美術準備室

山本 日向

第1話 美術準備室

 雨の日が好きだ。立ち止まることをゆるされたような気持になるから。

 私はお付き合いをしている彼氏のことに頭を悩ませていた。こういう時は筆が進まない。ため息をつきながら時計を見た。部活動の終了時間まではまだ40分もあった。

 私は目の前のキャンバスから目を離し、スケッチをする手を止めて、雨粒がポロポロと滴る窓をぼんやりと眺めた。

 私の彼氏は吉田くん、という。吉田くんは剣道部。私は基本的に吉田くんのことが好き。野球部員でもないのに坊主にしているところも、「やべえ」が口癖でちょっと乱暴な話し方をするところも、話し方に似ずとても姿勢が良いところも、低くて良く通る声も。でも、キス。キスをするときに私の唇を割って舌をいれてこようとするのがどうしても受け付けなかった。私はそうされるとつぶってた目を開けて、唇をきゅっとする。可笑しくなって、結んだ口元とは対照的に、どうしてもちょっと目元が綻んでしまう。吉田くんはそんな私の顔を見て、恥ずかしそうに私のあたまをぽん、として撫でてくれる。

 好きなのに”受け付けない”というのはなんとなく気が咎めて、誰かに相談することもできなかった。

 何故、キスって、ディズニープリンセスみたいに、そっと唇を合わせるだけではいけないの?私は本気でそう思っていた。

 誰かとこの気持ちを共有したい。下を向いたままぐるぐると、キスの魔法で王子様と結ばれるディズニープリンセスたちが頭をもたげているのに身を任せていると、ぽん、と宮部先生に肩を叩かれた。私は宮部先生と目を合わせたあと、宮部先生の唇を見つめてみた。

「気が乗らないのなら、好きな色で塗り潰してみたら?」

 と宮部先生は言った。今の気分は水色。タイムリミットがあってもいいから、「シンデレラ」みたいな綺麗な水色のドレスを、悩み戸惑う心に、着せてあげたい。そのあと、キスの魔法で毒リンゴの呪いから目覚める「白雪姫」をモチーフに、林檎の馬車でも描いてみよう。

 たかがキス。されどキス。

 宮部先生に声を掛けられて、キスとはなんぞや、という私の考え、それを絵に描けばいいのかな、と私は思いついて、少し元気な気持ちを取り戻した。

 私は描きかけの静物画の上から、白にほんの少し青を混ぜた色でキャンバスを塗り潰した。

 部活後、皆が帰ったあと、私は美術準備室に残る宮部先生の元を訪れた。宮部先生は部活終わりのこの時間に、赤いきつねを食べるのを習慣にしていた。美術準備室はおうどんのお出汁のいい匂いが漂っていた。

「今日は随分ぼんやりしていたね。どうかしたの?」

 宮部先生は、美味しそうにおうどんを啜っている。

「先生」

 私は勇気を出して、”キス”の話しを切り出した。そのことが気になってキャンバスに集中できなかった。何故、男の子はキスをするときに、唇をこじ開けて舌を入れてくるの?

 宮部先生は、おうどんの容器を持ったまま、こちらに近づいてきた。そして、お箸でおうどんをひと口分掬い、それを私の唇に当てた。私はいい匂いにつられて、素直にそれを一口啜った。宮部先生は私を見て弱く笑った。

 宮部先生はそのあと、おうどんをひといきで食べてしまった。食べたあと、窓の方を見て、一杯の赤いきつね、と呟いた。まだ、雨は降り続いていた。

 私は吉田くんと一緒に、一杯の赤いきつねを分け合って食べてみよう、と思った。

 

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美術準備室 山本 日向 @tomatoishi

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