第13話 【6ヶ月後】System all red①




狩野田宰はスーパーアルファだ。

彼は自信家であったが、その心と身体は、路傍にひっそりと咲くスズランほどに清廉であった。


彼の恋愛観は全年齢向けの少女漫画によって構成されている。ひとりの男性として、基本的な性知識はもちろんあったが、彼は貞操観念の強い男であった。


宰が人生の指針としている往年の全年齢向け名作少女漫画「先生は運命なのにズルいッ!(通称先ズル)」のヒーロー「相良さがら先生」が、作中でこのように唱えていたからである。


——本当の愛とは、触れずとも分かるもの。

——君をつがいにするのは、もっと愛を深めてから。そう、君が僕のお嫁さんになってからさ。


幼き日の狩野田少年はこの台詞にいたく感激した。くしくも相良先生は、狩野田少年と同じアルファであった。


相良先生は秩序と貞操を重んじた。

女子高生であるオメガのヒロインがつがいになることを望んでも、鉄の意思で決して応じようとはしなかった。

物語のラスト、二人は清い交際の末、丘の上の教会で皆から祝福され結婚するのだ。

そして数年後、二人の見つめる先には天使のような赤子が……。


何番煎じか分からないようなベッタベタなハッピーエンドを、狩野田少年はくり返し読み、胸をときめかせた。

さながら彼は一輪のスズラン——花言葉は「純粋」——であった。


ページが擦り切れるほど読んだころ、スーパーアルファであった彼は全二十七巻の少女漫画を細部に至るまですべて暗唱できるようになっていた。硬派な相良先生は、狩野田少年の血肉となったと言っても過言ではない。


相良先生の教えのもとに宰が考えた「航ちゃんともっと仲良くなる計画」では、出会いから一年後に、航太と手を繋ぐところまで持っていく予定だった。

そしてあわよくば、そこで告白し愛を確かめ合う。

宰としては完璧な計画だった。


相良先生の考えに基づけば、たとえ運命のつがいであっても、婚前交渉は絶対にNGだった。

アルファとオメガの関係は、発情期ヒートやフェロモンによる影響もあり、一般的なカップルよりもずっとデリケートなものだ。


正式な伴侶として相手を迎えた後につがうのが、本物のアルファだ。

宰はそう信じていた。

自分も必ずやその道を辿るものと心に決めていた。


そのため、現在彼が置かれている状況は、完全に想定外だった。


「つかさぁ」

「こ、航ちゃん……?」


あれよあれよという間に航太の部屋に連れ込まれた宰は、愛するオメガにマウントポジションを取られていた。

たちこめる甘い匂いに理性を奪われそうになりながらも、ふにゃりと緩んだ航太の笑顔を見て「航ちゃん超かわいい!」と感動する程度の余裕が、宰にはまだあった。


問題は航太の方だった。

宰に触れられた瞬間、突如として発情期ヒートを引き起こした航太は、自分が押し倒している相手が、憎きストーカーであることすら判別できなくなっていた。


——アルファだ。アルファがいる。これはたしか「つかさ」という名前。おれの熱を治めてくれるいきもの。


航太のフェロモンに当てられて、宰からも爽やかな香りが漂ってくる。航太はうっとりと微笑みその香りを吸い込むと、宰の耳元に唇を寄せて囁いた。


「つかさぁ」

「こ、こうちゃん」

「しよっかぁ」

「……エッ!?!?!?」


宰は人生で最大の動揺を見せた。前述のとおり、彼は純朴な青年だった。跳ね馬をロゴにする某イタリアの高級自動車メーカーの名称をすんなり言えないほどに、彼はピュアであった。


——しよっか? する?

——するというのは、何を。


「ねぇ」


飼い猫のように頬をすり寄せてくる航太に「ひええ」と慄きながらも、宰はシックスパックの腹筋を生かして航太ごと身体を起こした。向き合う格好になった航太が不思議そうな顔をする。宰の理性はグラグラであった。


「くっ……! キョトン顔もかわいい……っ!」

「あは、何言ってんの」


航太の両腕がするりと宰の首に回る。宰は身動きひとつ取れなくなっていた。航太の毛穴という毛穴から、色香が噴き出しているようだった。


宰は、航太に勝手にピュアなイメージを抱いていたが——正直言って発情して色気を爆発させた航太もアリだった。

アリというか大アリであった。

むしろそのギャップに興奮した。

同い年だというのに、理性を失った航太には思わず甘えたくなるような包容力があった。


「つかさぁ」

「…………」


暑くもないのに、宰はだらだらと汗をかき、手を震わせていた。

オメガの発情期ヒートの直撃を生まれて初めて受けた彼は、その凶暴さにひれ伏しそうになっていた。


しかも誘ってくるのは、ここ半年想い続けた運命のつがい。愛用しているダンボールを被ったときとは比べものにならないほどの濃い航太の香りが、部屋のなかには充満している。欲で濁った瞳に宰を映しながら、航太は挑発的に微笑んだ。


「つかさはさぁ、したことあるの?」

「えっ!!!! 僕ですか!?!?」

「おれはねぇ、したことないよ」

「しょっ……!?」


処女なんですか!?と聞きそうになるのを、宰はスーパーアルファの理性でなんとか押さえつけた。いきなり性経験を尋ねるなんて紳士的ではない。しかしこの色気ムンムンの航太がまだ手付かずの身体だと思うと、宰のテンションは最高潮に上がっていた。

心臓がバクバクと高鳴って痛いくらいだった。「しよ?」となおも誘ってくる航太に、宰の視界も歪み始める。


——航ちゃんがOKしてるんだし、いいんじゃないかな。

——僕たちは運命のつがいなわけだし。


思考の隅で、ずるい宰がそう囁いた。朦朧としながら、宰は航太の肩を掴む。その華奢さにますます体温は上がった。


薄く微笑んで目を閉じた航太に、宰は恐るおそる顔を近づけた。愛おしい航太との初めての口づけ。これは、記念すべき瞬間……。


そのとき、ある一節が宰の脳裏をよぎった。


——僕なら、想いも交わしてないのに、キッスなんてできないね。


「はっ!!」


宰は勢いよく航太の身体から離れると、汗の滲む自らの額を拭った。


宰は己の意思の薄弱さを恥じた。

人生の師たる男の教えを忘れるところだった。


あれは、八巻の九十七ページ。

ヒロインがキスをせがむのに対し、相良先生は颯爽とそれを断るのだ。なぜなら相良先生は、硬派で大人なアルファだからだ。


「すみません、相良先生……っ!」

「えっ、だれ?」

「ごめん航ちゃん!」


これ以上の接触は危険と判断し、宰は航太を押し除け立ち上がった。ここにいてはいけない。自称冷静沈着な男は、かつてないピンチにテンパっていた。


宰は初めて来る航太の部屋を意味もなくバタバタと駆け回った後、唯一施錠設備のある空間——トイレへと逃げ込んだ。苦肉の策である。急いで鍵を掛ければ、ドアの向こうで怪訝そうに呼ぶ声がする。


「つかさ?」

「航ちゃん! 今のうちに抑制剤を飲んでくれ!」


ドア越しでも分かる航太の香りに冷や汗をかきながら、宰は履いていたチノパンのポケットからスマホを取り出した。もはやこの状況を打開するすべを、テンパった宰は自らの力では見出すことができなかった。


それならば、頼るべきは一人しかいない。


三度の呼出音の後、のんきな声が電話口に出た。


『もしもーし』

「く、工藤、大変だ……っ!」


大阪にいる工藤が何かできるはずないと知りながら、必死の思いで宰は友にすがった。事態の深刻さを知らない工藤は、のんびりと尋ねる。


『どうした? ていうか航ちゃんに会えた?』

「会えた! 会えたんだが、もう逃げ場がないんだ……!」

『は?』

「おい!!ここ開けろ!!」

「ひっ……!」


立てこもった宰に苛立ったのだろう、航太が激しくドアを叩いた。続いてガチャガチャとドアノブが鳴る音。恐怖のあまり、宰は掌のなかのスマホにしがみついた。


「工藤! いきなりですまないが、何か知恵を……!」

『あー、そっか。ついに、そんなことに……』


工藤は何かを察したように口をつぐんだ。

そして悲しげにふっと笑い、続ける。


『狩野田、お前は良い奴だったよ。証言を求められたら必ずそう言ってやるからな』

「……工藤?」

『あらいざらい正直に話して、しっかり罪を償うんだぞ』

「ま、待て工藤!少し話を……!」

『シャバに出てきたら、また一杯やろうな』

「くど」


ぶつり、と非情な音を立てて、電話は切れた。呆然とする間もなく、ドアの向こうからは再び怒声が響き渡る。


「つかさぁ!! 出てこいコラぁ!!」

「ひぃっ!」


さっきまでのしおらしい姿はなりを潜め、航太は今や、目の前に肉をぶら下げられた猛獣と化していた。


「こっちはお前のせいで発情期ヒート来てんだよ!! 責任取れ!!」

「こ、航ちゃん落ち着いて……」

「ここまで来て逃げんな!!それでもアルファかお前はぁ!! Ωの発情期ヒートなめんなよ!!」

「航ちゃん!! 冷静に!! ここは常識的に、冷静に話し合いをしよう!!」

「どの口が常識語ってんだよ!!」


ドア越しの攻防は、その後約一時間続いた。


そして発情期ヒートと怒りにより体力を消耗した航太がその場にへたり込んだころ、宰はおずおずとトイレから顔を出したのだった。





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