第12話 【6ヶ月後】激昂
葉竹航太は温厚なオメガだった。
おっとりとして人当たりが良く、争いを好まない彼は、それまでの人生で人に対して腹を立てること自体が少なかった。
しかし、約半年前——フリマアプリキャルメリを使い始めたあたりから、彼は徐々に温厚さを失っていた。
圧が強めのスーパーアルファに粘着されてしまったためである。
航太は以前よりも、懐疑的かつ情緒不安定な人間になった。スーパーアルファの類稀なる粘着力は、航太の心と理性を不安定にしたのである。
それが少しだけ落ち着いた一ヶ月前、航太は過去最高の怒りを爆発させることになった。
ストーカー、もとい、スーパーアルファが約束をぶっち切ったためである。
◆◆◆
一ヶ月前、スーパーアルファこと狩野田宰は、再び航太の部屋を訪れる予定だった。
当初、航太としてはそんなつもりはなく、毎日送りつけられてくる長文に適当に「そうですか」「わかりました」「はい」と返していただけなのだが、それが良くなかった。
宰は長文のなかに、さり気なく「今度行ってもいいですか?」「お金を返したいです」という文言を紛れ込ませてきたのだ。宰に悪意はなかったが、そもそもメッセージを流し読みしていた航太は、その巧みな罠に気付かず、いつも通り「分かりました」と返信してしまった。
その後のメッセージの文章量は、それまでの二倍になった。突如として倍増した文に焦った航太がメッセージを読み返したときには後の祭り。いつの間にか宰は、四月に再び東京を訪ねる手筈になっていた。
「ま、また……?」
スマホを握る航太の手は震えていた。
狩野田宰。
ストーカーが、二度目の襲撃を仕掛けてくる。
金なんてどうでも良かった。
口座を教えて振込させようかとも一度は思ったが、貸した以上の金をせっせと振り込んで来るのではないかと思うと躊躇われた。
相手は狂人なのだ。これ以上こちらの情報を与えてはいけない。なんとか来ないように説得したかったが、LIMEで二行以上で返信すると、宰のテンションが今以上に上がりそうで怖かった。
それに「宰」と呼び始めたのだって苦肉の策だったのだ。
「つっくん又はつーちゃんと呼んでほしい」という恐ろしい猛攻に耐えかね、折衷案として「宰」を取った。
宰と接触し始めてからというもの、常に航太は押され気味だった。
「うそ……」
航太は頭を抱えた。
前回宰が来たときだって最悪だった。
帰れと言ってるのに一向に帰らず、一晩中ドアの前で粘られたのだ。
ドアの覗き穴から外を覗くたびに、百点満点の笑顔を浮かべる宰が覗き返してくるのはちょっとしたホラーで、その後何日か航太は悪夢にうなされた。
ここまで、毎日のLIMEと週一の通話で持ち堪えてきたというのに、ついにその時が来てしまった。
『航ちゃん』
初めて顔を合わせたとき、宰が嬉しそうに名前を呼んだことを航太は思い出す。
あのときの宰は、想像より少しだけきれいな顔をしていて、想像より少しだけ微笑み方が幼くて、想像していたよりもずっと良い匂いがして——
「……はっ!?」
意識が妙な方向へ持っていかれそうになるのを、航太は必死に引き戻した。ここ最近ずっとそうだ。宰は純度百パーセントのストーカーだというのに、油断するとなぜか「良い奴」に変換されそうになってしまう。
運命のつがい。
航太は浮かんだ単語を即座に振り切り、ひとりぶつぶつと唱え始める。
「違う……あいつはストーカー……あいつはストーカー……」
航太にとって、宰はこれまで会ったことのないアルファだった。
もちろん頭がおかしいという意味もある。
でも、それだけではない。これまで会ってきたアルファにはなかった、気配を感じただけで痺れるような「何か」がある。
——せめて、相手が宰でなければ。
つがいという存在にほのかな憧れを持って生きていた航太だったが、さすがに大阪東京間をチャリで来る強めのストーカーは受け入れがたかった。
万が一つがいにでもなったら、一生ストーカーに屈した男として後ろ指を指されながら生きていくことになる。そう思いつめるほど生理的に無理だった。
——でもあいつも、頭は良いわけだし、やっぱり顔は悪くないし。
——電話したときの声も落ち着いてるし、もしかしたら、もう少し慣れてきたらマシに……
「はっ!?!?」
航太は無意識のうちに部屋を片付けていた。
そして玄関周りを入念に掃除し始めていたのだ。
「お、おれは何を……!?」
航太は激しく狼狽し、わなわなと唇を震わせた。手には割り箸の先にティッシュを巻いた、手作りの隙間用掃除グッズが握られている。これもまた無意識だった。
恐ろしいものでも見たように、航太はお手製のグッズをゴミ箱に勢いよくぶち込んだ。自分が夢遊病にでもなったような心持ちだった。
なぜ玄関周りを掃除する必要があるのだ。
玄関が汚かったところで、部屋が散らかっていたところで、誰に迷惑がかかるというのだ。
目には見えない力で動かされているような気がして、航太は身震いする。これではいけない。このままでは。
「入れない……ッ! あいつは絶対に部屋に入れないぞ……ッ!」
自分自身に力強く言い聞かせながら、航太は髪をかき乱した。そしてすっかり使い慣れたトングを握り、マスクを装着した上で押し入れを開けた。そこには、ビニール袋に何重にも包まれた和歌入り極厚封筒が在る。
「こんなものを……ッ! いつまでも持ってるから……ッ!」
カチカチとトングを鳴らしながら封筒を引っ掴むと、航太はそれを床に叩きつけた。
——全ての元凶はこれだ。
航太の人相は温厚さとは程遠いものになっていた。
「……今日こそ、燃やす……ッ!」
ザクザクとハサミでビニール袋を破り、トングでそれを掴む。航太はそのままガスコンロを点け、青く揺らめく炎に極厚封筒を近付けた。宰が航太を想い詠んだ、トンチンカンな和歌の数々。
「…………」
封筒の端がチリチリと焦げ始めたところで、航太はなぜかひどく冷静になった。
鼻先を微かな甘い香りがくすぐる。
それが何かを理解する前に、航太は手を引っ込めていた。
「……火災報知器、鳴ったら、迷惑だし……」
航太は静かに言い訳しながら、再び封筒をビニールに包み始めた。
よく考えたら、人からもらった手紙を焼いちゃだめだよなと、常識的なことを考えながら。
強めのスーパーアルファの影響は、じわじわと航太の正常な思考を冒しつつあった。
◆◆◆
無意識にていねいな掃除を重ね、その仕上がりに愕然とする日々をくり返しながら、航太は約束の日を迎えた。
そう、宰の襲来日である。
航太は朝からトングを片手に部屋のなかをウロウロしていた。予定の新幹線の時間を確認しては、おおよその到着時刻を逆算していたものの、なぜか落ち着かない。
駅まで迎えに行くつもりはさらさらなかった。そんなことをして、飯に誘われでもしたら、それは変な意味を持つ会合になってしまう。なによりも、宰と顔を合わせる時間を少しでも短くしたかった。
宰が訪ねてきたら、ドアの隙間からササッとトングだけを突き出して金を挟む。そしてすぐにドアを閉める。
航太としては完璧な作戦だった。
しかし、宰は一向に来なかった。
朝イチの新幹線に乗ると言っていたから午前中には来るものと思っていたが、時計はすでに正午を指していた。航太はぐるぐると部屋のなかを回りながらスマホをチェックするが、連絡はない。
来ない。なぜ。
いや、来なくていいんだけど。
何かあったんだろうか?
いやいやいや、全然来なくていいんだけど。
相反する考えを脳のなかで巡らせながら、航太はトングをカチカチと鳴らした。その音が余計に、航太の焦燥感を加速させる。
知らせがあったのは午後二時に差し掛かったころだ。突然LIMEの通話が鳴り、航太は反射的にスマホを耳に当てた。
『こ、航ちゃん……ごめん……』
「…………」
それは初めて聞く、弱々しく掠れた宰の声だった。
なんだ、生きてたのか。
大方迷子にでもなったのかもしれない。
心のどこかで安堵を感じる自分に、航太は戸惑いを覚えていた。どこで迷ってんの、と聞こうとしたところで、よわよわの宰が死にそうな声のまま続ける。
『昨日、その、飲み過ぎてしまって……』
「……は?」
『新幹線、乗りそびれまして……』
「…………」
航太はそのまま固まった。
新幹線に乗ってない。
ということは、こいつは今大阪にいるのか?
あんなに楽しみだ何だの言っておいて?
ふつふつと湧き上がった感情に、航太のトングはカチカチと小刻みに音を立てた。彼はぐるぐると部屋を回っていた自分を恥じた。そして深く息を吸い込むと、電話の向こうの相手に、冷たい声で告げる。
「あっそう。十秒経ったから切るよ」
『航ちゃん、ごめ』
「二度と連絡してこないでください正直言ってとても迷惑です」
『こ』
そこで航太は通話を切った。
そして即座に宰をブロックした。
カチカチカチと無機質な金属音だけが、航太の部屋に響く。
「……あのクソやろう」
航太は、人生最大の怒りを抱えていた。
◆◆◆
あれから一ヶ月。
宰から全ての連絡手段を奪った航太は、安寧の日々を送っていた。面倒な長文メッセージも通話もなし。幸い、手紙も宅配便も届かない。
失いかけていた平和な毎日がやって来たのだ。
風間はそれを聞いて心底安心していた。
「航太、最近顔つきやばかったから」と言われて反省した。自分のことでいっぱいいっぱいになっていた、と。
でもこれからは、また普通のオメガとして生きていこう。あの狂人のことは、悪い夢を見たと思って忘れよう。
晴れやかな春の空に、航太はそう誓った。
誓った、はずだったのに。
「航ちゃん……」
「ひっ」
狂人は再び、航太のアパートを訪ねてきた。
前回来たときの清々しさは鳴りを潜め、しょぼくれみすぼらしい姿だった。
連絡を絶ってからというもの、すっかり危機感の薄れていた航太は、インターホンを鳴らされてついうっかりドアを開けてしまったのだ。ドアチェーンをかけていたのが唯一の救いだった。
「……何の用?」
「謝罪をしに参りました……」
「いらない」
「航ちゃんんん……」
宰は半泣きだった。
ふと漂う心地よい香りと気配に、航太は息を止める。顔を見たらまずい、と思いながら必死に目を逸らした。
——流されるな、おれ。がんばれ航太。負けるな航太。
「……なんでそんなぼろぼろなんだよ」
「アルジャンテで、今度はゆっくり来たんだ……。初心にかえろうと思って……」
だからなぜチャリで来るんだ。
あとチャリのことアルナントカって呼ぶのをやめろ。
ツッコミたい気持ちを必死に抑えながら、航太はできるだけ冷たい声で「そうですか」とだけ答えた。これ以上一緒にいると危ない。
すでに心がぐらぐら揺れているのが自分でも分かった。そして航太は、ひと思いにドアを閉めようとした。
そのときだった。
「航ちゃん!」
「うぇっ!」
突然宰が腕を伸ばし、航太の手首を掴んだのだ。じわりと肌が触れ合う感触に、航太は総毛立つ。
「ごめん。全面的に僕が悪かった。どうしても謝りたくて……」
宰が早口で何かを言っていたが、航太の耳にはほとんど届いていなかった。航太は自分に流れる血液が、突然熱を持ったような感覚に襲われていた。
じわじわと内側から、身体を炙るような。
もどかしくて、たまらなくなるような。
頭のなかが不明瞭になっていく。
「あ……」
航太のもう片方の手が、勝手にドアチェーンを外した。
なぜそんなことをしているのか、自分でもわからなかった。
ただ、自身の体温が徐々に上がっていくのを感じていた。
この感覚には覚えがあった。
今この状況で、最も起こってはいけない事態だった。
——でも、予定ではまだそれは一週間以上先なのに。
航太がまともに考えられたのはそこまでだった。ふらふらと頭を揺らしながら、彼は決して開ける予定のなかったドアを開け放つ。掴まれた手首が、焼けるように熱い。
航太の瞳が、目の前にいる男を捉える。
——アルファだ。この男は、極上のアルファ。
あたりに立ち込め始めた濃厚な甘い香りに、宰は驚いたように目を見開いた。
航太は宰に一歩近付き顔を寄せると、無防備に頬を緩める。
「航ちゃん……?」
「つかさぁ」
航太の焦茶色の瞳は、宰を映したまま、どろりと蕩けた。
「おまえ、良い匂いがする……」
オメガの
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