第20話 【1年8ヶ月後】Le sourire d'ange 〜天使の微笑み





ドアが開き宰の顔を見た瞬間、航太は後悔と羞恥の入り乱れた気分になった。


宰はひどく驚いていた。

当たり前だ。何の連絡もなしに家を訪ねるだなんて、長らく宰をストーカー呼ばわりしていた航太にとって、あるまじき行為だった。


これでは逆ストーカーではないか、と航太の顔は熱くなる。そしてふわりと漂う甘い香りは、何度でも彼を複雑な気分にさせた。


宰は呆然と航太を見つめたまま、その名前を呼ぶ。


「航ちゃん……」

「べ、別に……」

「別に?」

「…………」


別に、なんだと言うのか。

航太はうつむいて黙り込んだ。


Twatterでの投稿を見てからというもの、航太はどうにも落ち着かなくなってしまった。


「だめかもしれない」とは、一体何が。

もしかしたら、おれがブロックしたせいで?

いやでも、あいつにとってブロックなんて挨拶みたいなもんだし。いやでも、実習で疲れてるという話じゃなかったか?

しかし部屋の空気を詰めて送れと言われたら、即刻連絡を絶つのが普通の感覚ではないだろうか?

そもそも、普通とは、一体。


ぐるぐるとひとりで悩んでみても結論は出なかった。LIMEには相変わらず既読すらつかない。万が一、最悪の事態が起こっているとしたら。


——ちょっと、確かめに行くだけだ。


そう思い、航太は衝動的に新幹線に乗った。

何度も送りつけられたうなぎパイの段ボールを、ゴミに出し忘れていたのが幸いした。その送り状に書かれた住所を頼りに、航太はついに宰の住むアパートを訪ねてしまったのだ。


しばらくの沈黙の後、航太は菓子の入った紙袋を宰に押し付けた。


「……これ、東京土産」

「あ、ありがとう……」


土産を受け取った宰は、相変わらず目を白黒させていた。航太は居た堪れなかったが、よく見れば以前会ったときよりも宰がやつれていることに気が付いた。

開口一番に「元気そうじゃん」などと言ってみたものの、どうやらそうでもないらしい。


「……航ちゃん」

「ん?」

「上がってく……?」


いつになく弱々しいその態度に、航太は違和感を感じた。ウザいくらいのハツラツさが失われている。


「……上がってく」


念のため、一応念のためではあるが、今回は抑制剤もあらかじめ飲んできていた。以前のような事故は起こらないはずだ。


少しだけ緊張しながら、航太は宰の部屋へ初めて足を踏み入れたのだった。




◆◆◆




「アルジャンテが盗まれた?」


航太が驚いて聞き返すと、肩を落とした宰はしょんぼりと頷いた。


宰の部屋はこざっぱりと片付いていて、リビングの中央には洒落たガラスのローテーブルが置かれている。航太はそれを挟んで宰と話をしていたが、部屋の主は人が変わったように大人しかった。宰がアルジャンテを大切にしてことは事実だが、憔悴の理由がそれだけではないということは察しがつく。


「まあ、これでも食べて」

「うん、ありがとう……」


航太は自分が持ってきた手土産を宰に勧めた。おそらく最もメジャーな東京土産であろうバナナ型の菓子をもそもそと頬張りながらも、宰は視線を落としたままだ。


調子が狂う、と頭を掻きながら航太は小さく息を吐いた。


「宰、スマホ壊れてんの」

「え? 壊れてないよ、どうして?」

「いや、だって……」

「うん」

「LIMEの返事、なかったし……」


ぼそぼそと呟く航太を不思議そうに見た後、宰はバッグに手を伸ばしてスマホを取り出した。久しぶりにLIMEを開くと、なんと航太から数日前に「元気?」と送られてきているではないか。


宰の元気指数は五十ほど上がった。


ついでに工藤から「死んでしまう」とメッセージが来ていたが、これは見なかったことにして画面を閉じた。


「航ちゃん、もしかして僕を心配して……?」

「え、違うけど……。でも、返事ないから」

「嬉しい、ありがとう! 不安にさせてごめんね!」

「……だから違うって」


目を逸らして航太はそう言うが、宰は「航ちゃんが心配してくれていた!」という事実で胸を高鳴らせていた。


——航ちゃんはなんて優しいんだろう。まさに地上に降り立った天使だ。


宰は単純な男であった。

航太の想いに応えるべく、宰は恥を忍んでここ最近の自分の現状について説明した。


四年間学んできた知識が無駄だったこと。

一線で自分は役に立たないこと。

アルジャンテの誘拐でとどめを刺され、最近ではスマホを見る気力すらなかったこと。

話していくうちに宰の元気指数はじわじわと下がり、また表情を曇らせる。


「僕は、自惚れていたのかもしれない……」

「…………」


今度は航太が驚く番だった。

まさか宰が、同世代らしい悩みを抱えているとは思わなかった。宰はいつも「僕はスーパーアルファだから」とくり返し、いつも自信に満ちていたから、こうして普通に落ち込むのが意外だった。


宰が力なく微笑みながら言う。


「でも航ちゃんが会いに来てくれて、元気が出たよ」

「……うん」


あくまでも普通の人っぽい反応をする宰に、航太はそわそわした。ついでに、この部屋は宰の匂いがして落ち着かない。

部屋の隅に置かれた段ボールがなぜか大きなビニール袋で包まれているのが少し気になったが、じろじろと見るのもよくないと思い視線を剥がした。


気まずい沈黙が流れて、航太は慌てて口を開く。


「うん、まあ、あれだよ」

「ん?」

「みんな、はじめはそんなもんだって言うし、おれもコピー機に毎日心折られてるし」

「コピー機」

「うん、コピー機……」

「…………」

「…………」


おれは大阪まで来て何を言っているんだ。

航太は自分の慰め下手加減に腹を立てていた。


一方の宰は「航ちゃんが励ましてくれてる!」と目を輝かせ、元気度指数を八十ほど上げていたのだが、航太はそれを知るよしもない。


航太は宰に少なからず恩義を感じていた。

航太が就活をしていたころ、宰に自覚はないにしろ随分励ましてもらったからだ。あれが無ければ、航太だって潰れていたかもしれない。幸い今回は、航太の方が元気だった。


航太は心を決めると、勢いよく立ち上がり言った。


「よし! 探しに行こう!」

「え?」

「アルジャンテだよ」


宰は目を丸くするのを認めながら、航太は早口で続ける。


「チャリで行けるところなんて限られてるんだから、探せば見つかるよ」

「でも、東京とかまで行ってたら……」

「……そんなことするのお前くらいしかいないと思う」


航太が思わず突っ込むと、宰はなぜか照れたように頬を掻いた。

いや、褒めたわけじゃないんだけど、と呆れつつも、航太は宰の手を引いて立たせる。それでも宰の表情はどこか晴れない。


「航ちゃん。でももう僕も随分探したんだ」

「違う人間の目で探せば見つかるかもしれないじゃん」

「…………」


宰は航太の言葉にじんわりと胸が温かくなるのを感じていた。正直言うと、優しさが染みてちょっと泣きそうになったが、彼はスーパーアルファだったため、ぐっと我慢した。

何より、銀河一かわいい航太が真剣な表情をしているのが新鮮で、まばたきすらもったいないと思ったのだ。


航太に再度促されて、宰は外へ出る。

午後の日射しが照りつけるなか、航太は宰に尋ねた。


「アルジャンテって……なんか特徴あったっけ」

「後輪の泥除けのところにステッカーを貼ってあるから、見ればすぐ分かるんだ」

「ステッカー?」

「黒地に赤色の字で……こう、筆記体で『Arjante《アルジャンテ》&TSUKASA』、と」

「ダッ……!」


ダッセー! という言葉を、航太はすんでのところで飲み込んだ。

まさか宰がアルジャンテオリジナルステッカーを作っているとは予想していなかった。


しかし宰の感覚ではきっと最高にイケているのだろう。ただでさえしょぼくれている宰に追い討ちをかけるのはさすがに気が引けた。


「絶対見つかるって」


根拠はなかったがそんな気がして、航太は足を踏み出した。


その背中を見て、宰は震えるように思った。


——やっぱり航ちゃん、めちゃくちゃかわいいな、と。





◆◆◆





こうして、二人によるアルジャンテ捜索が始まった。


病院の近くのコンビニから始まり、アパートやマンションの駐輪場、路地裏に至るまで手分けして探してみたが、気高き銀色の身体にはお目にかかれなかった。


「航ちゃん……」

「やっぱり駅かな」

「駅はこの前見たけどなかったんだ」

「この前はなくても今日はあるかも」


航太は前向きだった。

そして宰はといえば、実のところ航太の横顔をチラチラ見ながら捜索を続けていたため、まったく身が入っていなかった。


航太が「おかしいなぁ」と言うたび内心「かわいい!」と歓喜の声を上げ、「違うところにあるかもしれない」と難しい顔を作るたび心のなかで「ヨッ! 名探偵!」と合いの手を入れた。


彼がこれらの声をギリギリ外に出さなかったのは、ひとえに先日のLIMEブロックがこたえていたためである。

さすがの宰も、真面目にアルジャンテを探す航太に合いの手を入れるべきではないとうっすら分かった。


恋はときに残酷である。

宰の心から本来の目的は失われかけていた。


そんな不真面目な宰の心のうちを知らない航太は、あちこち視線を巡らせてはアルジャンテを探した。







陽が傾き始めても、捜索は続いていた。

二人は三箇所目の駅の駐輪場を見回っていた。宰は指示されるがまま、航太から少し離れた場所で無数に立ち並ぶ自転車を眺める。


身が入っていないことを途中で航太に見抜かれてからというもの、宰は一定の距離を置いての捜索を命じられたのだった。


ということで宰も、真面目にアルジャンテを探していた。


アルジャンテに似た自転車は腐るほどあったが、そのどれも宰に語りかけてはくれなかった。宰はひと目見ればそれが戦友ともが分かると確信があった。

たとえステッカーを剥がされようが、ばらばらの部品にされようが関係ない。

宰のこゝろはアルジャンテとともにあるからだ。


時折自転車の群れに向かって「アルジャンテ……!」と呼びかけてみることもあったが、真顔の航太から「まじでやめて」と止められてからはその衝動もぐっと耐えた。

航太は照れ屋さんなのだ。


しかし捜索が始まってからもう数時間が経つ。宰は航太の気持ちが嬉しかったが、これ以上は諦めた方がいいと思っていた。


——もういいよ、航ちゃん。


そう、呼びかけようとしたときだった。


「宰!」


航太がぱっと明るい顔をして、宰を手招きしたのだ。


「ほら! いたよ、アルジャンテ!」

「えっ!」

「こっち!」


宰は長い脚を動かし、航太のもとへ駆け寄った。


乱雑に並べられた自転車のなかに、見覚えのある赤字のステッカーが燦然と輝いている。


「ア、アルジャンテ……」


宰はよろよろとそれに近付いた。

その身体に手で触れた瞬間、宰は理解わかった。

自身の片割れ。

いくつもの旅をともにした相棒。


それは間違いなく、探し求めていた戦友ともだった。


「これだよね?」

「うん……。アルジャンテ、こんなところに……」


アルジャンテの身体を起こすと、「やっと見つけてくれたか」と言わんばかりに銀色が鮮やかに煌いた。宰の目頭は知らず熱くなる。そして、途中でほんの少しだけアルジャンテを忘れかけた事実に良心を痛めた。


アルジャンテは無傷だった。

少し砂埃を被ってはいたものの、パンクもせず、フレームも曲がっておらず、すぐにでも走り出せそうな状態だった。


「よかった、壊れてなかったね」

「…………」


宰は言葉が出なかった。

正直のところ、もうアルジャンテのことは諦めかけていたからだ。


数え切れないほどの自転車が行き交う街なのだ。いくら探したって見つかるはずがない。そう思っていたのに。


宰がアルジャンテを立たせると、傍らで航太が得意げに言った。


「だから見つかるって言ったじゃん」


それは、天使の微笑みだった。


航太の額には汗が浮かんでいる。

七月の日射しは熱い。蒸し暑い見知らぬ土地で、航太は真剣にアルジャンテを探してくれた。


宰の胸は名前のつけようのない感情でいっぱいになる。ここ数ヶ月の辛さや悲しみが、すべて溶け出していくようだった。


——やっぱり航ちゃんは、銀河一素敵なひとだ。


そう思った次の瞬間、宰の身体は勝手に動いた。


「うぇっ!」

「…………」

「え、え? え?」


宰は航太を抱き締めていた。


普段の宰の考えでいけばこれは二段飛ばしくらいのルール違反なのだが、どうしても気持ちが抑えられなかった。


「な、なに、なになに、何やってんの!」


腕のなかで航太がじたばたと暴れる。

遠くを行き交う人の視線と、近すぎる体温の熱さに、航太は顔を真っ赤にした。

背中に回る宰の腕には、抜け出せないくらいの力が込められている。


——なぜ、なぜだ。なぜこのタイミングでこうなる。


航太は自分の脳がぐらぐらと煮え立つのを感じていた。耳のすぐ脇で、宰が囁く。


「航ちゃん」

「え」

「ありがとう」

「…………」


あまりにも真摯な声色に、航太は固まった。

こんな風に誰かに抱き締められたことはない。宰に負けないくらい、航太もまた恋愛経験値が低かった。これまで感じた以上に、宰の香りが甘く感じる。


「わ、わかったから、ちょっと、離して」


ばくばくと動き始めた心臓を知られたくなくて腕を突っぱねると、意外にも宰は「いきなりごめん」とあっさり腕を解いてくれた。

そしてあろうことか、航太に優しく微笑んできたのである。


「……な、なに笑ってんの」

「本当にありがとう、航ちゃん」

「……………」

「航ちゃんのおかげだ」


常識的な振る舞いを見せる宰に、航太は口をつぐみ動揺した。


誰だお前は。

そんなキャラじゃなかっただろ。

ストーカー気質のやばい奴だったじゃん。


そうなじりたいくらいに、宰は大人びた雰囲気を纏っていた。


「ふ、ふーん。あっそ……」


謎の相槌を打ち、航太は宰に背を向けて歩き出した。不思議そうな声がすぐさま背後からかかる。


「航ちゃん、そっち逆方向だよ」

「……知ってる!」


回れ右をして、航太はずかずかと歩みを進めた。そのすぐ横を、アルジャンテを引く宰が歩く。

ちらりと顔を見ると余裕綽々の様子でこちらを見つめ返してくる宰に、航太はまた落ち着かない気持ちになった。


——こいつがキラキラして見えるなんて、そんなわけがない。


何かの間違いだ、と自分に言い聞かせながら、航太は黙々と足を動かした。

ちょっとハグをされた程度で揺らぐような、チョロい奴だと思われたくないという気持ちからだ。


航太は自分の心がグラグラに揺れていることにまるで気付いていなかった。


そしてその日、航太は「お礼がしたい」と言う宰を振り切って、あたふたと新幹線で東京へ戻ったのだった。


アルジャンテを取り戻した宰は、それから気持ちを入れ直し、引き続き実習に熱心に励んだ。


彼の気持ちは、もはや揺らがぬものとなっていた。


一方の航太は、その後一週間ほど、まるで仕事に身が入らなかったという。







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