第19話 【1年8ヶ月後】金剛石のなみだ
狩野田宰の心は
硬度も輝きもピカイチの心である。
これまで
そう、できないはずだった。
某旧帝大の医学部五回生となった彼は、附属病院での臨床実習を始めていた。
もちろん、宰はとてつもなく張り切っていた。四年間の学生生活で学んだ知識を生かし、世のため人のためとなる第一歩を踏み出せるのだと信じていた。
そしてゆくゆくは立派な医者となり、航太に「つっくん、素敵……」と言ってもらおうという野望を燃やしていた。
しかし彼は純粋すぎるがゆえに無知であった。
第一線で求められるのは知識ではなかった。
一に経験、二に経験、三四がなくて五に経験である。
宰が学んだ知識は何の役にも立たなかった。
当然ながら患者は生き物である。
同じケースもなければ参考書通りの症状など滅多にお目にかかれない。
宰は当初内科に配属されたが、そこでは運悪く我が強い患者にばかり当たった。
強気な患者と純粋培養のスーパーアルファの相性はすこぶる悪かった。
薬を飲んでも血圧が下がらないと騒ぐクレーマー気質の患者に「そのようにしょっちゅうお怒りになるのが原因かと思われます」ととびきりの笑顔で告げるのが宰だった。
宰は空気が読めないだけではなく、空気を凍りつかせる腕も一流だった。
いまいち実感をもてないまま七月に入り、宰は救急外来での実習へと移った。
そこはまさしく戦場だった。
休むまもなく患者が運び込まれ、診断がつく前にまた消防からの受入依頼の電話が鳴る。
宰にできることは何一つなかった。
できることといえば、ベテランの看護師に指示されるままに、あちこち駆けずり回って雑用をこなすくらいであった。
それでも、宰は航太とのやり取りに日々癒されていた。航太のゆったりとした話し方は、宰の心を張り切らせる。しかし不幸なことに、張り切るほどに彼は空回りをした。
救急において、最もおそろしいのは夜だった。その時間帯に切り替わった瞬間、ただでさえピリついた空気はさらに緊張感が増す。スタッフ達は息を殺し、一晩が過ぎるのをじっと待つのだ。
その日は急患が極端に少なかった。
何事も楽観的な宰は、何の気無しに先輩医師に笑顔で話しかける。
「今日は平和なまま終わりそうですね!」
その言葉を宰が発した瞬間、スタッフ一同は凍りついた。恐ろしいものでも見るように、宰を睨みつけている。空気の読めない選手権上位者の宰でも、さすがにその緊迫具合には気が付いた。
ベテランの看護師が、恨めしそうに眉をひそめながら告げる。
「……狩野田先生」
「はい!」
「我々夜勤をする者はね、
「……言霊?」
それは夜勤者にとって暗黙の了解であった。
「今日は平和」や「今日は暇」。
その言葉は絶対に口にしてはならない。
なぜかは分からないが、誰かがその言葉を出せば、逆のことが起こる。
つまり、「平和」や「暇」の逆が……地獄がやって来るのだ。
こんな時代に言霊だなんて、と宰が笑い飛ばそうとしたその瞬間、けたたましく外線が鳴り響いた。
そして、地獄はやってきた。
これまでにないほどの数の患者が次々に運び込まれてきたのである。
すべてのスタッフの手が埋まり、宰も応急的にひとりで患者を診なければいけなくなった。やって来たのはまだ小学校にも上がらないくらいの子どもだった。突然腹痛を訴えたのだという。
宰には何も分からなかった。分からないまま時間だけが過ぎた。学んできた知識は宰を助けてはくれない。苦しむ患者を前に、宰はあまりにも無力だった。
「……狩野田先生は、何もしなくていいですよ」
朝日が上り皆がへとへとになったころ、ベテランの看護師はそう言った。
所詮実習生だから。
どれほど優秀だろうと、経験を持たない若者にできることは何もないことを周りのスタッフは知っていた。誰もが通る道だった。
しかし宰は責任感の強い男だった。
実習生という立場に甘んじて突っ立っていただけの自分を恥じ、自惚れを自覚した。
日に日に無力感に苛まれ始めた宰は、思い立って航太に一つの「お願い」をした。運命のつがいである航太の香りは、どんなエナジードリンクよりも宰の気力をみなぎらせる。出会った当初に贈られた衣類ももちろん大切にしていたが、追加で癒しが欲しくなったのだ。
宰としては常識の範囲内での「お願い」ではあったが、話の途中で無情にも彼はブロックされた。宰は珍しくへこんだ。癒しを手に入れられると期待していただけに、分かりやすくしょぼくれた。
そんな彼の心にトドメを刺す出来事があった。
歴戦の
事件は宰の夜勤明けに発覚した。
宰は迂闊だった。前日の出勤時、ささくれだった心で病院の駐輪場にアルジャンテを駐めた際に鍵をかけ忘れてしまったのだ。
不届き者は場所を選ばず現れる。
アルジャンテは、何者かによって盗まれたのだ。
宰は激しく取り乱した。
そして居てもたってもいられず駆け出した。
「アルジャンテ……ッ!」
宰は股下の長い脚をしゃかりき動かし、辺りを駆け回った。
しかし誇り高き
宰の心はボロボロだった。
これまでの人生で、人の悪意のおそろしさをこれほど感じたことはなかった。
彼にとってアルジャンテは血肉である。
幾度となくともに旅をし、喜びのときは笑い合い、悲しみのときはそっと慰めの言葉をかけた。
宰はアルジャンテをこの上なく大切にしていた。毎朝必ずその身体拭きあげ、定期的に健康診断にも連れて行った。多少白煙が上がるような無理な乗り方をしても、懐の深いアルジャンテは笑って許してくれる。宰は、彼のその大らかさを尊敬していた。
アルジャンテを奪われるということは、宰にとって四肢を千切られるのと同義であった。
病院の半径周囲二キロメートルを探し回ったころで、疲れ果てた宰は通りかかった警察官の前に飛び出し、すがりついた。
「お巡りさん! 助けてください!」
「な、なんや君ぃ!」
「アルジャンテが、アルジャンテが……ッ!」
「えっ、なに? アル……?」
錯乱した宰は、そのまま最寄りの交番へ連れて行かれた。
当初「アルジャンテが何者かに連れ去られた」とだけ宰が説明したために、外国人の絡む誘拐事件が発生したのではないかとその場は一時騒然となったが、よくよく話を進めるうちに、真実を知った警察官は渋い顔をした。
「えー、そんで、君のアル? アルベント?が」
「アルジャンテです……!」
「ああ、それな、うん」
「僕の、大切な
「……せ、せやな」
交番内の警察官たちは、宰の嘆きにしばし気圧され困惑した。
「薬物の係呼びますか?」という会話も秘密裏になされたが、結局宰はそれ以上追及されることなく、盗難届を出した後に帰された。
戻った自室で、宰は力なく座り込んだ。
彼の心には大きな穴が空いていた。
スーパーアルファとしての誇りは消え失せつつあった。
自信を失い、
悲しみとやり切れなさが宰を覆う。
——航ちゃんの声が聞きたい。
宰はそう思った。
心が萎れてしまった今だからこそ、あの柔らかく優しく銀河一かわいらしい声を聞きたいと願った。 そして航太の声さえ聞ければ、また元の自分に戻れると確信していた。
自分でremixした航太の声ではなく、肉声を聞きたかった。
「宰」と名前を呼んでもらえるだけでいい。
その周波数が鼓膜を震わすたび、宰は深い喜びを感じていた。
しかし現実として、宰はブロックされていた。普段は「航ちゃんは照れ屋さんだなぁ」とほっこりして終わるところだったが、このときばかりは航太の拒絶がこたえた。
ならば会いに行こうか、とも考えたが、実習のスケジュールを考えればそれも無理だった。そしてまた
宰はかつてないほどに追い詰められていた。
いっそ航太に手紙でもしたためようかとも思ったが、少し考えた後にそれはやめた。
——航ちゃんに弱音は吐きたくない。
それは男として、スーパーアルファとしての意地だった。好きなひとだからこそ、弱いところは見せたくない。航太から強い男だと思われたい。
「先ズル」の相良先生も十三巻二十五ページで言っていた。
——辛いときにこそ、クールに振る舞うのが真の男なのだ、と。
宰は航太から、これしきのことで潰れるような男だと思われるのは避けたかったのである。
しかし生まれて初めてどん底まで落ち込んだ宰は、そのやるせなさをどこへぶつけて良いのか分からなかった。宰以上にメンタルをやられている工藤は、使い物にならない。
ランニングをしようが、良質な睡眠を取ろうが晴れぬ悲しみに、宰はひとり沈んでいた。
そして救いを、Twatterに求めたのである。
彼の発信する呟きは不特定多数の目に触れるが、その相手のほとんどが顔すら知らない相手だと思うと、かえって気が楽だった。
なによりも投稿した言葉はすぐさま激流に飲まれて過ぎ去っていくという事実も、宰の後押しをした。航太がTwatterを見ているという頭はなかった。とにかく宰は、心にわだかまる気持ちを吐き出したかったのである。
ツカサ@top_of_theWorld411
僕はもう、だめかもしれません。
彼はそれだけを投稿した。
遠慮がちな「イイゾ」がいくつか付いたが、文字にしてしまったことで本当に自分がだめになったような気がして、すぐに画面を閉じた。
——こんなとき、アルジャンテがいたら。こんなとき、航ちゃんの声を聞けたら。
鬱々とした気分のまま、それでも宰は実習に全力を注いだ。
だが彼の全力は頻繁に空回りを続けた。
宰は、完全に自信を失っていた。
もはや彼にはスマホを見る余裕さえなかった。
夜勤明けの土曜日、宰は部屋のなかで大の字に倒れていた。
ランニングをして、コーヒーを飲み、野菜とタンパク質たっぷりの食事を摂る。
そうしなければいけないと分かっていたが、身体が思うように動かなかった。
——僕はだめ人間だったのだろうか。
彼の心は金剛石である。
金剛石の硬度は極めて高いが、一定の方向から衝撃を加えられれば、実際のところそれはとても脆かった。
航太の顔が浮かんでは消える。
彼にふさわしい自分になろうと努力してきたつもりだったが、すべて無駄だった。
相良先生の教えも守れなかった。
普段強く明るい人間に限って、一度折れるとドツボにハマりやすい。
立ち直るためのプロセスの経験値が足りないからだ。
宰は天井をぼんやりと見つめたまま動けなくなっていた。
インターホンが鳴ったのはそんなときだった。
「……?」
宅配便を頼んだ記憶はなかったし、誰かが訪ねてくる予定もない。宰は重い身体を起こし、ふらふらと玄関へ近付いた。
そこで宰はふと気付く。
肌の表面がぴりぴりと痺れるような感覚があった。覚えのある心地良い感覚だった。ドアの向こうから、甘やかな気配がする。
ドア越しの人物も、宰の足音に耳を澄ませていたらしい。ためらいがちな声が、その場に響いた。
「……宰?」
宰は己の耳を疑った。
それはこの世で一番愛らしい声、そして宰が朝のBGMにしてもなお聴き足りない声だった。
「おれ、だけど」
自分は夢でも見ているのだろうか。
そう思いながらも、震える手で、宰はドアを開ける。ガチャリ、という聞き慣れた音が、やけに新鮮に聞こえたのは気のせいだったかもしれない。
いるはずのない人が、そこにいた。
「……なんだよ、元気そうじゃん」
難しい顔をした航太が、宰を見つめてぼそりと呟いた。
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