第14話 【6ヶ月後】System all red②




「航ちゃん、大丈夫……?」

「これで大丈夫に見える……?」


長時間宰をなじり続けた航太は、疲労困憊の身体を壁に預けていた。

ただでさえ発情期ヒートは体力を消耗する。その上怒りを爆発させたため、航太はトイレから顔を出す宰に、弱々しく答えることしかできなかった。


幸か不幸か、航太は暴れ疲れたことにより、少しだけ理性を取り戻していた。宰を部屋に連れ込んだこと自体が致命的なミスだった、と反省する間もなく、顔立ちだけは良い男からは甘い香りが漂ってくる。


こいつはアルファだ。

でもやばいストーカーだからダメだ。

だけど特別なアルファの匂いがする。

でも筋金入りのストーカーだ。


せめぎ合う理性と本能の間で、航太の頭はガンガンと痛む。オメガとしての本能は宰に触れられることを望んでいる。しかし、航太の理性としては絶対に絶対に絶対に無理だった。


航太にだって、つがいへの憧れはある。宰が自分にとって、なにやら特別なアルファであることも分かる。そしてこの発情期ヒートを治めてくれるのが、最終的にはアルファだということも重々承知だ。


しかし航太としては、どうせ触れられるならもっと常識的な相手が良かった。とち狂ったレビューを書いたり、和歌を詠んで送りつけてきたり、ただのママチャリに横文字の名前を付けるような男は完全にアウトだった。


「航ちゃん……」

「うっ」


しゃがんで目線を合わせられると余計にぐらっと来て、航太は慌てて目を瞑った。

なにせ顔は良いのだ。顔だけ見たら百点満点。しかもフェロモンの相性まで良い。

「一回くらい良いじゃん!」と頭の隅で囁くふしだらな自分を封じ込め、航太は震える腕を持ち上げて告げた。


「……あ、あそこに」

「え?」

「抑制剤、あるから……」

「わ、分かった!」


宰は慌てて立ち上がり、航太が指差した先の衣装ケースに手を掛けた。部屋の隅に置かれたそれの何段目を指されたのかは分からなかったが、とにかく急がねばと一番上を引いてみる。宰に悪気はなかった。

とりあえず、その瞬間までは。


「…………」


衣装ケースを開くと、そこは宝の山だった。

丁寧に畳まれたトレーナーとTシャツ。

もちろん航太の匂い付き。

宰の心は大いに揺れた。


——もしこれを密閉するとなると、僕の部屋にある予備の真空パックだけでは足りないかもしれない。


スーパーアルファの頭脳は、これらの衣類をパック詰めする未来を鮮明に描き出していた。知らず、彼の喉は鳴る。


人間は与えられた幸福が大きすぎると尻込みする。このときの宰はそれだった。夢のような光景に、彼はひとり恐れ慄いていた。さらにこの下には二段分の衣類が潜んでいると思えば、なおさら身震いが出た。


——これだけあれば、夢の航ちゃんclothesベッドが完成するのではないか……?


「……そこじゃなくて、三段目」

「はっ!?」


背後から怪訝そうな声を掛けられ、宰は伸ばしかけていた手を引っ込めた。

航太からは何も見えないだろうが、突然衣類を持ち帰られたらさすがに驚いてしまうだろう。あくまでも紳士道を貫かんとする宰は「おっと、危ない危ない」と口のなかで笑いながら、三段目を引いた。


そこにはデニムやチノパンが折り畳まれており——もちろん宰は別に下着エリアを期待していたわけではない——透明のピルケースが隠すようにしまわれていた。宰はそれを掴むと、すぐさま航太に駆け寄る。


「航ちゃん、これ?」

「そう……」


航太はそれを受け取り開けようとしたが、指に力が入らず失敗してしまう。


「……ごめん、開けてもらっていい?」

「わかった」


再びしおらしくなった航太にどぎまぎしながらも、宰は悠然と微笑んだ。大人の男には余裕が大事。そう胸のうちで唱えながら、ピルケースを開けると、宰が思いもしなかった第二波がやってきた。


「……つかさ」

「ん?」

「……口に入れて」

「エッ!?!?」


宰は意味深な言葉にすこぶる動揺したが、次の瞬間にはそれが「手が震えるから薬を口に入れてほしい」という意味だと理解し、落ち着きを取り戻した。

清い身体を持つ彼は、イマジネーション能力も高かったため、あわやあらぬ方向の意味に捉えるところだったのだ。


水無しでも飲める、と言われ、宰は航太以上に震える指先で白い錠剤を摘んだ。今は二人ともなんとか会話をしているが、これ以上互いのフェロモンを浴びる状況を放置しておけば危ないことは明らかだった。


「し、失礼しまーす」

「ん……」


航太はまぶたを閉じ、口を開けた。

その姿は、宰にとっての第三波であった。


紅潮して汗ばんだ肌、震えるまぶた、無防備に開かれた唇と、赤く濡れた舌。


清廉な心をその身に宿す宰にとって、その光景はあまりにも刺激が強かった。端的に言って、破茶滅茶にえっちであった。

宰の右手はガタガタと震えた。


「おお、おおお……」


しかし彼は純粋な紳士であった。

彼がスーパーアルファでなければ、とっくに限界を超えているラインまで来ていた。

奇妙な声を上げながらも、彼は「これはやむを得ない処置」と己に言い聞かせ、錠剤を舌の先に置いた。


その瞬間、指先が航太の唇にわずかに触れ、宰は髪の毛が逆立つような心地に陥る。


「ひょっ……」

「ん……、さんきゅ……」


ごくりと飲み込む喉の動きがまた扇情的で、宰は五秒間ほど動けなくなった。


一方の航太は、抑制剤を飲んだことで少しずつ視界がひらけていった。


自分が宰を誘ったことをぼんやりと思い出し、航太の心は一度死を迎えかけたが、それ以上の追憶は一旦留めおいた。

航太は正面で固まる男を見る。


いくら抑制剤を飲んでいても、アルファとオメガが同じ空間にいるのはまずい。


「……宰」

「はいっ」

「巻き込んで悪かったけど……、もう大丈夫だから」

「航ちゃん……」

「今日は帰って」


できるだけ優しくそう言ったものの、正直なところ、航太は一刻も早く宰に出て行ってほしかった。抑制剤の影響でじわじわと頭は重くなっていたし、宰の香りにあてられて、またいつ誘ってしまうか分からない。


しかし宰は何を勘違いしたのか、突然表情を引き締め、さらに航太の両手を握ってきたのだった。せっかく引き始めていた熱がまたぶわりとぶり返し、航太は頬を引きつらせる。


「ちょっ……!」

「航ちゃん!こんな具合悪そうな航ちゃんをひとりで置いていけない!」

「え、いや、発情期ヒートのときは治まるまでひとりで過ごすのが普通で」

「できない!」


宰は涙目ぐんでいたが、航太はひたすらに引いていた。


「いや、できないとかじゃなくて逆にアルファのお前がいると」

「大丈夫! 僕は医学部だ! 心配はいらない! まかせて航ちゃん!」

「だからそうじゃなくて」

「さっ! まずは寝て! さあさあさあ!」


宰は人の話を聞くのがあまり得意ではないタイプの人間だった。

「ちがう」「そうじゃない」と弱々しい抵抗をする航太をなだめながら、隣の部屋に置かれたベッドに押し込める。

布団を掛けて満足げに微笑むと、宰は小さく呟いた。


「ふふ、やはりベッドの配置はここか……」

「え? なに?」

「大丈夫、航ちゃんは休んで」

「宰、だからさ」

「抑制剤の副作用は強いっていうから」

「あの」

「さーて、おかゆでも作っちゃおっかな!!」

「…………」


航太は絶句した。

そして次の瞬間にはすべてを諦めた。


言葉が通じない人間は存在する。なぜ宰がこの部屋に居座ることにしたのか、航太はまったく理解できなかった。頭がずきずきと痛むのは抑制剤のせいだけではない。

発情期ヒートにアルファと二人きりだなんて、家族に知られたら卒倒される。


もうだめだ。

おれの貞操もここまでかもしれない。

できれば意識がないときにぱぱっとコトを済ませてもらえると助かる。


航太が絶望しながら天井を眺めていると、視界に突然宰がぬっと入ってきた。


「……なに」

「航ちゃん」

「…………」


よく見れば、宰の額には汗が浮かび、目もわずかに濡れていた。ついさっき触れたばかりの手も震えていたことを思い出し、航太は息を詰める。


抑制剤である程度症状を抑えられる航太と違って、アルファの宰はこの状況を耐え忍ぶしかないのだ。航太の影響をもろに食らった宰だってつらいはずだ。


本当であれば、とっくに本能に屈して航太を組み敷くこともできただろうに、宰はそれをしなかった。


あれほど「運命のつがい」とうるさく言っていたくせに。

つがいになろうと思えば、簡単だったのに。


端正な顔が、航太を見てほころぶ。


「僕は、航ちゃんを無理につがいにしたりしない」

「…………」

「だから、安心して寝ててほしい」


航太は何も言葉を返せなかった。

その代わりに小さく頷く。

驚きと混乱が航太のなかを巡っていた。


宰はほっとしたように息を吐くと、「ちょっと台所借りるよ」と言ってベッドを離れた。

隣室との境を区切る戸が締められると、宰の香りも少しだけ薄くなった。


「…………」


航太は戸惑っていた。

やばいだけのストーカーだと思っていた宰が、やけに優しげに微笑むから。


幼いころから「アルファには気を付けなければいけない」と常々教えられてきた。

こちらにその気がなくても、オメガの香りに誘われたアルファは襲ってくることがあるのだと。

言い寄ってくるやつなんて尚更危ない。

オメガの意思を尊重してくれないアルファなんてたくさんいる。


「……なんだ、あれ」


宰はたぶん、というか間違いなく、やばい方のアルファだ。それはここ半年のやり取りでよく分かっている。

でも今のこの状況を見れば、ひどい奴なのではないことは分かる。アルファなのに、オメガの自分を尊重し、我慢してくれている。

その事実が航太を落ち着かなくさせた。


たしかに抑制剤の副作用はつらいものがある。食事だってままならないから、いつも水分を取るので精一杯だ。でも、誰かを巻き込むわけにはいかないと、ひとりで耐えるものだと思ってきた。


「…………」


台所からはガタガタと落ち着かない音がする。本当におかゆを作ろうとしているのだろうか。もしかしたら、フェロモンにあてられて体調を崩してしまったのかもしれない。


航太は痛みの引き始めた頭を起こし、そっとベッドを降りた。


——宰は、おれが思うようなアルファじゃないのかもしれない。

——思い込みが激しいだけで、もっとよく話せば……。


航太はわずかな望みを胸にそっと戸を引いた。

宰と、歩み寄れるのかもしれない。

彼はそう思ったのだ。

しかし。


「くううう……ッ! 控えめに頷く航ちゃんかわいすぎる……ッ!」

「…………」


宰は冷凍室のドアを全開にして、頭を突っ込んでいた。


ガタガタと冷蔵庫本体を揺らしながら、朗々と叫びは続く。


「相良先生! 約束します! 僕は! あなたを裏切りません……ッ!」

「…………」

「必ず……ッ! この試練を超えてみせる……ッ! 誓います! 狩野田宰の名に懸けて……ッ!」

「…………」


やや持ち直し始めていた航太の体調は、一気に急降下した。

宰は引き続き物理的に頭を冷やしながら叫び声を上げていたが、航太にそれを咎める気力はなかった。

航太は戸を閉ざすと、青ざめた顔でふらふらとベッドへ戻る。自分は悪夢を見ているのだと思った。横になり、頭まで布団を被る。


「……うう」


彼の心は土砂降りだった。

いましがた目にしてしまった光景は、疲弊した心と身体にはあまりにも刺激が強すぎた。

ほんの一瞬でも、本当は宰がまともな人間なのかもしれないと思ってしまった己を航太は恥じた。そう、まともな人間は、そもそもキャルメリで商品取引しただけの相手の家を訪ねてきたりはしないのだ。


——こんなの、あんまりだ。なぜ、おれはこんな奴に……。


油断すればすぐに理性を持っていかれそうな魅惑的な香りと戦いながら、航太は静かに涙を流したのだった。







◆◆◆







その後、宰は三日にわたり甲斐甲斐しく航太の世話をした。


指先が触れ合うと、宰が「うっ!」と呻いたあと台所やトイレに消えていくこともあったが、航太は死んだ魚の目ですべてを黙殺した。


宰は一度も航太に触れようとしなかった。

突発的に起こった発情期ヒートだったため収束も早かったが、三日目が終わるころには、宰は疲労困憊のあまりぐっと老け込んでいた。


「……さすがに帰って」

「はい……」

「……新幹線代、貸すから」

「はい……」


宰は抵抗することなく、そのまま航太の部屋をふらふらと去って行った。航太はその背中を複雑な気持ちで見送ったのだった。









「か、狩野田……っ!?」

「どうした、そんなに驚いた顔をして」

「お前、脱獄したのか!?」

「はは、何の話をしてるんだ」


しっかり休んだ宰は、全回復して大学に顔を見せた。彼の回復力はすごいものがあった。

なぜなら彼は、スーパーアルファだからだ。


そして工藤に事の経緯を話すと、常識人の彼は「何を言ってるんだこいつ」という困った顔をしながら頬を掻く。


一ヶ月前、工藤に潰された結果航太との約束を破ってしまった宰は、いたく落ち込んでしまった。

何を話しかけても「航ちゃん……」しか返さなくなった宰を見かねて、今回工藤は、東京行き第二弾の旅をあえて止めなかったのだ。


「……こうして僕は、三日三晩を航ちゃんと過ごしたわけだ」

「なんか色々すごいなお前……」

「ありがとう、工藤」

「褒めてはないけど……」


満足げな宰が話を終えたころ、不意に彼のスマホが鳴り出した。表示された名前に、宰はあわてて通話ボタンをタップする。


「航ちゃん!」

『……今、いい?』

「もちろん!」


宰はきらきらと目を輝かせ頷く。

航太から掛かってくるのは初めてのことだった。宰はこの日を初着信記念日に定めようと強く心に誓う。


数秒の沈黙のあと、航太は口を開いた。


『……アルジャンテ』

「え?」

『ここに置きっぱなしにされても、困るから』


渋々吐き出されたその言葉を聞いて、宰は目を見開いた。身体に漲るのは、まぎれもない喜びであった。東の空を見ながら、宰は快活に答える。


「取りに行く! 取りに行くよ、航ちゃん!」

『……あっそ』


好きにすれば、という素っ気ない言葉のあと、電話は一方的に切れた。

けれど宰の顔は晴れやかだった。

不審そうに視線を寄越してくる工藤に微笑みかけながら、宰は噛み締めて言う。


「工藤」

「おう」

「航ちゃんは、航ちゃんは……っ」

「…………」

「ツンデレ属性だった……っ!」

「……よかったな」


その日を境に、宰と航太の通話ルールは、一週間に一度、三十分までに改められたという。



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