第17話 【1年後】想定外




ぶらり大阪旅は、結果として四名で敢行されることとなった。


「ふふ、航ちゃん、ジンベエザメが一日何キログラムの餌を食べるか知ってるかい?」

「うるせぇ、航太に話しかけんな」

「…………」

「俺、この場に必要? いらなくね?」


彼らは常に縦列で移動していた。

宰、風間、航太そして少し離れて工藤。

勇者たちの行軍のようなその列は決して乱れることはなかった。


宰はベタな男だった。

というよりも経験値が低すぎて、意中の相手と遊びに行く際の選択肢の幅が狭かった。


テーマパークか水族館。

彼は悩んだあげく、より落ち着いて話のできる水族館を選んだ。


航太が大阪に来ると決まって以降、宰は某遊館に住むすべての生物の生態を、IQ250の冴え渡る頭脳に叩き込んだ。今や彼は、ちょっとしたお魚博士になっていた。しかしお魚博士のうんちくは、その都度風間に阻まれ、ついぞ航太に届くことはなかった。


宰はそれでも構わなかった。

自分が航太のパートナーとして試されているのだという思い込みが、彼の情熱をより一層あつく燃やした。


男子大学生四名が列となって移動する姿は異様であった。入場直後の長いエスカレーター以外に、彼らの縦列のメリットはなかった。


最も混乱していたのは工藤だった。

彼は突然狩野田に新大阪まで呼び出されると、何の説明もなしに「一緒に遊びに行くぞ!」と列の最後尾に付くことになってしまったのである。


しかしお人好しの彼は、結局自ら入館料を払ってまで謎の列に続いた。話を聞いているうちに、どうやら自分に背中を向けているのが「航ちゃん」なのだと分かり、工藤は罪悪感のあまりひとり涙ぐんだ。


工藤の胸は激しく痛んだ。

一連の暴走の原因の99%は宰の性格によるものだったが、その一端を担ったのも間違いなく工藤だったからだ。


前方二名が騒いでいる間に、工藤はそっと航太に話しかける。


「……航ちゃん」

「えっ、あ、はい」

「工藤といいます」

「はあ」

「ごめん、俺があのアホにママチャリなんて貸したばっかりに……巡り巡ってこんなことに……」


工藤はきっかけを作ってしまったことを悔やんでいた。そして宰を警察に突き出さなかった航太の優しさに感謝した。同じ学部生から逮捕者が出たら、あまりにも外聞が悪すぎる。


航太は驚いたように目を見開き、尋ねた。


「アルジャンテ、元は工藤くんのだったの?」

「アル……?」

「あっ、違う! ママチャリね、ママチャリ!ははは、全然いいよ!」

「お、おう」


顔の前で手を激しく振りながら愛想笑いをする航太に、工藤はぞっとしていた。


——航ちゃんは狩野田に毒されている。


単なるママチャリを澱みなくアルナントカと呼んだのがその証拠だ。それに大阪へ来たのだって妙だ。工藤は航太が何か弱みを握られて来たのかと思っていたが、どうもそんな様子は見受けられない。


微妙な空気が流れるなか、宰と風間は水槽の前で大騒ぎをしていた。


「ほら、航ちゃん! 風間くん! こっちがヤジリエイ、こっちがオグロオトメエイだ。そしてこちらがマダラトビエイさ」

「知らねえよ、エイに詳しすぎるだろお前」

「ふふ、風間くんは手厳しいな」

「うわっ、こっち来んな! 馬鹿がうつるだろ!」

「…………」

「……楽しそうだな」

「なんか本当ごめん……」


隊列のテンションは前後で真っ二つに分かれていた。大騒ぎをしながら進む前方二人から少し離れた位置を、航太と工藤は静かに付いて行ったのだった。





◆◆◆





時間を掛けて水族館を巡ったあと、縦列は宰の先導によりお好み焼き屋へ入った。宰はやはりベタな男だった。大阪といえば粉もん、という固定観念が彼にはあった。


風間は「シケてんなフグくらい食わせろ」と毒づいたが、酒が進むにつれ徐々に態度を軟化させていった。航太は風間の酒のペースを抑えようとしたが、宰への罵倒で喉が渇いていた風間はぐいぐいと飲み進めていった。


態度が軟化するといっても、風間の場合、性格が丸くなるわけではない。彼は笑い上戸のからみ酒であった。すっかり顔を赤くした風間は、とっくりを片手に絡みまくっていた。


「おい! 狩野田! ちびちび飲んでんじゃねぇぞ!」

「ふふ、僕はお酒は味わうタイプなんだ……」

「お前それビールだろ! ちびちび飲むな! じゃあ工藤が飲め!」

「え、俺!?」

「そうだよ! 俺の酒が飲めねえのかこの野郎!」

「…………」


航太の目は死んでいた。

別に具体的に大阪の旅を描いていたわけではないが、風間と工藤の登場により事態は混沌としていた。


あれほど宰を忌み嫌っていた風間だったが、いざ酒が入ると警戒心が解けてしまい、いまや通常時の宰と同程度のテンションになっていた。


「あっ! 狩野田ぁ、お前青のりかけすぎだろうが!」

「これがないとだめだよ風間くん」

「限度ってもんがあるだろ! 全体的にモスグリーンにしてどうすんだよ!」

「はは、目に優しいだろう」

「やさしっ、ぶっ、くく……天才かお前……っ」


ツボが極端に浅くなっている風間は、冗談にもならないような宰の発言で肩を震わせていた。航太の正面で日本酒を飲む工藤がぼそりと「いや、面白くなくね?」と言ってくれることだけが救いだった。


航太は工藤が良い意味で普通なことに驚いていた。宰の友人だと聞いて身構えていたが、きちんと言葉が言葉どおりに通じることに、航太は静かに感動した。


謎の盛り上がりを見せる宰と風間の脇で、航太と工藤はぼそぼそと話をした。互いの大学生活やバイトのこと、将来の就職先。少し黙った後、工藤は航太にぼそりと告げた。


「俺と狩野田は、来年度から実習だからたぶん忙しくなるんだよなぁ」

「そうなんだ」

「航ちゃんも社会人で忙しいだろうけど」

「どうかな、全然実感湧かない」


そう言って航太が笑ってみせると、工藤は真剣な顔で見返して来た。


「……航ちゃんはさ、狩野田のこと」

「風間くん! これ、僕が作った曲なんだけど」

「は? ウケる。曲とか作れんの? 聴きてえ」

「はいどうぞ!」


工藤は隣で繰り広げられるその会話を耳にして全力で止めたくなったが、あえて無視した。航太が興味を示したらいけないと判断したからだった。幸い航太は「曲」はスルーしたらしく、工藤に視線で続きを促す。


「狩野田はさ、良いやつだよ。裏表ないし、優秀だし」

「うん」

「オメガだベータだって差別もしないし」

「……うん」


脇では風間がじっと耳にイヤホンを当てていた。わずかにムーディーなメロディが漏れ聞こえ、工藤は生きた心地がしなかったが、必死に無視する。宰が真面目な顔を作っているのが余計に腹立たしかった。


「どうかな、風間くん」

「どうって、狩野田、お前……」

「自信作なんだ」

「……天才だよ、天才。まじで」

「風間くん……! ありがとう」


なんでだよ、とツッコミたいのを、工藤は耐えた。

目の前では航太が引き続き言葉の続きを待っている。テンションの高い二人が堅い握手を交わしているのを視界の隅で捉えながら、工藤は小声で言った。


「絶対ないと思うけど、狩野田と付き合うのは絶対やめたほうがいいと思う」

「…………」

「航ちゃん、ちょっと毒されちゃってるけど、基本的に狩野田はやべー奴だから」


工藤は本気だった。

何度となく航太を裏切ってきたが、それだけに今度こそ救いたいと思った。


たとえ頭と顔と家柄がよくても、根本的な価値観が違うのは絶対にまずい。

航ちゃんから送られてきた段ボールの写真を待ち受けにしていたこともある、という言葉は航太の心の安寧のために飲み込んだ。

とにかく工藤は、宰が一般常識から外れていることを改めて分かってほしかった。


航太は工藤の眼光に気圧され、しばし口をつぐむ。彼は毒されてる、と指摘されて初めて自分の心境が変化していたことに気付いていた。

 

そうだよね、と返そうとしたところで、酒臭をまとった風間が航太にまとわりついてくる。


「航太ぁ、狩野田は天才だよ、天才」

「えっ、なにが」

「航ちゃんも聴く? ちょっと照れちゃうけど」

「航ちゃん……。悪いことは言わないから絶対やめた方がいいぞ」


じゅうじゅうと鉄板が焦げる音を聞きながら、四人の酒盛りは延々と続いた。





◆◆◆





「おらっ!! 消臭ビームを食らえ!!」

「ちょっ、頭はやめて! 頭は!」

「ははは、びしょびしょにしてやる〜!」

「やめて! 本当やめて! ハゲちゃうから! 航ちゃん! 見てないで助けて! 航ちゃん!」


店外へ出ると、酔っぱらいの風間は工藤を標的にし始めた。店に備え付けてあった消臭スプレーを持ち出した上に噴霧し、けらけらと笑い声を上げる。風間の猛攻に悲鳴を上げながら、工藤は逃げ回っていた。


二人が徐々に遠ざかりつつ攻防をくり広げる様子を、航太は困り顔で眺めていた。

申し訳ないが、泥酔した風間の攻撃を止めるほどの技量を航太は持ち合わせていないのだ。


一方で隣に立つ宰は、突如として目覚めた「空気を読む」スキルを発動させていた。


——これは、もしかしたら物凄い好機チャンスなのではないか?


そう意識した途端、純粋な宰の胸は激しく高鳴った。


予定していたデートよりも人員は増えてしまったからなかなかタイミングを掴めずにいたが、邪魔者二人は今や宰と航太のことなんて見えないほど激しく争っていた。


告白、そして手を繋ぐ。


己に課したミッションを彼は反芻した。


少しだけ航太の方へ身体を傾けると、偶然、本当に偶然、手の甲同士が触れてしまった。

航太の肩がぴくりと揺れた気がしたけれど、宰は持ち前の図々しさを発揮させて、あえてそのままにする。


手の甲が触れ合っただけでも、宰のテンションは急上昇していた。


ここだ。

行け、宰。

がんばれ宰。

GO! GO! TSUKASA!


宰は脳内の自営応援団に励まされ、ひとつ深呼吸をし、愛しいひとの名を呼んだ。


「航ちゃん」

「ん?」


丸い瞳がこちらを向き、宰を映す。

宰の脳はそれだけでショート寸前だった。


——「ん?」は反則ですやん……。


宰は痺れるように思い、エセ関西弁で内心呟いた。


航ちゃんがかわいい。前からかわいかったけれど、かわいい度が増している。

彼は脳内でその幼気な表情を連写した。


動揺を抑えながら、宰は続ける。


「……僕は、その、航ちゃんのことが」

「うん」

「えー、そうですね、あの」

「…………」

「銀河一かわいらしいと思っています」

「……は?」


——しまった。


宰は愕然とした。

航太は困惑していた。


宰の顔が一気に真っ赤に染まる。

それを見ながら航太は、頭から湯気が出そうとはまさにこのことだ、どこか冷静に思う。

それにしても銀河一とは、と呆れる前に、宰は取り繕うように言葉を続けた。


「えーと、それでですね」

「…………」

「今回、あまりに急すぎますので、えー、その、お、お付き合いとかは、ちょっと、アレだとは思うんですけども……」

「…………」


一世一代の場面で、宰は単なる木偶でくの坊と成り果てていた。


彼の構想では、ここでズバッと「航ちゃん、好きだ」と決める予定だった。

それがまるで言葉がうまく出てこない。


宰はべらぼうに焦っていた。

こんな事態は想定外だ。シナプスを最大限に稼働させ相良先生の教えをいくら辿ろうが、正しい答えは見当たらなかった。


頭が真っ白になりながらも、宰は口を動かし続ける。


「もし、航ちゃんが、僕のことを、あの、ちょっと良いかな、と思うことがありましたら」

「…………」

「その際はお手数ですけれども、ご連絡いただけると、大変助かります……」

「…………」

「以上です」


二人のあいだに沈黙が降り、宰は絶望していた。これが彼の人生初めての挫折であった。しかし神は、まだ宰を見捨ててはいなかった。


「……ははっ」


航太が宰の遠回しすぎる言葉に吹き出したのだ。


普段は嫌になるほどうるさくしゃべるくせに、こんなときにゴモゴモ言うなんて、と航太は堪えきれず口のなかでくつくつと笑い続けた。


宰は航太の無防備な顔にしばし目を奪われる。夜闇に浮かび上がる白い吐息すら、記憶に焼き付くようだった。わずかな灯りのもとでも、宰の視力2.5の両目には航太の笑みがはっきりと見える。


触れ合ったままの手の甲が熱い。

宰は航太の顔を見つめたまま、身動きひとつ取れずにいた。


呆気に取られる宰をまた笑いながら、航太は小さく答える。


「そんなこと言って、お前、おれのことあんまり知らないじゃん」

「えっ」

「おれの出身地は?」

「栃木」

「なんでだよ。はずれ」


そんな、と言いかけて、宰ははたと気付き口を閉ざした。航太の好きなものを、苦手なものを、宰は知らない。


会話のキャッチボールの必要性を、宰は生まれて初めて思い知った。

彼は自分としては常にキャッチボールをしているつもりだったが、その気質は生まれついてのピッチャーであった。

ひたすら投げ込んだ先に勝利があると信じて疑わないタイプだったのである。


航太のことを何一つ知らないという事実は、宰にとって大きな衝撃だった。

完全にパニックに陥った宰は、苦し紛れに力強く言い切る。


「それでも、航ちゃんは素敵な人だと思います!」

「…………」

「……思います!」

「なんで二回言うの」


あまりの奇天烈加減に、航太はまた笑った。

その顔がほころぶたび、宰は心のなかで「ごちそうさまです」と呟く。想いびとの笑顔は、豪華なごちそう以上に価値があると、宰は染み入るように思った。


航太は顔を戻して遠くを見た。

冬の空気を纏った夜の風が、熱を帯びた頬を刺す。


乾き始めた唇から、小さく言葉が漏れた。


「……忘れなかったら」

「え」


航太の人差し指がかすかに動いて、宰の人差し指を撫でる。


「忘れなかったら、連絡する」


服に染み付いた匂いは、その後しばらく、取れなかった。






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