第11話 【5ヶ月後】愛のささやき


「航ちゃんに会いに行く?」


ざわついた居酒屋の一室で、工藤くどう実広さねひろは目の前に座る友人——狩野田宰の言葉を聞き返した。

宰は満足げに頷き、「航ちゃんに呼ばれたからね」などと言っているが、多分これも妄想だ、と工藤は背筋を凍らせた。


春休みが終わり、遂に共用試験を控える四回生となった四月を迎えた彼らは、景気づけに大学近くの大衆居酒屋へ飲みに来ていた。

そこで飲み物の注文を終えたところで、宰の爆弾発言が飛び出したわけだ。


宰は晴れ晴れとした笑顔で言う。


「明日の朝にこちらを発つ予定なんだ」

「……今度こそ捕まるんじゃないの、お前」

「今度こそ、とは?」

「前回は温情で見逃してもらったんだろうけどさあ……、さすがに二回目ってなると、もう囮捜査的な感じなんじゃないの?」

「ははは、工藤は冗談がうまいなあ。大阪在住四年目ともなると切れ味が違う」

「…………」


冗談なんてひとつも言った覚えはないが、宰は快活な笑い声を上げた。

そうこうしているうちに生ビールが二つ届き、工藤は気を取り直して冷えたジョッキを握る。宰も完璧に微笑み、ジョッキを掲げる。


「それじゃあ、工藤。四回生でもよろしくね。Cheers!」

「……かんぱい」


宰は悪い奴ではない、と工藤も理解していた。ただ、悪い奴ではないが、一緒にいると恥ずかしいことが多々あるのだ。


五ヶ月前、工藤からチャリを脅し取った宰は、なんと大阪東京間をたった一日で走破したのだという。いくら優秀なアルファといえど、やばすぎる。常にリミッターが外れている状態なのかもしれない、と工藤は引きに引いた。


そしてその道中を逐一Twatterで実況中継していたせいで、宰は学内でもかなりの有名人になってしまった。

元々おかしな奴として医学部のなかではそこそこ顔が知られていたが、今では他の学部からも「チャリで東京まで行ったやべーアルファ」として認知されている。

そして工藤は「やべーアルファの世話をするベータ」として、望まぬ知名度を得てしまった。


宰はそれでも変わらない。

周りの雑音など気にならないとでも言うように、彼の視線はひたむきに東の空だけを見つめている。


それにしても、なぜ再び「航ちゃん」に会いに行くことになったのか。工藤はひとり首を捻った。まさかあれだけのストーカー行為をされて、絆されるはずがない。


そんな工藤の疑問を知る由もなく、宰は優雅に生ビールを口にしながら、にやにやと説明した。


「前回行ったとき、僕はほぼ一文なしだっただろう。そのときに、航ちゃんがお金を貸してくれたんだ」

「……お前が居座ったから仕方なくじゃないの?」

「今回は、お金を返しに行くんだ」

「……直接行くのか?」

「そうだ」


そう言い切った宰の瞳は澄み切っていた。いくら借りてるか知らないが、口座振込か現金書留でいいだろう。なぜわざわざ会いに行く必要があるのか。


さらに聞けば、今回東京へ行く件については「航ちゃん」も承諾済みらしい。一体何があったというのか。これが宰の妄想ではないとすれば、「航ちゃん」の判断能力自体が問われるところだ。

彼は恐怖のあまり、精神に異常をきたしてしまったのかもしれない。


あまり酒に強くない宰は、ご機嫌でビールを飲み進めながら続けた。


「残念ながら、今回は新幹線で行くから自転車アルジャンテはお留守番だけどね」

「……チャリのことアルナントカって呼ぶのやめてくんない?」

「なぜだ」

「頭痛くなってくるから」

「工藤、僕の戦友ともを侮るのはやめてくれよ」

「いや、元は俺のチャリ……、まあいいや」


宰にいちいち突っかかったってダメだ。工藤は諦めてお通しをつついた。そしてメニューをめくったところで、突然宰がわざとらしい咳払いをする。


「ところで、航ちゃんはお兄さんがいるらしいんだ。航ちゃんから贈られた服はお兄さんから譲ってもらったものらしい」

「唐揚げ頼んでいい?」

「そんなわけで、将来航ちゃんと正式にお付き合いとなったときのために、挨拶の練習をしたいんだが」

「やめて」

「よし、やろう。……んん、はじめまして、狩野田です。よろしくお願いします」

「…………」


何か始まったな、と思いながら工藤はメニューをめくる。

三年間の付き合いのなかで、多少ガン無視を決め込んでも宰が気にしないことを、彼は知っていた。


「違うな……。狩野田宰です。よろしくお願いします」

「あ、すいませーん。注文いいですかー」

「分かった。名前の前にひと息ついた方がいいな。ごほん、狩野田…………、宰です」

「生ひとつ追加で。あと唐揚げとたこわさとー、あ、豚平もください」


仮想航ちゃん兄に仕立て上げられたのは不本意ではあるが、宰が楽しそうに続けているので、工藤はそのまま無視しておいた。

パターン違いの挨拶を十数回ほど試されたあと、宰は確信に満ちた表情で「これだな」と頷いたが、それもさらに無視する。


徐々にテーブルの上に料理が並び始めると、宰は「そういえば聴かせたいものがある」と言ってスマホを工藤へと差し出してきた。

最新型の機体に、ご丁寧にいそいそとイヤホンを差して、不敵な笑みを浮かべる。


「最近、航ちゃんと電話するようになったのは工藤にも言ってたかな?」

「……一週間に一回、十秒までってやつ?」

「そうだ」


LIMEの交換から始まり、宰は徐々に「航ちゃん」のハードルを下げつつあった。

これぞ執念の為せるわざ。

「声を聞きたい」と毎日言われて、「航ちゃん」は参ってしまったのだろう。

そのうちこの電話の秒数や頻度も増えるのかもしれない、と工藤はぞっとした。


宰はLIME画面を開くと、なめらかな動きでメッセージを遡っていく。

宰が送った論文のごとき長文に対して、航ちゃんはほぼ毎回「そうですか」「わかりました」「はい」の三種類で対応している。

あまりの温度差に、工藤の胸はさすがに痛んだ。


そして宰の指は、あるひとつの音声メッセージで止まった。

受話器のマークと「0:02」の表示。

工藤は意味が図りかねて、目の前のにやけた顔を見る。


「これだ」

「……これが何だよ」

「航ちゃんが一度通話と間違って音声メッセージを送ってきたときの代物だ。まずはこれを聴いてほしい」

「いらない」

「遠慮するな、工藤」


工藤が拒否しているのにも構わず、宰は友人の耳にイヤホンを突っ込んでくる。

ジ、という音のあと、聴いたことのない男の声がした。


『……宰?』


たったそれだけだった。

おそらく、「航ちゃん」の声。

まだ見ぬ被害者の肉声に、工藤の目頭は熱くなった。

自分が狩野田のチャリ暴走に力を貸してしまったことは、否定のしようがなかった。

本当に申し訳ない、と彼はうなだれる。


——ていうか航ちゃん、狩野田のこと名前で呼んでるのか。


工藤はますます「航ちゃん」の精神状態を案じた。


「続いてこれだ」


画面が切り替わり、今度は音楽再生アプリが現れる。

「愛のささやき〜東京romance〜」と題されたその曲に嫌な予感が走ったが、宰は何らためらうことなく再生ボタンをタップした。


『〜〜♪〜〜♪』


流れてきたのは哀愁漂う歌謡曲のイントロのようなメロディーだった。場末のスナックを思わせるテナーサックスとアコーディオン、それに重なるマイナー調のギターリフのうねり。間違っても今の時代にはそぐわない雰囲気だ。


「……なんだこのムーディーな曲」

「ふふ、僕が音楽編集ソフトを買ってイチから作り上げた曲だ」

「すごいけど……うん、すごいな、お前……」

「自信作なんだ」


三回生の終盤から試験の連続だったというのに、よくそんな暇があったものだ、と工藤は呆れた。そしてセンスが斜め上すぎる。

宰は発想から行動までの導火線が極端に短い。火をつけた次の瞬間には爆発しているのが、狩野田宰という男なのだ。


メロディーはBメロへ進み、徐々に音数を増していく。

工藤はひどく困惑していた。


——何なんだこれは。俺は何を聴かされているんだ。


そして曲は、サビらしき盛り上がりを見せた。




『〜〜♪ 〜〜♪ 「宰?」 〜〜♪〜〜♪ 「宰?」〜〜♪〜〜♪「つか』




「あっ、無理無理、無理です」


工藤は反射的にイヤホンを投げ捨てた。

いくらなんでも、これはきつかった。


ムーディーメロディのなかに航ちゃんの囁き。狩野田というこの狂人は、絶対に混ぜてはいけないものを混ぜたのだ。

聴き続けたら頭がおかしくなりそうなほどのコラボレーション。


しかし宰は、ドヤ顔でこちらを見ていた。

正直ビンタしてやりたい、と工藤は強く思う。そして恋で正気を失っている友人を、厳しく睨みつけた。


「……笑えないやつ聞かせんなよ」

「メロディに航ちゃんの声がよく映えているだろう?」

「話聞いてるか?」


工藤の賞賛が得られなかったことが不満だったのか、宰は眉根を寄せて身を乗り出してきた。


「航ちゃんの声の何が不満なんだ? これを目覚ましにすると寝覚めがいいんだぞ」

「不満があるのはお前の頭だよ」

「違和感がないようにメロディに組み込むの、結構苦労したんだ」

「…………」


あかん。

大阪四年目にして、工藤の脳からはその単語がスルッと出た。

これはあかんやつや、と。


工藤には、普通に生きている人だったら絶対に分かる。宰を野放しにしてはいけない、ということが。


「……狩野田、お前もしかして」


さらに嫌な予感に襲われて宰を見れば、自称スーパーアルファの男は睫毛を伏せ、照れたように言った。


「航ちゃんにも、聴いてもらおうと思ってる」

「ひぇっ……」


工藤の口から悲鳴がこぼれた。

無関係の人間ですら鳥肌が立ったのに、渦中のど真ん中にいる「航ちゃん」がこんなものを聴かされたらショックで死んでしまう。

それではあまりにも惨すぎるではないか。


工藤はジョッキをきつく握りしめながら、決意した。チャリを貸して、ストーカーに被害者との繋がりを作らせてしまったのは自分なのだと。ひとりの男として、責任を持たなければいけない、と。


——航ちゃん。今度こそ、君を救ってみせる。


「……なあ、狩野田」

「ん?」

「航ちゃんとの再会を祝してさ、今日はパーッといこう」

「工藤……! 君はやっぱり良い奴だな!」

「はは……」


工藤は心を鬼にした。

そして軽口で飲みやすい日本酒を選ぶと、次々に宰に勧めた。


罪悪感で彼の胃はキリキリで痛んだが、ふたりは酒を飲み続けた。

宰は浮かれていた。浮かれていたから、珍しく潰れるまで飲んだ。


「……よし」


テーブルに突っ伏して完全に寝込んだ宰を見届け、工藤は立ち上がる。

彼は、このまま宰を自分の部屋まで連行した上で静かな環境で寝てもらい、思い切り寝坊させるつもりだった。 


——許せ、狩野田。でもいい加減、正気に戻るべきだ。


「……お前を新幹線に乗せてやるわけにはいかない」


何も知らない宰は、ぴすぴす鼻を鳴らしながら「航ちゃん」と小さく寝言を言った。





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