き肉を焼いた。ジュウジュウと小気味良い音に混じる宰の呻き声を聴きながら、工藤の心は少しずつ晴れていく。






対する宰は苦悩のなかでもひとつの疑問を抱いていた。


——もしかして、こ、婚前交渉は済ませておくのが普通なのか?


疑問の理由は、工藤の言葉以外にももう一つあった。


前回航太の部屋を訪ねたときのことである。


東京の街で突然雨に振られた宰と航太は、やむを得ず一旦航太のアパートへ逃げ込んだのだった。


別室で着替える航太の気配にそわそわしながら、宰は何の気なしに部屋のなかを見渡した。前回訪れたときはお互い冷静ではなかったから、ゆっくり部屋の様子を見ることもなかった。航太の部屋の隅には机が置かれていて、その脇には小さいながらも本棚があった。


好きな人がどんな本を読むのか知りたい。

そんな些細な好奇心で、宰は本棚に近寄った。


航太は意外にもミステリーを好むようだった。シリーズものの背表紙が並び——そのなかに隠れるようにして立てられたある一冊が宰の視線を奪った。


宰は何度もそのタイトルを見返した後、ひどい混乱と狼狽に見舞われ、結果として見なかったことにした。


しかし。


宰は思い返す。


——もしかしたら、航ちゃんも、そういったアレを望んでいるのではないか?

——もしかして、僕は航ちゃんに試されたのではないか?


そう思うといても立ってもいられなかった。

宰の胸は期待と不安ではち切れそうだった。


一冊だけ目立つピンクの背表紙には、丸ゴシック体でこう書いてあったのだ。





『ときめくつがい方〜運命の番を見つけたあなたへ〜』




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