第5話 夜の×××



狩野田宰は隠れたロマンチストであった。


彼はその秀麗な容姿のため、周囲からは常に凜然とした立ち居振る舞いを期待されてきた。

彼は生来サービス精神に長けた人間であったから、それに応えることを苦痛とは思わなかった。

しかしその一方で、宰の心はこの上なく純粋ピュアであった。


宰には五つ離れた姉がいる。

夢見がちな姉から常々「運命のつがい」の浪漫を教え込まれていた彼は、自らの将来の伴侶にも夢を抱くようになった。

現実的にはそんなもの有り得ない、と口ではうそぶきながらも、その無垢な魂には姉からの教えが染み付いていたのだ。


宰の恋愛のバイブルは、姉と母が蒐集していた少女漫画だった。

思春期の彼は家族の不在を見計らい、姉の部屋に忍び込んでは少女たちの甘く切ない恋の応酬に酔いしれたのである。


掌のなかの紙の世界で、彼女たちはきらきらと輝いていた。

宰はその恋愛模様に憧れた。

特に、すべてのしがらみを捨て去ってでも惹かれ合う「運命のつがい」という存在に強く魅せられた。


——いつか、もしかしたら、僕の前にも運命のつがいが現れるかもしれない。


その未来を想像しただけで、彼の幼いかんばせは紅潮した。


そう、宰は典型的なスウィーツ脳だったのである。 

ついでに言うと、一度恋に落ちると視界が普段の五分の一程度まで狭まるタイプの人種だった。


もちろん、完璧主義の彼にそんな自覚はない。宰にあるのは、己が完璧なスーパーアルファだという自負と矜恃である。

スーパーアルファとして、いつか出会うスーパーにキュートなオメガを幸せにするのだという、意気込みもあった。


そして今、彼は初恋というとびきりのスウィーツに溺れていた。






◆◆◆






「……ごめん、狩野田。何を送ったって?」


大阪の某旧帝大の学食で、ベータの友人——工藤は、正面に座る宰にそう尋ねた。

全国各地から学生が集まるこの学内では、関西以外の出身者も多い。

東京出身の工藤は、入学当初、標準語を話す宰に親近感を覚え、軽い気持ちで話しかけたのだった。


それが工藤の苦労の幕開けでもあった。

気付けば、工藤は個性がエグすぎる同窓生の保護者的立場にあった。


そしてつい今しがた、目の前の男が放った言葉を処理しきれずにいた。

宰は優雅に微笑みながら、再度口を開く。


「航ちゃんを想って僕が詠んだ和歌を書いて送ったんだ。25句ほど詠んだ。航ちゃんの航の字は舟に由来してるから、そこにヒントを得て」

「あっ、ちょっと待て、情報量が多い……」


額に手を当てながら、工藤はそこそこ優秀な頭をフル回転し、与えられた情報を受容しようと努めた。


半月ほど前から、元々変わり者だった宰は、輪をかけておかしくなってしまった。

なんでも、キャルメリで買った商品にオメガの匂いが付いていたものだから、それでテンションが上がっているらしい。

そしてその荷物の送り主を「航ちゃん」と呼び、運命のつがいと信じて疑わない。


工藤は正直言って完全に引いていたが、純粋すぎる友人の行く末が心配でもあった。

宰は確かに優秀なアルファであるが、常識の基準を人とは別の次元に持っている。


工藤はなんとか自分を落ち着かせ、宰に向き直った。


「よし、整理しよう。なぜ和歌を詠んだ?」

「想いのたけを抑えておけなくなったんだ。そこで、日本古来の伝統の力を借りようと思ってね。やはり教養を示しておくのは大事だろう?」

「…………」

「そのうち航ちゃんから返歌が来るだろうな……。ふふ、今からどきどきしてしまうな……」


説明を受けたところで無駄だった。

工藤はそう判断した。


運命がどうのこうのと口にし出してからというもの、宰は常にアドレナリンが出ているような状態である。


医者になり、誰かを助ける前にお前が病院に行け——そう言って聞いてくれる相手であればどれほど良かったか。


意味がないと知りながらも、善良な心を持つ工藤は、どうにかして常識を理解してもらおうと会話を続けた。


「……その、航ちゃん? っていう人とは、キャルメリを通じて服を売買しただけの関係なんだよな?」

「服を通じて愛を交わしたんだ」

「いやいやいや金は交わしたかもしんないけど愛は交わしてないだろ」

「しかし俺と航ちゃんは運命のつがいなんだ」


暖簾に腕押しとはこのことである。

少年のように澄み切った眼差しに、工藤は「あっ、これはだめだ」と確信した。


宰は自分の世界にじゃぶじゃぶに浸っていた。溺れていることに気付いていない人間を、そこから引き摺り出すことは不可能であった。


全てを諦めて工藤が水を飲み始めると、宰は得意げに笑みながら、内緒話でもするように囁いた。


「ちなみに、第二弾を考えている」

「…………」


聞きたくないな、と工藤は思ったが、空気を読むスキルを持たない宰はそのまま続けた。


「航ちゃんは栃木産新鮮野菜の段ボールを使っていた。おそらく、栃木出身なのだと思う」

「いや、そうとは限らないと思うけど……」


工藤はか細い声で反論した。

以前「これが航ちゃんだ」と言われて宰に画像を見せられたが、そこにはキャルメリの商品が入っていたという空の段ボールが写ってているだけだった。

「素敵だろう?」と照れる友人の姿は、下手に怪談話を聞くよりも怖かった。しかも宰は、その段ボール画像を待ち受けにしている。


しかし愛の海に溺れた男は、嬉々として続けた。


「僕は静岡出身なわけだろう。ここはひとつ、僕の故郷についても知ってもらえたらな、と思っててね」

「…………」

「もしかしたら、んん、ごほん、航ちゃんが将来、静岡で暮らすことになるかもしれないしな……」

「…………」


そこまで言うと、宰はなぜか頬を赤らめ、少し俯いた。テーブルの上で組まれた指が忙しなく動く。


「そこで航ちゃんにな、静岡名物の……う、うなぎパイを送ろうかと思ってる」

「…………」

「ふふ、パッケージに『夜のおやつ』だなんて書いてるから、航ちゃんはびっくりしてしまうかもしれないな……。まあ、他意はない……あれはそもそもシラスが入ってるわけだから……他意はないんだ……ふふふ……」

「…………」

「まあでも、そういう意味で航ちゃんに意識されるのも、悪くないかな? なーんてね」

「…………」


工藤は「航ちゃん」に心底同情していた。


おそらくオメガなのであろう航ちゃん。

突然和歌をしたためられた航ちゃん。

毎日のように長文を送りつけられている航ちゃん。


工藤も一度、宰からキャルメリでのやり取りを見せられたことがある。しかし途中で体調を崩しそうになったので、全てに目を通すことは固辞したのだ。


さぞかし怖いだろう、そして、さぞかし怯えているだろう……と工藤は顔も知らぬ「航ちゃん」を想った。


しかし工藤になす術はなかった。

航ちゃんはもしかしたらすでに然るべき機関に駆け込んでいるかもしれない。

それも致し方ない。

宰が人の言葉を聞けない以上、権力でねじ伏せるしか方法はないのだから。


もし宰が捕まり、証言を求められたなら。

工藤は目蓋を閉じて想像した。


——悪い奴ではないんですよ。ただ、日常的に頭がイっちゃってるだけで……。


そんな未来を思い描く工藤に、宰は「おっと、そろそろ航ちゃんに追加のメッセージを……」と呟きながらスマホを取り出した。


何も言わなければモテる繊細なつくりの顔をとろけさせながら画面を開いた宰だが、アプリを起動させたあたりで、怪訝そうな表情に変わる。


そしてその数秒後、その顔はさっと青ざめた。


「く、工藤……」

「ん?」

「航ちゃんが、航ちゃんが……」


それは、悲痛な叫びだった。


「キャルメリから……退会、してる……!」





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