社会人編

第18話 【1年8ヶ月後】密閉と懇願




「ええ……どこにも詰まってないじゃん……」


絶望的な気分で航太はコピー機の原稿カバーを閉じた。がちゃん、と物々しい音と憎らしく点滅する赤いランプ。どこを見たって、もう紙なんか詰まってない。

それなのになぜ、この巨大な機械が頑なに「紙詰まりエラー」と主張するのか、航太には分からなかった。


このペーパーレスの時代に逐一コピーなんて取らせるなんて、などと怒りの矛先は会社にまで向いてしまう。苛々と唇を噛みながら、航太は再びカバーを開いた。


就職して四ヶ月目に入った。会社の雰囲気は良い。仕事だって少しずつ覚えてきた。それなのに、このコピー機とは一向に仲良くなれそうにない。ちょっとコピーをかけたくらいで、すぐに甲高くピイピイ言い出すのだ。


ほかの人たちは難なく使っているところを見れば、どうやら航太限定で相性が悪いらしい。カバーを勢いよく閉めたところで、またランプが赤く点滅する。航太の苛々は限界を超えた。


「ああ! もう!」

「おー、珍しく荒れてんなぁ」


後ろからぬっと腕が伸びてきたかと思うと、その腕は航太が手を付けていなかった部分を開き、皺だらけになった紙を取り出してみせた。

まるで手品のようだ、とある種の感動を覚えながら、航太は振り返る。得意げに見下ろしてくる先輩社員が、とてつもなく徳の高い人間に見えた。


「……神田かんださん、すごいですね」

「すごいだろー。俺、コピーのプロだから」

「いや本当助かりました。ありがとうございます」

「そこはコピーのプロに突っ込んでくれよ」


からかうように言われて、航太は苦笑いした。三つ上の神田は、航太と同じ部署で働く明るい先輩だ。「コピーって意外と難しいよなあ」なんて呟きながら、面倒見よく航太がコピーをするのを見守っている。


「もう慣れた? 仕事」

「……くり返しやってるものは、大体。でもまだ全然です。すぐテンパっちゃって」

「まあでも進歩してるならいいじゃん」

「ありがとうございます」

「どういたしまして」


航太にとって、神田は絵に描いたようにできた先輩だった。ふざけることもあるけれど、仕事は早くて正確だから、部署のなかでも人望が厚い。


——一文字違うだけで、大違いだ。


ぼんやりと神田とよく似た名字の男を思い出し苦笑する。あいつが会社勤めなんてできるわけないか、と航太が内心笑いながらコピーを続けていると、突然後ろからうなじをそっと撫でられた。


「うぉっ!」

「うーん」

「な、何ですか……」

「ちょっとセクハラしてみた」

「え、は……?」


振り返って犯人を軽く睨めば、涼しげな笑みを返される。航太は釈然としない気持ちのまま、うなじを手で擦った。


社会に出てみると、すでに噛み跡のあるオメガが随分多いことに航太は気が付いた。


長く働いていく上では、つがいがいた方が絶対に良いことはもちろん理解している。発情期ヒートで穴を開ける期間があることを考えれば尚更だ。

神田は少し考えた後、軽い調子で尋ねてきた。


「葉竹、めぼしい相手はいないの?」

「え」


いない、と即答しようとして、航太は一瞬固まった。

つがいつがいとうるさい奴はいる。

でも「あれ」は、さすがに違う。


「い、いない、全然いないですよ」

「ふうん」

「……なんですか」

「別にぃ」


くすくすと笑って、神田は踵を返し立ち去ってしまった。神田はたまにこうして航太に、真意の読めない質問をしてくる。


これも社会人的なジョークなのかもしれない。そう思いつつも航太は、一瞬でもあの男が頭に思い浮かんだ自分に、頭を抱えた。






◆◆◆






その日の夜は、久々に風間と飲む約束をしていた。

就職を機に会う頻度はぐっと減ったが、同じ都内で働いていることもあり、月に一度は顔を合わせることができる。


乾杯、とジョッキを合わせると、風間は一気に中身をあおった。その勢いにひやひやしながらも、航太はメニューを広げる。社会人になっても、学生のころと同じく安価な大衆居酒屋を選ぶあたりが風間らしいと思った。


風間はジョッキを叩きつけるようにテーブルに置くと、血走った目で呪いの言葉を吐く。


「マジあのクソ親父殺す。来週になったらマジで殺すわ」

「また怒鳴られたの?」

「怒鳴られたよ。だから三倍にして怒鳴り返してやった。そしたらあいつ超ビビって震えてんの。ウケる」

「……ほどほどにね」


風間は社会に出ても強かった。

大手の商社に入った風間は、見目麗しい外見が悪目立ちして、つがいがいるにも関わらず頻繁に声を掛けられるらしい。

くだんのクソ親父——こと風間の上司も、アルファであることを笠に着てちょっかいを出してきたという。狂犬の風間はもちろんゴリゴリに噛み付いた。それ以来、上司との関係は最悪らしい。


「会社に相談した?」

「当たり前だろ。そしたらまあ、動いてくれそうな感じ。あいつはもう社会的に五百回は殺す」

「あんまり無理するなよ」

「さんきゅ」


風間が目を細めて笑ってみせる。黙っていれば、そして酒さえ入らなければ魅力的な男だ。容姿に恵まれすぎるのもひと苦労だ、と航太が思っていると、風間は何か思い出したように続けた。


「それにあのクソ親父、彼氏のことまでバカにしてきてさ。ヒモだのなんだのって」

「あー……」

「ヒモじゃねぇし。今にめちゃくちゃ売れるんだからな。頼まれても絶対サインやんねぇ」

「…………」


航太は返答に困り果て、仕方なくジョッキに口をつける。


風間のつがいは、売れない漫画家をやっているアルファだ。卒業間際に一度だけ会ったことがあるが、風間とは正反対の、モサッとした野暮ったい雰囲気の男だった。話しかけても、ぼそぼそと声が小さく聞き取れなかったことをよく覚えている。


しかしその男に、風間はベタ惚れだった。

文字通り、航太の目の前にも関わらず終始ベタべタしていた。人間は自分にないものに惹かれるというのは本当なのかもしれない。


一向に脚光を浴びる気配のないつがいのために、風間はせっせと働いている。

だめな男が好きとかそういうわけではなく、本気でつがいの才能を信じ切っているのだ。

「売れるまで描けば売れる」を合言葉に、風間は日々エールを送り続けている。


そこに航太が口出しできるはずもなかった。

そもそも既につがった関係なのだ。

本人たちが納得している以上、誰も二人を引き離すことはできない。前回飲んだときに「そろそろ籍でも入れっかな!」と言われたときは、さすがに航太も絶句したけれど。


風間は二杯目に手をつけながら、悪戯っぽく笑う。


「それで、航太は?」

「なにが」

「狩野田とどうなんだよ」

「は?」


目を見開いた航太に、風間は続けた。


「連絡取り合ってるんだろ。どうすんの」

「どうって、どうもしないよ」


たしかに宰との連絡は続いていた。

向こうは五回生となり実習が始まったようだが、相変わらずのテンションでせっせと長文を送ってくる。


「もういいんじゃねぇのー、あいつで」

「え、絶対やだ」

「多少のやべーところは目瞑ったらいいだろ」

「多少どころじゃないじゃん……」


風間だって反対してたくせに、と言えば当の本人は素知らぬ顔でビールをすする。

酒の勢いで宰と意気投合してからというもの、風間はすっかり毒されてしまった。

あの一晩で風間から宰への評価は「やべーけど良い奴」に変わったのだ。


航太としては裏切られた気分だった。

航太の常識では、「やべー奴」と「良い奴」はイコールにならないのだ。


「航太だってさあ、憎からず思ってるから連絡切れないんじゃねぇの」

「憎からずって」

「嫌なら無視すればいいだろ」

「まあ、そうだけど……」

「煮え切らねえな」


けたけた笑いながら飲み進める風間をやんわりと止めながら、航太はしばし考え込んだ。

あれこれ色々とあったものの、航太と宰はいまやほぼ毎日連絡を取り合っている。

「取り合っている」というよりは、一方的にメッセージを送りつけられているのが正しいのだが、大阪で宰と何やら妙な雰囲気になってからというもの、航太は自分の立ち位置を疑問に思い始めていた。


かつては間違いなくストーカーと被害者の関係だった。しかし、今は一体どういう関係なのかと聞かれればとても困る。 

 

友人ではない。

ただの知人というのも違う気がする。

でもだったとしたら、一体。


「もうつがっちゃえよ。勢いだってそういうのは」

「風間、お前人ごとだからって」

「だって医者だぞ? 宝くじ当てたようなもんじゃん」

「ハイリスクすぎるよ」

「人生多少スリルがあった方が楽しいんだよ。あいつ最近忙しそうだし、癒してやれば?」


さらっと風間が言い放った言葉に、航太は再び目を見開いた。最近忙しそう。スルーできずにうっかり尋ねてしまう。


「風間、宰と連絡取り合ってんの?」

「たまにな。話長いしさりげなく自慢してくんのウザいから途中で切るけど」

「あ、そう、へぇ……」


航太にとってそれは初耳だった。

いつの間に連絡先を交換していたのだろう。

もしかしたら、大阪で風間が酒に狂ったときに、それこそ勢いで教え合ったのかもしれない。……航太の知らぬ間に。


——風間と、宰が。

——別にそれは構わない、全然。まったく。関係ないし。


そんな航太を見て、風間が唇を歪めた。


「悪いな、嫉妬した?」

「は? するわけないじゃん」

「ふぅん」


訳知り顔で鼻を鳴らす風間が憎たらしかった。話を変えてお互い仕事への愚痴を吐き出していると、不意に風間が「あ」と言ってバッグから袋を取り出す。大きさからいって、本が入っているようだった。

風間は笑ってそれを航太に差し出した。


「やる」

「何これ」

「本。今日帰りに買ったやつ。絶対将来航太の役に立つから」

「……自己啓発本?」

「まあ限りなくそれに近いかな」


いいから受け取れ、と押し付けられて、渋々航太はそれを鞄にしまう。なんだかろくでもない内容のものな気がしたが、いまここで開けることによって気まずくなりたくなかった。


結局その日は随分遅くまで飲み、風間が酔い潰れる寸前につがいの彼氏が迎えに来た。

彼氏は当然ながら風間の扱いに慣れていた。

「まだ飲み足りねぇ」と腕を振り回す風間をうまく宥めながら、立ち上がらせる。

風間も彼氏に悪態をつきながらも、最終的には言うことを聞いて帰って行った。


正反対の印象の二人なのに、並んで立つとしっくりと馴染むその姿を見て、航太はそれまで以上に「つがい」という存在を意識した。






◆◆◆







『航ちゃん! おかえりなさい!』

「……だからなんでおれが帰ってくるタイミング分かるの」

『ふふ、知りたい?』

「怖いからいらない」


アパートに着いた途端鳴り出したLIME電話にぞっとしながらも出てみると、耳元からはスーパーアルファのハツラツとした声が流れてきた。


宰は結構な確率で、航太の帰宅を見計らったように連絡を寄越してくる。盗聴器でも付けられているのではないかとビクビクしたこともあったが、原因の一端はきっと風間にある。

おそらく今日の飲みについても、宰に言ってあったであろうことは大方予想がついた。

時計を見ればもう日付は変わっている。


「こんな遅くまで起きてていいの。明日も実習あるでしょ」

『そうだけど、航ちゃんを想ってたら目が冴えちゃったんだ……そう、東の空を見ながらね』

「ああ、そう……」


ネクタイを緩めながら航太はこっそり脱力した。航太が大阪へ行ってからというもの、宰とは初期と比べだいぶ普通の会話をできるようになってきた。


宰は相変わらずおかしなことばかり言うし、意味もなく航太を褒めたたえる。


ただ、会話のキャッチボールを心理学の本で学んだという宰は、一方的に自分の話をするのを控え、少しずつ航太に質問を投げかけてくるようになった。好きなもの、嫌いなもの、会社での様子。


ところどころ宰の自覚なしの自慢トークは入るものの、航太はその変わりように驚いていた。しかし上がりかけた好感度はその都度宰の手によってへし折られる。そんな停滞した状況が、もう半年以上続いていた。


お互い酒が入っていたとはいえ、宰と店の外で交わした話を何度か思い出してみたりもした。そのたびに航太は落ち着かない気持ちになり、自分の返答の思わせぶり加減に身悶えてしまう。酒の力とその場の雰囲気というものは恐ろしい。


『航ちゃん、それでさ』

「……もううなぎパイはいらないから」

『え!おいしくない?』

「うまいけどけどそういう問題じゃなくて、しょっちゅう送ってくんのやめて」


宰は事あるごとに地元銘菓のうなぎパイを送りつけてくる。航太としては「そもそも大阪土産でよいのでは」と思うところもあるし、一方的にものを贈られるのも困るのだ。

卒業直後にまた宰がいきなり訪ねてきて「最高級のやつです」と渡されたこともあった。

行動力がありすぎて付いていけない。


しかし宰は「それとは別に」と続けると、ひとつ深呼吸をして告げた。


『……ひとつだけ、航ちゃんにお願いがあるんだ』

「え……」

『大事なことなんだけど』


珍しく真剣な声に、航太はどきりとする。

いつもは天井をぶち抜くようなテンションだというのに、突然どうしたのだろう。


航太はあの日の夜のことを思い出していた。

触れ合った手の甲が熱かった。

それが記憶に焼きついて離れない。


航太は息を詰めて続きを待つ。


そして宰は、緊張した声で言った。


『……航ちゃんの部屋の空気を、袋に詰めて、僕に送ってほしい』


それは何の澱みもない、真っ直ぐな声だった。


『もちろん着払いで大丈夫。あと、できれば密閉袋を使ってもらえるととても嬉しい。でも航ちゃんの負担になるようであれば、普通のビニール袋でもいい』

「…………」

『あっ、でももし可能なら、ビニールの場合は念のため二重、いや三重にしてもらえると』


航太はそこで電話を切った。

そして手早く宰をブロックした。


仕事と飲みで疲弊していた航太にとって、宰の「お願い」は聞き入れがたかった。そのうえ、部屋の空気というのがまたガチ感があってキツかった。

以前着用済みの衣類を所望されて二週間ほどブロックしたので、今回は宰も譲歩したつもりだったのだろうが、それでもやっぱりキツかった。密閉した空気を、宰が何に使うのかは考えたくもない。胸にはむなしさだけが残った。


「……寝よ」


今日はいろんなことがあったナ〜と現実逃避しながら、航太はシャワーを浴び、眠りについた。


その後二週間、航太がブロックを解除することはなかった。





しかし二週間後にブロックを解除しても、宰が連絡してくることはなかった。ほぼ習慣となりつつあったものがなくなると、人は自然と不安になるものである。


航太はそわそわしていた。

自分から連絡を絶ったものの、ブロックを解除すれば宰はまた長文を送りつけてくるものと思い込んでいたからだ。


——まあ、そもそもが薄い関係なんだし。これを機に色々おれも考えを改めた方がいいのかもしれない。


そう自分に言い聞かせたものの、落ち着かない。宰も実習が忙しいのだろうと思ったが、それでもやはり連絡ひとつないというのはおかしい。


一週間待ってみても何のメッセージも届かず、航太のそわそわはとうとう我慢の限界を超えた。


——元気?


終勤後、航太は二時間悩んだ挙句、LIMEを送ってみた。そして送った直後に「何が元気? だ死ねおれ」と身悶えたが、それでもやはり返信は来なかった。

返信どころか、既読も付かないのだ。


何かおかしい。

一晩空けて、航太は部屋のなかをうろうろと歩き始めた。


宰をブロックしたことは過去にも何度かあった。しかし宰はそのたびに、不屈の精神で不死鳥のごとく甦ってきたというのに。


迷いに迷った挙句、航太は久しぶりに宰のTwatterを見てみることにした。


——いや、見てどうするんだ、おれ。

——もし宰が投稿してたら「おれには返信しないくせにTwatterはやるのか」と詰め寄るつもりなのか?


そんな女々しい真似は、と思いつつも、航太は指を動かすことをやめられなかった。


どうせ意識の高いことを書き散らしているに違いない。航太はそう予想していたが、最新の投稿で目が止まった。


何度もそれを読み返し、航太は自分が激しく動揺していることに気が付いた。


最終の投稿の日付は、航太が宰をブロックしてから一週間後だった。


それ以降、宰の投稿はない。








◆◆◆








ツカサ@top_of_theWorld411


僕はもう、だめかもしれません。






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